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帝都不可思議カフェ綺譚―婚約破棄は自称妖精王と共に―  作者: 桃月 とと


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38 メタモルフォーゼ

 ライオネルは満月の夜を何よりも楽しみにしていた。彼が愛するモノの姿が最もはっきりと見える日だからだ。

 彼は本来、妖精を視る力を持ってはいない。ただ、妖精女王(ティターニア)だけは認識できる。彼女に選ばれたからだ。『妖精王』に近すぎず、遠すぎない存在として。


(オリヴィアと対等に話し合うことができ、彼女からの信頼を勝ち得ている者……ということだったな)


 これまでの自身の生き方をこれほど肯定したかったことはない。

 幸運にも裕福な一族の跡取りとして生まれ育ち、悲しくも信頼できる者が少ない世界で、彼は自分を律し、誠実であろうと努力した。だからこそ不誠実な元婚約者の兄であっても、オリヴィアは自分との対話を受け入れてくれたのだと。

 

「ティターニア。約束は覚えているな」


 広いバルコニーの縁に座り月を眺めていた妖精の女王は、人間の方へとゆっくり振り返った。


「《ええ、もちろん》」


 待宵の月を背に、口元に微笑みを浮かべている。まるで一生懸命話す幼い子供を見ているかのようだ。


「《夫を取り戻すことができたなら、(わたくし)はお前を妖精にしましょう》」


 それが彼らが出会った時からの約束だった。


「《思ったよりもその日は早く来るかもしれないわ。お前が余計なことを口にした時はどうなるかと思ったけれど……》」


 優しくライオネルの頬を撫で、宙へと浮かび上がる。バンディッド家の屋敷から少々離れた方向に視線を向けていた。ほんの少しだけ、彼女の張った結界が揺れているのが見えるのだ。二番街に力の強い妖精が遠慮もなく入り込んだのがわかる。


「……妖精王の分離が近いと?」

 

 落ち着き払った態度とは裏腹に彼の声はほんの少し震えていた。まだまだ先だと思っていた彼の心からの望みの叶う日が近いということだからだ。だが興奮に身を委ねることはせず、ライオネルの思考温度はすぐにいつも通りに。


「急激な分離は危険だと言っていたが……それは大丈夫なのか?」

「《今のところは……ね。どうやら二千年融合していたおかげで、アストラの方が随分と柔軟になっているようだわ。何よりオリヴィアが側にいるもの。あの子を傷つけることは絶対にしないでしょう》」


 『アストラ』という名を聞いて、ライオネルの眉間に皺がよる。ティターニア曰く、彼とアストラは似ているらしい。


「《あの子は使命感に支配され、極端に自分に厳しい人間だった……時代がそうしたのだろうけれど……ようやく自分が誰かを頼ったり縋ったりすること……許せるようになったのね》」


 それでもまだ険しい表情のままのライオネルに、困った子ねと言いながら、妖精女王はその人間の眉間を指先で優しくさすった。だが、その皺はなかなか消えない。


「ティターニアもオリヴィアも、その『アーサー』を評価し過ぎではないか?」

「《ええ。そうかもね》」


 彼女は一つの体の中で彼と共に、二千年世界を放浪し世界を眺めてきた。

 自分が妖精王だという自覚以外、アストラにはなにもなかったが、だからこそ自我を保つために『変容』したのではないか、とティターニアは語る。


「《『アストラ』は『アーサー』になったのよ。二千年かけてね。けれど最後に彼を形作ったのは……いえ、その存在を認めたのはオリヴィアだった》」


 少し間をおいて、妖精女王はライオネルの瞳の奥底を覗き込んだ。


「《そしてお前は人間から妖精へ自らの意志で変容しようとしているけれど。それがどういうことか、本当に理解しているの?》」


 それから少し寂しそうに話し始めた。小さく光る遠くの星を見上げ、これまで彼女が眷属として人間を妖精にしてきた話を。

 最初は誰もが幸せそうだったが、時が経つにつれ、人間であった頃を忘れず自我を失った者。妖精達と相容れず孤独に苛まれた者。こんなはずじゃなかったと、もう一度人間へ戻してくれと嘆き懇願して来た者。変わることは、それほど難しい。


「軽く考えてなどいない」


 今度はライオネルが一歩前に踏み出しティターニアに近付いた。目に宿る光が強く輝いている。


「これは私の初めての望みだ。唯一の望みだ。妖精として永久に君の側にいることが」


 これは愛の告白だ。だが、ティターニアの頬が赤く染まることはなく、ライオネルもそれを望んでいるわけではない。

 妖精女王との出会いで、彼の世界は文字通りひっくり返った。価値観が壊れた、と言ってもいい。オリヴィア・ランドルフが言っていた話が本当だった。


 世界には妖精が存在する。


 あまりの衝撃に、自身の正気を疑わなかったわけではない。だが目の前にいるこの世の者とは思えないほどの美しい存在に心が奪われ、そんなことはどうでもよくなった。圧倒的な存在を前に、魂が震えた。もう知らなかった時には戻れない。

 そうして彼の心の奥底から浮かんだのは、理不尽なほどの欲望だった。


『ティターニアをずっと見ていたい。終わりのない世界で』


 あまりにも短く感じたのだ。人間では、彼女と同じ世界に立つことはできない。時間の流れが違いすぎる。

 

「《お前は、私に愛しい夫がいることをいつも忘れているように言うのね》」


 クスクスと笑い始める。ライオネルの答えがお気に召したようだ。


「夫君に迷惑のかかるようなことはしない」

「《お前らしい答えね。けれどそんな心配は無用よ。望むように生きるの。妖精になるのだから》」


 妖精達は皆そうしている、と。


「《あとほんの少し、人間であることを楽しみなさい。私も、ここでの生活を楽しむことにするわ》」


 そのまま風に紛れ、ティターニアは月の光の中に消えていった。ライオネルは先ほど彼女が座っていた場所に自分も腰掛け、月が沈むまで動かなかった。


 

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