34 孤独を育てた魔王
まるで本の中に入り込んだようだった。私の身体は透けていて、辛うじて輪郭だけが見える。夢だと分かっているのに目覚めることができず、恐怖に飲み込まれそうになるのをぐっと堪えて辺りを見渡した。
――《大丈夫よオリヴィア。何も怖がらないで。もうこれは終わったことだから》
隣に浮かんでいたティターニアがそっと私の肩に触れる。
私達の真下には、美しい灰色髪の青年が頭を抱えていた。耳の形がエルフに似ている……だが全く同じではない。大きな神殿の一画にある暗い部屋の中にはブツブツとした独り言が響いている。
「……なんでなんでなんで……」
大理石でできた部屋の入り口に食事を運んできた女性は、その声を聞いて顔がこわばった。そのまま無言でフルーツがたっぷり載ったトレーを床に置き、足早に去って行く。
――この人……この妖精は?
――《この子が魔王。ノヴァっていうのよ。可愛いでしょう? ……今はまだ魔王になる前の姿だから、余計に》
どおりでさっきの女性の服装、いつかマリーの舞台で見た二千年前のデザインと似ていたわけだ、と私は不思議とズレたところで納得した。彼が魔王だとすんなりと受け入れられたのは、これが夢の中だからというのもあるかもしれない。
――《ノヴァはね。母親が人間、父親が妖精なの》
ティターニアはいつものように微笑んではいなかった。
――《人間にも妖精にも拒絶されて。寂しかったのね……あの子は何もかもを欲しがった。家族、友人、恋人を……二千年の間にノヴァと向き合って共に生きようとした人間も妖精もいたのよ。なのにどんどん膨らむ理想に囚われてどちらも受け入れることはなかった……》
目の前で孤独に悶えるノヴァから、妖精女王は一切目をそらさない。
――《ある日あの子は私の眷属にしてくれと言ってきたの。孤独から逃れるには完全な妖精になるしか道はないと思ったのね。けれど私は断った……それがノヴァの本当の望みではないと思って……》
どことなく悲し気な声色だった。ティターニアは後悔しているのだろうか。あの時眷属にしていたら、『魔王』が誕生することはなかったと。
目の前の時間はどんどんと流れていく。まるで動画の倍速機能でも使われているようだ。ノヴァと呼ばれた青年……いや、年齢はすでに二千歳を越えているという彼は、自身の顔に自身の爪でひっかき傷をいくつも作っていた。孤独に耐えられないのだ。私にも、そしてティターニアにも理解できない苦しみが彼の中で渦巻いていた。
――あれ? あの妖精は……?
フと目についたのは美しい銀髪を靡かせた妖精だった。時々ノヴァの前に現れては、軽口を叩いている。孤独に苛まれるノヴァを元気づけようとしているのか、それとも珍しいもの見たさだったのかはわからない。
――《あれが私の夫。アーサーではなく、オベロンと呼んでいたわ》
――あれが……?
アーサーとは似ていない。線が細く、中世的な顔立ちをしている。二千年で姿が変わってしまったのだろうか。なんにしても、あの妖精がアーサーだと聞くと、私は彼を探すように流れていく世界を凝視してしまう。ノヴァの方はそんなアーサー……いや、オベロンに何度も縋りついていたが、妖精王はいつも飄々とした表情で躱していた。
「……全部全部全部全部僕の、ぼぼぼ僕の、モノにす、すれば……?」
そうしてまた独りになると、やはりブツブツと自分に聞こえるだけの声量で未来の魔王は独り言をつぶやき続けている。痛々しいほどの悲壮感が彼の全身を包み込んでいるのが見て取れた。
――魔王は……私の知ってる妖精と……ずいぶん違いますね
彼らはいつだって怒ったり面白がったり、好きなことを好きなだけして楽しんでいる。苦労も苦悩もあるようだが、自分から苦しみの中に囚われ苦しみ続ける妖精を私は見たことがなかった。
――《だってノヴァは人間でも妖精でもないもの》
そこは変えられない事実なのだと、妖精女王は淡々としていた。
これまでもノヴァのような存在は歴史上存在したが、全てが短命(ティターニアから見たら、の可能性もあるが)であり、力も弱く、それこそ多種多様な人生を送っていたそうだ。
目の前の世界がまた変わった。先ほどまでの真っ白な神殿の輝かしさはなくなり、灰色の淀んだ空気に包まれていた。世界が荒廃し始めたのだ。人々は止まらぬ災害に怯え、飢え、秩序を失い、妖精達の亡骸がそこら中に広がっている。
直視できない、したくないのに……夢の中ではそれもできない。そんな私をティターニアが優しく包み込む。
――《ノヴァはね、世界のマナの全てを取り込もうとしているの。そうすれば全てが自分と一つになると信じて。結果的に孤独とは無縁になるとね》
――そんなことができるんですか?
マナについて私はあまり知らない。妖精にとってのエネルギー源であること、人間も多少マナを取り込んでいること、マナが減れば自然界に大きな影響が出ることくらいだ。
――《死んだ肉体からもマナは取り込めるの。人間も、妖精も、生きとし生けるもの全て》
ゾッと背筋が震える。先ほど聞いた『全部僕のものにする』とはそういうことか。
ノヴァの姿はそれほど変わっていないように私には見えた。身に着けているものが『王』らしくなったくらいだろうか。ただ、これまでになかった確信めいた光が彼の両目に宿っている。そこだけは明らかに違った。
「なんとかせねばならない……だが……」
どうやって? と苦悩の表情を浮かべているのは、どこかの国の人間の王。豪華な玉座に座っているにもかかわらず、肌は荒れ、髪に潤いはなく、目がくぼんでいた。
――《なんとかしなければ。人間と妖精で》
突如王の目の前にティターニア女王が姿を現した。憂いた瞳も美しい。
――《こんな世界、少しも面白くない》
『オベロン』王も妻の隣にその姿を見せる。もうヘラヘラとはしていない。
人間の王は大きく目と口を開いたまま数秒の間だけ呆然としていたが、きゅっと唇を結んだあと、
「手を貸してくださいますか。妖精王達よ」
覚悟を決めたように立ち上がった。
――《身も心も強い人間が一人必要だ》
――《自らの意志でその身を捧げられる人間を》
その人間はすぐに見つかった。元々妖眼持ちでもあり、その時代の誰よりも剣術に優れた青年だった。王達の前に跪き、古びた――だが、怪しく輝く宝石の装飾がほどこされた剣を恭しく受け取っていた。
――アーサー!!
黒髪だが、確かにアーサーだ! 私の妖精王。その姿を目にした途端、私の中の心細さが綺麗に消え去って行く。
――《そう。あの人間が今の『妖精王』の芯になっている存在……私の夫はあの子の中の奥深くで眠っているの》
凛々しい瞳でその宝剣を見つめたアーサーは、黙ったまま柄を強く握りしめる。
「《魔王は人間と妖精の力を持っている。こちらも人間と妖精の力なくして対抗できない。人間の子よ。覚悟はあるか》」
オベロンがそっと強張った顔つきのアーサーに近付いた。どこかワクワクとした、場にそぐわない明るい表情になっている。私にとっては見慣れた表情……。
「我が身は世界の為に。必ず魔王を打倒しましょう」
ああ、やはり声もアーサー。これから起こることなど、少しも恐れていないようだ。
「《なぁに。融合など一時的なもの。でなければ今度は我々が魔王になってしまう》」
口元がニヤリとしているオベロンを、人間の王がギョッとした目で見ていた。
「そのようなことは決して」
一方アーサーの方は絶対にないと言い切った。自信があるというより、そうなるものかという決意表明だ。
「《アストラが望めば融合は解けるわ。ただし、千年はそのまま。それでも耐えられる?》」
「無論にございます」
妖精女王の問いかけに間髪入れずに返事をした。アーサーの本名がアストラだと知って、私は急にまた寂しくなる。
ティターニアが満足そうに微笑みを浮かべ、オベロンがニヤリといたずらっ子のように笑った後、一瞬の間があった。人間の王がゴクリと喉を動かしている。
ティターニアが手を振り上げると彼女自身が眩い光の粒へと姿を変え、アストラとオベロンを包み込んだ。そうして二人は一人になった。
――……アーサーは……アストラとオベロン王は無事に分離できていないのですね
ここでようやくティターニアが何を望んでいるのか、何が問題なのかが見えてくる。
――《そうなの。予想以上に魔王との戦いが激化して、アストラは記憶を失ってしまった》
彼女の言う通り、目の前の世界では魔王と妖精王との激しい戦いが広がっていた。世界のマナ半分を取り込んだ魔王は妖精達が使う魔術には極めて強いが、人間的な物理打撃はそれほど得意ではないのだと妖精女王が教えてくれる。なんせ半分人間だ。宝剣もそれを助けているようで、魔王の体が徐々に斬り刻まれ、最後には砕け散った。
――わぁっ!
計り知れないほどの爆発音が世界に響く。これほど驚いても私は目覚めることができない。
――《魔王の死の衝撃で私達は遠くに吹き飛ばされてしまったの》
――……ティターニア様も一緒に融合されていたのですか?
――《ええ。私は触媒のような役割をしていた。オベロンとアストラの融合を安定させるための》
元々は三人で一人だったのだ。人間を妖精として眷属にできる妖精女王の力を持ってしても、それは難しいことだった。
――《二千年かけて私は徐々に姿を取り戻したのよ。ちょうどアーサーがオリヴィアと出会う少し前、ようやくあの身体から完全に抜け出すことができた》
アーサーと呼んでくれたことに私は内心驚く。自分の夫が別の名前で呼ばれていて面白いわけがないのに。
魔王が倒されて百年後、世界は平和を取り戻していた。アーサーはようやく青々とした草原の真ん中で目を覚ます。そうしてそのままフラフラと彷徨い始めた。世界の果てから果てへ……。
――あ……私だ
いつの間にか私達はランドルフ家の屋敷にいた。小さな私が妖精達を相手にはしゃいでいる。この時期、前世の記憶のせいか同世代と上手く遊べなかった私にとって、妖精達はなにも隠す必要もない気楽な相手だった。
――《私が融合から外れたことで、あの体は不安定になったわ。魔王のようにマナこそ取り込んではいないけれど、元々は強い肉体と精神を持った人間と妖精王が合わさった者……危険なの》
本当は融合から千年経てば、今回のティターニアのように徐々に分離するはずだった。だが、記憶がなくなったことによって、そもそも融合していたということをアーサーが認識できずそのまま千年経ってしまったのだ。
――記憶を取り戻せば安全に分離ができるのですか?
――《記憶を取り戻してアーサーが分離を望めば、安全に夫を取り戻せるわ》
それから美しい声でティターニアは語り始める。
――《あの体は主導権はアストラ……いえ、アーサーね。けれどあの体自体がアストラとオベロンという存在にすっかり馴染んでしまっている……よほどハッキリとした意志がなければ分離はできない……かといって妙なきっかけで分離が進めば、二人の力が散り散りになってきっとまた世界が危うくなってしまう》
例えばティターニアが無理やり力を使うとか、ライオネルが不意打ちに全てを話して衝撃を与えるとか、というのが『妙なきっかけ』になりかねないということだった。
――分離したくないと彼が望んだらどうなるのですか?
――《その内魔王と同じ存在になってしまうでしょうね。すでにいつ力が暴走するかわからない存在なのよ、アーサーは》
キッパリと言い切る妖精女王は私の瞳をじっと見据えていた。
――《だからオリヴィアに協力して欲しいの。オリヴィアの望みなら、アーサーはきっと耳を傾けるから》
――そんなことはありません……。
そう言ってみるも、そうであって欲しいという願望が湧いていた。けれど自信はなく、ティターニアの視線から逃れるように足元に視線を落とす。うっすらとした私の輪郭の先に、とびっきりの笑顔のアーサーが見えた。満月の下、小さな私を抱きかかえて屋敷の屋根に飛び上がっている。
(あれは楽しかったな……)
アーサーの過去を知る覚悟はあるなんて言っておいてこの体たらく。
自分自身への怒りと共に、私の視線は上がって行く。
――けれどやりましょう。アーサーと向き合って、アーサーとこれからどうするか、アーサーがどうなりたいか、私もきちんと知りたいので
――《ああ……ありがとうオリヴィア》
世界が光の粒に包まれた。




