13.見えない世界とお別れです
この数日で私の世界は目まぐるしく変わった。
一人でじめっと隅に生きていたそのぼやけた視界が、淡くて明るくて優しくて温かいものになった。
ぼやけた世界は、見たくない現実を少しだけ隠してくれる。
目にうつる世界は、少しぼやけた方が綺麗にうつるもの。
けれど、時には大事なものまでぼやけてしまう。
小さな小さなその人の優しさや心まで隠してしまう。
見たくないものまでうつしてはしまうけれど。
『笹部さんって変わってるね』
その日見た夢は、懐かしくて苦い思い出だった。
絶妙に心を抉るその笑みが、忠実に再現されている。
変わり者、友達のいない私。
けれど周りが気になって、自分を貫けない弱い私。
孤独だった中学生の自分と、高校に入ってからも変わらなかった半年間。
良いことがあったからと言って、そんな簡単には忘れられない。
嬉しいことがあった時に限って、そうやって辛かった記憶が戻って来る。
怖いから、なのかもしれない。
ジッと陰で生活する日々から抜けて、変な注目を浴びて、また前のように戻ってしまったならば。
やっぱり大人しくしていた方が良かったじゃないかと後悔してしまったら。
どうしても不安ばかり頭をよぎった。
「……でも、頑張る」
朝、ベッドの上で抗うように手を握りしめる。
一歩進んで三歩下がってしまっては意味がない。
目をそっと閉じて、必死に思い出す。
『眼鏡、一番かわいいやつ選ぼう』
『理子ちゃん、可愛い!』
はっきりと見えた苦い記憶と、ぼやけてしか見えなかった優しい世界。
それは何だか勿体なくて悔しいとさえ思ったから。
このままで良いなんて考えは、とても失礼な気もしたのだ。
「あ、理子ちゃん! おはよう!」
「桃ちゃん、おはよう」
明るい声に笑顔を見せる。
いつものようにギュッと抱きしめてくれる桃ちゃんに、私も抱きしめ返した。
ざわざわと周りが驚いたような声をあげている。
臆病な私はやっぱりその声に少し冷や汗が滲んでしまう。
それでも、引きつった私の笑みを桃ちゃんはつついてこなかった。
代わりに頭を撫でて褒めてくれる。
「おはよう……って、あ! いた、桃ちゃん! 笹部さん!」
「ん? あー、玲ちゃんおはよう」
「うん、おはよう……じゃなくて!」
「え、なに? 何かあった?」
「それは、こっちの台詞!」
そして今日もまた、少しだけいつもと違った。
世界が広がったといえど相変わらず桃ちゃんとしかまともに話せなかった私に、さらに声をかけてくれる人がいたのだ。
玲ちゃんと桃ちゃんが呼ぶ相手、原さんだ。
原さんと一緒にいるのは、仲の良い三宅さんと蒼井さん。
ずいっとすぐ近くまで来て顔を覗くから、私でも見分けがつく。
少し怒ったような表情に思わず体が後ずさって、桃ちゃんが支えるようにぎゅっと手を繋いでくれた。
「どうしたの、そんな鬼気迫る顔して」
「鬼気も迫るよ! ちょっと、すごい噂になってるよ? 昨日、王子様に突撃したって」
「そうそう! というか王子様に妹がいたって聞いたけど本当!?」
「私は王子様が笹部さんと恋人繋ぎで歩いてたって聞いたけど?」
「……どっからどう流れた噂なの、それ」
勢いのある矢継ぎ早な質問。
桃ちゃんが呆れたように返す。
けれど原さん達の勢いは止まらない。
「桃ちゃん、佐々木だもんね? 妹なら桃ちゃんの方だよね? どうして言ってくれなかったの、私達さんざん王子様の話で盛り上がってたの知ってるくせに!」
「あー……、ごめん? 言い出しにくくて」
「そして恋人ならどうして私達に教えてくれなかったの笹部さん! 私達がギャーギャー言ってたの流石に知ってるでしょ!?」
「え!? こ、恋人!? ち、ち、ちがっ、そんな畏れ多い」
「笹部さん、遠慮しないでさあ、正直に吐く!」
どこからどう弁明すれば良いのか、分からなかった。
詩音先輩が人気者だってことも、いつだって人に囲まれていることだって知っていた。
だからこうなるかもしれないと、そう覚悟は決めていたはず。
けれど実際こうして迫られると、上手く返事ができない。
分不相応であることは、承知の上だ。
お人形さんのように美しくて多くの人を惹きつける詩音先輩と、人との会話すらまともにできない私ではあまりにつり合いが取れない。
だからこういう反応がくるのは仕方が無いと、私でも思う。
そうするとどうしたって中学の頃の棘が痛み出して委縮してしまう私。
『すごく嬉しいよ』
けれどそうして尻込みした私の頭に、詩音先輩との記憶が浮かんだ。
私の足をグッと踏みとどまらせる。
確かに分不相応でつり合っているとは自分ではとても言えないけれど、詩音先輩はそれでも笑って喜んでくれた。
頑張ると決めたのは自分だ。
その頑張るは、詩音先輩と桃ちゃんにだけ発揮すれば良いわけじゃない。
だってここで私が否定したり黙ったりしてしまったら、素で接してくれただろう2人に失礼だから。
「あの、恋人では……ないです」
「隠さなくて良いよ! だって恋人繋ぎ」
「し、してない! 詩音先輩の優しさだから!」
「というか王子様との関係は? 詩音先輩って、どうして名前呼びなの? 仲良しなんでしょ」
「たまたま! たまたま話す機会があって、桃ちゃんと詩音先輩が話しかけてくれて!」
上手な返答は、出来た自信がなかった。
勢いのままに聞かれる問いに勢いのまましか返せない。
自分の言葉はきっと原さん達の納得いくような答えにはなっていないはずだ。
説明がなにもない。
きっとじれったいのだろう。
原さん達を纏う空気がピリピリと緊迫したものになったのが分かる。
怒っているのだろうか。
そう思うくらいに鬼気迫るものを感じた。
「ちょっと、玲ちゃん。そんなにガンガン詰めてこないでよ、理子ちゃんがびっくりしてるでしょ?」
桃ちゃんがそう言って「め!」と怒ってくれる。
私と原さん達の間に入って守ってくれる。
相変わらず腰が引けた自分が情けない。
「だって仕方ないじゃん。私達が王子様ファンなこと知ってるはずなのにコソコソされちゃ気になるよ」
「そんなこと言われても、私達は騒がれるの好きじゃないって分かるでしょ? だから隠してたのに」
「ならどうして昨日騒ぎになるようなことしたの? 矛盾してない?」
「ええ? そんなの玲ちゃん達に言われる筋合いないと思うけど?」
言葉を失っている間にその場の空気が刺々しくなっていくのが分かった。
桃ちゃんの言葉に怒気が混ざっている。
その空気にようやく私は我に返る。
違う、桃ちゃんが責められる事なんて何もない。
だって詩音先輩に会うと決めたのは私で、桃ちゃんは心配して付いてきてくれただけだ。
桃ちゃんが怒られるなんて絶対に違う。
いまきちんと話して責任を取らなきゃいけないのは、私だ。
遅れてやっと理解した私。
握られたままの桃ちゃんの手を強く握りしめて、「あの!」と割って入った。
「ご、ごめんなさい! 詩音先輩に会うって決めたのは私です。桃ちゃんは、一緒に付いてきてくれただけなの」
そうすれば原さん達の視線がこっちを向く。
鋭い空気に心臓が縛られてちぎれそうだ。
それでも無理やり顔を上げて、声を繋いだ。
とても震えたものになってしまったけど。
「詩音先輩には、私が会いたいって思ったから会いに行った。言いたいことがあって、言う機会を失ってしまって、けれどやっぱり言いたかったから会いに行った。桃ちゃんは心配してくれただけなの、だから怒るならどうか私に!」
ぎゅっと目を閉じて断罪を待つ。
いつも私を守ってくれる桃ちゃんを庇うことすら一拍遅れてしまう私。
情けなさと、それでも湧いて来る恐怖に内心泣いてしまいそうだ。
けれどここで泣いてしまうのは卑怯だと分かるから目を閉ざして必死にこらえる。
そうすると私の両肩にズシンと力強い力が加わったのが分かった。
「なにそれ、詳しく!」
予定外の明るい声にぱっと目を開く。
すると何故だか超至近距離で目を輝かせる原さんがいた。
あ、まつ毛長い。
綺麗な切れ目。
そして怒って、いない?
「え、えっと?」
「どういう関係なの? え、もしかして片想いなの? でも王子様が連れ去るくらいなんだからまるで脈無しでもない? 詳しく詳しく!」
「え? え……?」
「ちょ、玲ちゃん、だからそんな迫って来ないでってば! 理子ちゃんは私達ノリで生きる人間とは違って繊細なんだから!」
「桃ちゃん、シャラップ! こんなネタ私がみすみす逃すわけないって知ってるでしょ!」
「だから黙ってたの! もう、理子ちゃん怯えさせたら怒るからね!?」
「はあ? 怒ってないってば」
「怒ってるように見えたよ!」
「鬼気迫ってただけだよ、怒ってないよ! だってこんな美味しいネタ、滅多に上がらないんだし」
どうしよう、一体何が何だか分からない。
原さんが怒っているわけではないのは分かる。
逆に桃ちゃんが少し怒っているのも分かる。
けれどそれ以外に分かることがない。
ぽんぽんと宥めるように頭を撫でられて、ぐるりと視線を回せばぼんやりと三宅さんと蒼井さんが見えた。
「あー、ごめんね笹部さん。うちのが本当申し訳ない」
「ありゃどう見たって怒って見えるよね、怖かったでしょ?」
「えっと、いいえ?」
「良かったら許してやって。玲、ただ恋ネタに飢えてるだけなの。あとただ面食いなだけなの。人の事言えないけど」
「えっと、こっちこそコソコソしちゃってごめんなさい?」
「いや、謝る必要ないよ。こうなるからそっとしてたんでしょ? 分かるわあ、話題になりたくないの」
「笹部さん大人しいし尚更抵抗あるよねー、理不尽に詰め寄ったのこっちだからむしろこっちがごめん」
フォローするように優しい声で会話してくれる2人。
原さんが怒っているわけではないのだと、そう言ってくれる。
暴走させてごめんねと謝ってくれる。
ああ、私の方だってごめんなさいだ。
よく分からないまま、勝手に決めつけてしまっていたところがあったかもしれない。
コソコソしていたから原さんが怒っていたのだと。
私があまりに分不相応だから怒っていたのだと。
きちんと聞きも見もしないで、そう決めつけて原さんに言葉を返してしまったのかも。
ぼんやりと曖昧なままだったのは、私の視界だけじゃない。
他にも見なければいけないものを私はぼかして見ないフリをしてしまったのかも。
少し反省した。
「あの、ごめんなさい。勝手に勘違いして失礼な事言ってしまって」
「はい?」
「原さんも三宅さんも蒼井さんも、ありがとう。陰で言わないで、きちんと聞いてくれて、ありがとう」
3人が私を見つめる。
この距離感で私が表情を読めるのは目の前にいる原さんだけ。
きょとんとした顔で、こっちを見ている。
あれだけ言葉を多く交していたのに、沈黙がたっぷり1分ほど続いた。
「……何この子、天使?」
「なるほど、これは脈ありの可能性微増」
「桃ちゃん、笹部さんってもしかして原石?」
「ちょっと、手出さないでよね? 先に見つけたの私なんだからね?」
言葉を理解できたわけではなかった。
そしてよく分からないままギュッと抱き付かれる。
私に抱き着いてきたのは桃ちゃんだ。
「もう本当、理子ちゃん好き!」
「あ、ありがとう。あのね、守ってくれてありがとう」
「こっちこそありがとう! 私すごい幸せ者だよ」
少し大げさな、けれど愛のある言葉にふふっと笑う。
それを見ていた原さん達からも呆れたような笑いが届いた。
「大変だね、笹部さん」なんて言いながら。
「さて、誤解もお互い解けたところで。笹部さん、じっくり話聞こうか」
「……え?」
「あれ笹部さん、忘れた? 私達王子様ファンで恋ネタ飢えてるって」
「えっと、原さんだけじゃ」
「ないに決まってるじゃない。類は友を呼ぶって言葉、知ってるよね?」
「ええ、っと」
「応援、するからさ。どう? 等価交換」
結局のところ、言葉巧みな原さん達に隠し通せたものなんて数えるほどしかなかった。
私と詩音先輩の出会いが美術準備室であることと、私が詩音先輩を人形さんと間違えていたことの2つだけ。
その他は、根掘り葉掘りだ。
眼鏡を一緒に買いに行くのだと言えば、なぜだか原さん達がうずくまって震えている。
「え、えっと桃ちゃん、どうしよう……」
「ほっといて良いよ? 勝手に悶えて浸ってるだけだから」
「……こんなにペラペラ喋っちゃって詩音先輩怒っちゃうかな」
「いやー、これは不可抗力。でも理子ちゃん、頑張ったね」
撫でて褒められ、つられるように笑う。
今日もまた、私の世界が少しだけ広がった。
そうして実感する。
「理子。こんにちは」
「こ、こんにちは、詩音先輩!」
「……? なにか良いこと、あった?」
「ふふ、その楽しみだなって。それが嬉しくて」
「うん?」
「内緒、です」
一緒に出掛けるその日が待ち遠しい。
ぼやけた世界に少しずつ別れを告げる。
気付いた時には、私の顔は自分でも見違えるほど笑顔が多くなっていた。




