第1話 勇者召喚
勇者召喚は成功した。
私だけが、失敗した。
「異界石、安定域に入りました!」
召喚広間に、魔導師の声が響いた。
白い石床には、王国で最も古い召喚陣が刻まれている。その中心に置かれた異界石は、氷のように透き通った石だった。
けれど今は、石の内側で白い光が渦を巻いている。
広間の壁際には王国騎士たちが並び、奥には王女クラリス殿下が立っていた。聖女ミリア様は胸の前で手を組み、静かに祈っている。
私は召喚陣の端に立ち、杖で魔力の流れを押さえていた。
リシア・アルフェン。
王国魔導院所属の魔法使い。二十歳。今回の勇者召喚では、召喚陣の制御係を任されている。
それから、もう一つ。
私は、前世の記憶を持っている。
前世の私は、日本で生きていた。
有瀬澪という名前だった。こちらの世界で生まれ直してからも、その記憶だけは消えなかった。
ただし、それを誰かに話したことはない。
私はもう、有瀬澪ではない。リシア・アルフェンとして、この世界で生きている。
だから前世のことは、胸の奥にしまってきた。
「リシア、出力が上がるぞ!」
院長の声で、意識が戻った。
「分かっています!」
私は杖を握り直した。
召喚陣の線が、床の上で一斉に光る。空気が震え、広間の燭台が小さく揺れた。
古い文献によれば、異世界から勇者を呼ぶ時、召喚陣は元の世界とこの世界の間に一瞬だけ道を開く。
その道を通って来た勇者には、帰還紋が刻まれる。役目を終えれば、その紋を使って元の世界へ帰れる。
だから、これは一方的な拉致ではない。
少なくとも、そういう理屈になっている。
私は、その理屈を何度も確認してきた。
確認しなければ、少し落ち着かなかった。
「来ます」
ミリア様が言った。
次の瞬間、異界石が強く輝いた。
白い光が柱のように立ち上がる。
風が広間を吹き抜けた。騎士たちの鎧が鳴る。誰かが息を呑む音がした。
光の中心に、人影が現れる。
背は高い。細身。黒い髪。
異世界から来た勇者。
そう理解した瞬間、私は少しだけ息を吐いた。
召喚は成功した。大きな事故も起きていない。
あとは、勇者様に事情を説明して、協力をお願いする。
それだけだ。
そう思っていた。
その人が、顔を上げるまでは。
「……え」
声が漏れた。
光の中に立っていた男は、ゆっくり目を開けた。
少し眠そうで、困ったような目。何かを考える時、先に眉を寄せる癖。驚いているのに、周りを落ち着いて見ようとする表情。
杖を握る指に、力が入った。
知っている。
その顔を、私は知っている。
宮沢遥斗。
私が前世で死に別れた、幼馴染で、初恋で、最後の恋人。
私の遥斗だった。
喉の奥が詰まった。
どうして。
どうして、あなたがここにいるの。
私は二十歳で死んだ。
病室で、彼の手を握ったまま、何も返せずに死んだ。
もう二度と会えないはずだった。
なのに今、異世界から召喚された勇者として、彼が私の前に立っている。
彼は二十歳くらいの姿をしていた。
私が最後に見た頃と、ほとんど変わらない。けれど、目元だけが少し違った。
そこだけ、知らない。
私がいない時間を生きた人の目だった。
「勇者様」
クラリス殿下が一歩前へ出た。
「ようこそ、とは言いません。こちらの都合でお呼びしました。私はクラリス・レイヴェル。この国の王女です」
「王女……」
遥斗は小さく繰り返した。
理解は追いついていないはずだ。
それでも、すぐに姿勢を正した。
「宮沢遥斗です。……説明してもらえますか」
丁寧だった。
こんな時まで。
私は少しだけ視線を落とした。
まずい。
懐かしがっている場合じゃない。
この人は、私を知らない。
今の私は、有瀬澪ではない。
髪の色も違う。目の色も違う。顔も、声も、名前も違う。
私は、リシア・アルフェンだ。
「もちろんです」
クラリス殿下はうなずいた。
「ただ、その前にお体を確認させてください。召喚には負担がかかります」
「体は……」
遥斗は自分の手を見た。
右手首には、白い紋様が浮かんでいる。
帰還紋だ。
「少し、若返っている気がします」
その言葉に、院長が顔を上げた。
「召喚体が最も安定する年齢で再構成されたのでしょう。異界召喚では肉体年齢と実年齢が一致しない事例があります。帰還紋が魂ではなく肉体情報に――」
「院長」
クラリス殿下が静かに呼んだ。
声は穏やかだった。
けれど、それだけで院長は口を閉じた。
「詳しい説明は後ほど。今は、勇者様の不安を増やさないことを優先してください」
「……失礼いたしました」
院長は深く頭を下げた。
遥斗は、少しだけ苦笑した。
「いえ。専門家の方がいるのは、安心します」
私は杖を握り直した。
そういうところ。
そういうところを、今ここで見せないでほしい。
その時、遥斗の右手首が淡く光った。
「っ」
彼が手首を押さえる。
帰還紋の光は、細い糸のように伸びた。
その先が、私の杖に触れる。
広間の空気が止まった。
「リシア」
隣でノエルが低く言った。
同僚の魔導師で、何でも記録したがる男だ。
「今、何をした」
「何もしていません」
「本当に?」
「この場面で私を疑いますか」
「現象としては疑う」
「人としては?」
「後で考える」
「最低ですね」
いつもの調子で返した。
返したつもりだった。
声が少し固い。
ノエルはそれにも気づいたような顔をしたが、何も言わなかった。
帰還紋が私の魔力に反応している。
理由は分かりたくない。
分かりたくないけれど、たぶん分かっている。
私は、彼の世界を知っている。
彼の名前を知っている。
彼の過去を知っている。
召喚陣は、それを目印にしたのかもしれない。
そんなことを考えている間に、光は私の杖に触れ、少しずつ落ち着いていった。
遥斗の表情も和らぐ。
「今のは?」
「帰還紋の反応です」
私は答えた。
「勇者様を元の世界へ戻すための印です。召喚直後なので、少し不安定なのだと思います」
遥斗は私を見た。
さっきまでは、王女や広間全体を見ていた目だった。
今は違う。
帰還紋が示した相手として、私を見ている。
「あの」
「はい」
「あなたは?」
名前を聞かれた。
当たり前の質問だった。
私は一拍遅れて、息を吸った。
有瀬澪です。
そう言えたら、どれだけ楽だっただろう。
でも、言えるわけがない。
死んだはずの恋人が、異世界で魔法使いになって目の前にいる。
そんな話を、召喚されたばかりの人間に聞かせていいわけがない。
「リシア・アルフェンです」
私は言った。
「王国魔導院の魔法使いです。召喚陣の制御を担当していました」
「リシアさん」
遥斗が私の名前を呼んだ。
知らない人の名前として。
「よろしくお願いします」
彼は軽く頭を下げた。
広間が少しざわつく。
勇者様が、ただの魔法使いに頭を下げたからだ。
私は慌てて頭を下げ返した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
声は、ちゃんとリシアのものだったと思う。
少なくとも、そう聞こえていてほしい。
ずっと会いたかった人に、初対面として挨拶をしている。
変な話だ。
変な話すぎて、少し笑いそうになった。
もちろん、笑えなかった。




