第2話 王女様、怖すぎる
「戻れるんですか」
遥斗は、帰還紋を見たまま言った。
「元の世界に」
広間の空気が、ほんの少し変わった。
勇者様は来たばかりだ。
なのに、もう帰る話をしている。
でも、それは当たり前だった。
昨日まで別の世界で生きていた人が、急に知らない場所へ呼ばれたのだ。まず帰れるかを聞く。むしろ、聞かない方が怖い。
「はい」
クラリス殿下が答えた。
「役目を終えれば、必ず元の世界へお返しします。それが勇者召喚の契約です」
「契約……」
遥斗は右手首の紋を見つめた。
私は、つい彼の左手を見てしまった。
薬指に、指輪はない。
次の瞬間、そんな自分が嫌になった。
何をしているのだろう。
この状況で。
こんな場所で。
「急に信じろと言われても、難しいです」
遥斗は静かに言った。
クラリス殿下はうなずく。
「当然です」
「でも、困っている人たちがいることは分かりました」
あ。
その顔は、知っている。
断れない時の顔だ。
「話を聞かせてください」
遥斗は言った。
「俺にできることがあるなら、考えます」
広間のあちこちで、息を吐く音がした。
院長はもう泣きそうになっている。早い。まだ何も始まっていない。
クラリス殿下は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、勇者様」
「ただ」
遥斗の声で、また広間が静かになった。
「俺、帰らないといけません」
私は顔を上げられなかった。
「向こうに、待っている子たちがいるんです」
待っている子たち。
その言葉だけ、変に大きく聞こえた。
子ども。
家族。
そう受け取るのが自然だった。
聞けない。
聞く立場にない。
私は、ただのリシア・アルフェンだ。
「だから、協力はします。でも最後には、帰してください」
「約束します」
クラリス殿下はすぐに答えた。
声に迷いはなかった。
少なくとも、その言葉は嘘に聞こえなかった。
「リシア・アルフェン」
急に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「はい」
「勇者様の帰還紋は、あなたの魔力に反応しました。しばらくは、あなたがそばにつきなさい」
「私が、ですか」
「ええ。制御係として当然でしょう」
当然。
そう言われると、断る理由が消える。
「承知しました」
私は一礼した。
遥斗がこちらを見る。
知らない人を見る目だ。
それなのに、少しだけ安心したように見えてしまった。
「助かります。正直、何も分からないので」
「分からないことは、何でも聞いてください」
「ありがとうございます」
また礼を言われた。
私は笑った。
ちゃんと笑えたかどうかは、分からない。
*
勇者様は別室へ案内された。
身体確認と、簡単な説明を受けるらしい。
私は召喚広間に残り、床の魔力残滓を確認していた。
広間はさっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。
召喚陣の光は、もうほとんど消えている。
「リシア」
ノエルが記録板を抱えて近づいてきた。
「残滓の記録は、こっちで取る」
「助かります」
「君は?」
「殿下に呼ばれました」
「生きて戻れ」
「王女殿下の私室に行くだけです」
「だから言った」
「本当に失礼ですね」
ノエルは真顔でうなずいた。
「失礼ではない。経験則だ」
「なお悪いです」
少しだけ笑えた。
それだけで、ずいぶん助かった。
*
クラリス殿下の私室に入るのは、初めてではない。
魔導院の仕事で、結界の点検に来たことはある。
けれど今日は、空気が違った。
部屋には侍女も護衛もいない。
窓際の燭台だけが、静かに揺れている。
クラリス殿下は机の前に立っていた。手元には、召喚直後の報告書がある。
「リシア・アルフェン」
「はい」
「明朝、勇者様を王都へ案内しなさい」
「私が、ですか」
「帰還紋があなたに反応しました。それだけで理由は足ります」
「護衛は、どうなさるのですか」
「私服の騎士をつけます。王都警備隊にも通達を出します」
殿下は報告書を置いた。
「表向きは、勇者様の市内順応です」
「表向き」
思わず繰り返した。
「ええ。半分は、それで足ります」
半分。
嫌な言い方だった。
「残りの半分は、何ですか」
クラリス殿下はすぐには答えなかった。
代わりに、別の話を始めた。
「あなたは、護衛としても悪くありません」
「戦闘は得意ではありません」
「知っています。だから良いのです」
「……良い、ですか」
「初めて外へ出すのです。派手に敵を倒す護衛はいりません」
殿下の声は穏やかだった。
「必要なのは、先に気づける者です。民を巻き込まず、帰還紋を乱さない者。あなたは結界と感知に長けている」
反論しづらかった。
私は攻撃魔法が得意ではない。
けれど、結界と感知なら魔導院でも上位に入る。
境界を作ること。
内と外を分けること。
近づくものを見つけること。
そういう魔法だけは、昔から手に馴染んだ。
「勇者様を城内に閉じ込めておくのは得策ではありません」
クラリス殿下は続けた。
「あの方は、説明を求める人です。命令だけでは動かないでしょう」
「そう見えましたか」
「ええ」
短い返事だった。
「ですから、見せます。王都を。人を。生活を」
正しい。
たぶん、とても正しい。
でも、その正しさだけではない気がした。
「それを、私に見せろと」
「あなたは案内役です」
「ただの案内役ですか」
「帰還紋に選ばれた案内役です」
答えになっていない。
でも、間違ってもいない。
この人は、ずっと正しい場所に立って話してくる。
「それに」
クラリス殿下は、そこで初めて私をまっすぐ見た。
「あなたは、勇者様をよく見ていました」
心臓が跳ねた。
「召喚者の状態確認です」
「ええ。それで構いません」
あっさり肯定された。
なのに、まったく安心できなかった。
「ただ、召喚者の状態確認にしては、見る場所が少し個人的でした」
「……何を」
「左手です。薬指」
息が止まった。
「指輪がないと分かった時、あなたは少しだけ息を吐いた。ですが、勇者様が『待っている子たちがいる』と言った瞬間、今度は顔色が変わった」
何も言えなかった。
見られていた。
あの一瞬を。
「責めているわけではありません」
クラリス殿下は言った。
「人の心は、動くものですから」
優しい言葉に聞こえる。
でも、少しも優しくなかった。
「勇者様がこの世界に心を残すなら、それは王国にとって利になります」
私は、ようやく顔を上げた。
「……私を使うおつもりですか」
「あなたが使えるなら」
即答だった。
殿下は少しも迷わなかった。
「ただし、誤解しないように。私は、あなたに色仕掛けを命じているわけではありません」
「では、何を」
「自然にしなさい」
思っていたより普通の言葉だった。
だから、余計に怖かった。
「勇者様にとって、この世界で最初に話しやすい相手があなたなら、それでいい。あなたが勇者様の変化に気づけるなら、それもいい。勇者様があなたに気を許すなら、なおいい」
殿下は報告書を閉じた。
「ですが、あなたが私情で判断を誤るなら困ります」
「……」
「近づくなとは言いません。むしろ、近くにいなさい。ですが、任務を忘れないこと」
声は静かだった。
「勇者様を見ていなさい。帰還紋も、表情も、言葉も。あなたなら気づくでしょう」
私は杖を握る手に力を込めた。
「殿下は、ずいぶん簡単におっしゃいますね」
「簡単ではありません」
クラリス殿下は、少しだけ目を細めた。
「だから、あなたに命じています」
返す言葉がなかった。
丁寧で、正しくて、ひどい。
この人は、私の感情を否定しない。
否定しないまま、使える場所に置く。
「明朝、王都を案内しなさい。市民の生活を見せ、勇者様の反応を観察すること。帰還紋に異常があれば、すぐ報告を」
「……承知しました」
私は一礼して、私室を出た。
扉が閉まる。
廊下に出てから、ようやく息を吐いた。
怒っていいのか、感謝していいのか、分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
明日、私は遥斗の隣に立つ。
望んだ形ではない。
けれど、拒めるほど遠い場所でもなかった。




