第29話 ほんの一瞬だけ
妖魔へ向けて真っすぐに走る。踏みしめる草や土が、足跡を消してくれている。無音の中を駆け抜けながら、アシアラは自分が風になったかのように感じた。
少しずつ距離が縮まるにつれて、妖魔の顔や体がはっきりと見える。それはあの日見た姿とは違うものだ。脳裏に焼き付いた思い出したくない記憶のそれとは重ならない。しかし、胸を締め付けるような気持ちの悪さが、それが復讐の念を向ける先なのだと確信させた。
あと数歩でアシアラの剣が届くというところで、何かに気が付いたように妖魔が振り返る。その眼はアシアラの後方、恐らくはアルバとフードの男がいる辺りを見た。何か動きがあったのかもしれない。
何があったかは分からないが、それに妖魔が気を取られているうちにもう一歩だけでも近づきたい。そう思っていたアシアラだったが、妖魔が後方に気を取られているのは一瞬だった。
目が合った。アシアラの存在に完全に気が付いた。今剣を振れば、切っ先は妖魔に触れるだろう。しかし、それは妖魔が腕をないだときに、その爪がアシアラを捉えるという意味でもある。
直後、視界が一瞬だけ暗くなった。そして、突風がアシアラの頬をたたいた。長い髪が舞い上がる。前髪の一部が空へと消えていく。
妖魔がアシアラに向けて丸太のような腕を振り切り、空ぶったのだ。前髪だけをその爪が捉えて刈り取った。
後半歩でも前に出ていたら首から上が無くなっていただろう。妖魔の一撃は、その巨体から想像した以上に早いものだった。
全身から嫌な汗が沸き上がるのを感じて、アシアラは一歩後ずさる。
「後ろに跳べ! アシアラ!」
右後方から、アルバの声が聞こえた。その瞬間、アシアラは急激に視界が広がるのを感じた。妖魔の顔周辺以外は真っ黒に覆いつくされていた景色の中に、緑や青が映る。
その景色の中央にいる妖魔の姿、その違和感の正体にやっと気が付いた。左肩周辺が渦を巻くようにえぐれている。それが体全体をねじるように傾かせていた。左肩が大きく上がり、右肩は腰の付近まで下がってしまっている。
妖魔は一歩踏み出すと、その勢いのままに右腕を大きく後ろへ振りかぶる。恐らく今のまま立っていれば、今度は腕が届くのだろう。アルバの言う通り跳ばなければいけない。少し後ずさった程度では攻撃が届いてしまう。
そんなアシアラの少し後ろで、アルバはまだ追いつけないでいた。周囲を気にすることもなく真っすぐに走り出したアシアラを止めることができなかった。熊型の妖魔のほとんどは頭部に魔石がある。ただでさえ背の小さい二人なのだから、協力しなければ剣が届きもしない。
走っている間も何度か声をかけてみたはいいのだが、聞こえているのかは分からない。一度目の妖魔の時にも叫んだが、避けるそぶりは見えなかった。偶然空ぶってくれたからいいものを、全身の血の気が引いた。
アシアラは今、足が止まっているようだ。助けるためには、妖魔の攻撃に合わせて間に入るしかないだろう。ローブ男の詠唱に気を取られて出遅れたせいで、ギリギリのタイミングになってしまった。
妖魔の腕に剣を突き立てて勢いを殺しつつ、アシアラを妖魔から引き離すために蹴る。蹴られた場所の骨が折れるくらいは仕方がないだろう。命が無くなるよりも随分とましなはずだ。
残り数歩というところで、アルバは剣を抜いた。妖魔は振りかぶった右腕を振り上げる。間に合う。そう思った瞬間だった。
アシアラが、前へと踏み込んだ。
振り上げられた腕の肘あたりに剣の腹をあて、勢いのままに体を回転させる。かすれば肉片が飛ぶ一撃を、すんでのところでいなしている。そして空中の足場で態勢を立て直すと、さらに剣を抜いて懐へと潜り込む。
巨大な妖魔の胸の高さで足を止める。妖魔は、右手を振り上げた時に捻じれた体を戻しながら、目の前のアシアラをたたき落さんと左腕を振り下ろす。
その妖魔の動きに合わせて、アシアラはさらに上へと跳ねる。妖魔の左腕が地面にめり込んだ時、アシアラは妖魔の頭を真上から見下ろしていた。
そして全体重を乗せた剣を、その後頭部へと突き立てる。ガキリ、と固いものを捉えた音がした。
「やった!」
「いや、浅い!」
確かに魔石を切ったのだが、それは傷をつけただけのようだ。完全に割るか砕くかした場合、妖魔の体は黒く溶ける。
妖魔がアシアラを振り払おうと、頭を大きく振って暴れている。アルバはアシアラを助けるために地面を蹴る。妖魔は今アシアラに気を取られている。腕か背中を足場にすればアシアラの元へ向かえるだろう。
妖魔の背後に回り、その大きな背中へ向けて跳んだ時、風に乗ってローブ男の声が聞こえてきた。
「大地と空を結ぶ赤き柱よ! その猛き炎で全てを灰塵と化せ!」
その瞬間、妖魔の足元に赤い魔方陣が浮かびあがる。先ほど男の拳の周りを覆っていたような赤くて淡い光が波打つ。詠唱が完了したのだ。
この魔法は危険だ。アルバの直感がそれを感じさせた。妖魔の背中を一気に駆け上がると、アシアラの襟をつかんで引きはがす。
その瞬間、炎の柱が眼前に立ち上がった。妖魔を包み込み、焼き尽くさんと燃え上がった。そしてそれはゆっくりと、妖魔とそれに突き刺さっていたアシアラの剣を消し炭にした。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ剣から手を放すのが遅かった。アルバの足が地面についたその横で、アシアラは赤く焼けただれた両手の痛みにもだえていた。




