第九話∶選択
【歩上花太郎】
僕は猫背なのに時々背筋が伸びている時期がある。
それにはちゃんと理由があって、父さんが帰って来たんだ。
父さんの名前は歩上世慈。
アスリート用の義足技師で、父さんの義足は触覚を再現するって評判だ。
ただ、そこまで仕上げるためには膨大な調整時間が必要なのに欲しがる人が後を絶たないから、世界中を飛び回って殆ど家にいない。
そんな父さんはいつも正しく、強く、厳しい人だ。
いつも僕に「やりたいことをやれ」と言うけど、僕はまだそのやり方が解っていないし、それを父さんに聞くことが出来ていない。
とにかく、そんな父さんが同じエリアの空の下に帰ってきたと思うと、それだけで僕の背筋は伸びてしまう。
学校で、咲子の話題をあまり聞かなくなった。
代わりに聞こえてくるのは全国陸上大会800メートル走の連続出場を狙う康介だ。
それを決めるブロック大会まであと3日と迫った頃、僕も康介の練習を見に行くことにした。
クラスのやつらが話してたのを聞いて、心配になったんだ。
「ちょっと背負い過ぎじゃね?みんな重すぎだっつーの。」
「だよな。康介、もっと楽でいいんだぜ。」
康介はニカッと笑って「大丈夫」と言いながら教室を出ていった。
でも多分、大丈夫なわけがない。
この前の朝礼で登壇して以降、すれ違う殆ど全員から「頑張ってください」とか「応援してるぞ」とか声をかけられて、康介はそれに笑顔で返している。
大勢から一方的に浴びせられることの危なさを、僕は身をもって知っている。
やってる側はそんなつもりじゃなくても、食らわされる側はタダじゃ済まない。
それに康介は良いやつだから。
だから、守らないとって思ったんだ。
そしたら暗いグラウンドの片隅で、康介が倒れていた。
そして、どういう訳か救急車を呼ぼうとする僕を必死で止めた。
だけど顔色も青いし、足の形も少し変な気がする。
放っておけと言っているけど、どう見たって大丈夫じゃない。
下手したら死んじゃうんじゃないのか?
ところが康介は、たとえこのまま死ぬと判っててもそう答えるだろうって迫力を放っていた。
そんな相手に具合を聞いても「大丈夫だ」って答えるに決まってる。
だから僕は無言で走り去り、救急車を呼んだ。
僕には倒れている康介が、あの日の咲子と重なって見えた。
康介はオーバーワークで疲労骨折と筋断裂、さらにコンパートメント症候群って難しいやつの一歩手前だったらしい。
もし大会で無理やり走ってたら数年歩けなくなるどころか、最悪は下肢切断の可能性まであったそうだ。
僕が救急車を呼んだことは噂になったけど、それを悪く言う人はいなかった。
でも、康介は学校に来なくなった。
数日後に駅近くの細い道で、松葉杖を放り出してうつむいたまま座りこんでいる康介を見かけた。
何て声かけたらいいか判らなくて見つめていたら、康介もこっちに気付いて、凄い形相でよろけながら立ち上がり
「お前さえいなければ!死んでも俺はやらなきゃいけなかったんだ!!」
と掴みかかられた。
途轍もない量の気持ちが津波の様で、僕は立ってるだけで必死だった。
殴られると思ったけど、康介はそのまま泣き崩れた。
時折何か言おうとしたけど、嗚咽になって言葉にできない。
「こんなことお前に言える筋合いじゃないのは解ってるんだ。でも……」
やっとそこまで絞り出して、また呼吸を奪われる。
それからしばらくして、康介はなんとか地面を見つめたまま話し始めた。
「すまん、何から話したらいいかな。えっと、うちは金がなくて高校行けなくてさ。俺は自信があることも好きなことも陸上しかないから。だから陸上続けるためにどうしても特待に入らないといけなくて、めちゃめちゃ頑張ってた。そのために人に酷いことをしたこともある。」
康介は抱えた二の腕をギュッと握った。
「そのうち、学校でみんなが応援してくれるようになって。あんなことの後だったし思うことも色々あったけど、それでもこんな俺なのにって、やっぱり嬉しかったよ。だから勝って返さないといけないって思った。」
そう言って弱々しく顔を上げた康介の目は「お前もそう思うだろ?」と訴えている。
でも僕には返事出来る言葉が見つからなかった。
「………勝手なこと言ってゴメン。でも、俺は足が無くなっても走りたかった。」
地面を見つめる康介を残し、僕は一人家路についた。
また上手くやれなかった。
そう思ったら涙がこみ上げてくる。
家に帰ると玄関に父さんの靴があった。
正直、今世界で一番会いたくない人だ。
僕は気持ちを落ち着けたくて、なかなか靴を脱げずにいると、その変な間を察した父さんがリビングのドアを開けた。
父さんは僕の顔を見て、鼻を掻いた。
「久しぶりだな。良ければコーヒーを淹れるからお前の最近の話を聞かせてくれないか、後でもいいから。」
僕は頷いてソファに座らされた。
考えてみれば父さんがこんなに時間をくれることは初めてだったかも知れない。
いつも大事なことだけを最短で伝えると、またどこかへ行ってしまう忙しい人だから。
父さんが淹れてくれたコーヒーのいい匂いがする。
前は飲めなかったけど、コーヒーを飲む父さんに憧れて練習したから今はブラックが好きになった。
僕はなんだか嬉しくて、自殺したかった頃の話から今日までの全部を話した。
「そいつがどう考えようと、足を無くして幸せなやつはいないと俺は思う。」
僕の話を聞いた父さんは、最初にそう言った。
「俺が左足を失ったのは5歳の頃だ。今でこそ、それをきっかけにした仕事で飯を食っているが、足が無くなったことは人生を変えるほど重い枷だった。体を失うっていうのはそういうことだし、命っていうのはもっと重い。」
「でも、それは俺の人生で出来上がった俺の価値観だ。だから足を失ってでも走りたかった康介って子を否定するつもりはない。」
父さんは左足に手を置いた。
「やりたいこととどう向き合えているか、それが大事なことだと思う。ただし、そいつのやりたいことを助けるばかりが相手にとって良いこととは限らない。だからそれを見極めるために相手をよく知らなくちゃいけない。」
コーヒーを一口飲んで、父さんは僕を真っ直ぐに見た。
「そうやって、自分が決めろ。そいつにとって何が一番良いことかを考えて、そいつのために自分がやりたいと思えることをやれ。」
正しいかは別にして、康介は康介なりに全部解って僕に何もしないで帰れと言った。
そして僕の理屈に康介の選択を覆す重さはなかった。そうして誰も自分の納得まで届かないまま終わって、前に進めなくなってしまった。
『………勝手なこと言ってゴメン。でも、俺は足が無くなっても走りたかった。』
僕にはキラキラした康介しか見えていなかった。
僕がもっと康介のことを知った上で考えることができていたら、たとえ結果は同じでも今より前を向けていたのかも知れない。
『相手を知って、自分でちゃんと考えるんだ。』
キィン!
また僕の中から音がして、世界が鮮明に見えるようになった。
なんだか少し優しくなれた気がして、何かが溢れ出ていくのを感じる。
その時、父さんが顔を上げた。
唖然とした顔の後、僕をじっと見つめた。
そうして少し考えて
「今から信じられないだろうことを話す。でも大事な話だから真剣に聞いて欲しい。」
と前置きした。
僕は意味も解らず頷いた。
「俺とじいちゃんは、それぞれ特別な力を持っている。超能力とか呼ばれるやつだ。そして恐らくお前も持っている。」
へ???
前置きされたって信じられるもんじゃなかった。
だけど、それを言っているのは父さんなんだ。
こう見えてイタズラ好きなところもある人だけれど、こんな時には絶対にそんなことを言わない人だ。
「悪いが俺もお前に説明してやれるほど詳しくない。何かを感じることは出来るんだが。把握しているのは俺の能力が物体と人体を繋げる能力、じいちゃんの能力が他人の能力と能力を繋げるものだってことぐらいだ。じいちゃんが詳しいから聞くといい。とにかく、自分の力について理解と自覚を持っておくんだ。」
翌朝、「何かあったら連絡しろ。自分一人で越えられることもあるが、越えられないこともある。」と残して、父さんはまた出かけた。
どうも昨晩はあの後、隣のじいちゃんの家に行ってたみたいだった。
父さんはやるべきことをやりきる人だけど、自分にやれることが具体的に無ければ、人に寄り添うことより別にあるやるべきことをやりに行く人だ。
その方が救える人が多くなるはずだって言ってた。
父さんはそうやって生きている。
迷ったから、迷わず進めるようになる。




