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大剣のアリスティア  作者: 雉子谷 春夏冬
第一章「神様は赦してくれない」
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第四話(生まれる前からって卑怯ですよね)・18

 すっかり日がおちて、陰鬱な闇が代わりに降りてきた。

 姫は持ち込んだ手荷物をゴソゴソと探っている。


「はい、ナナシさんどうぞ」


 取り出してきたものは、ナナシの装備の1つ、ベルトに付けていた小型巻取り機だ。


「まさか回収して直してくれていたのか!」


 マナガルムとの闘いで、ナナシでは直せないほど損傷していた物だ。だからこそ苦渋の決断であの場に捨て置いた。長旅に余計な荷物は命とりになる。


 姫が回収していたことも修理していたともナナシは全く思いもよらなかった。


「足りない部品は自作したので完全に同じ物とは言い難いのですが、機能強度ともに同じ性能を保証しますよ。瓦斯ガスも補充してあります」


 見た目には元通りにしか思えない。命には代えられない、そう自分を無理やり納得させ諦めたものが目の前にある。その小型巻取り機受け取ってナナシは抱きしめた。弓と並び、この小型巻取り機はナナシの相棒とも言えるものだったのだ。


「こいつはさ、形見なんだ。アムトの団長がさ、俺がずっと欲しがってたの知ってて作ってくれたんだ。良かった本当に。もうみんなを覚えているのは俺ぐらいしかいないから」


「修理のために分解したからわかります。瓦斯の噴射を利用して動力を得るとか、ハネアゲハシゴエムシの大跳躍を参考にしたのね。どこも実現してないすごい技術ですよ。あなたを守りたい、そんな作り手の想いが伝わってくる」


 ナナシは声にならず、何度も頷いた。


「それに隠しボタンがありました。ほら」


 姫がボタンを素早く3回押した後ひねると、反対側からボタンが出てきた。


「知っていましたか?」


「いや知らなかった」


 聞くや否や姫はそのボタンをまた収納してしまう。


「おい、なんだよ」


「だめだめ、これは私と別れてから使ってください。道に迷ったときに、使うボタンです」


「道に迷った時ぃ?」


「そうですよ。もし別れ道があって、どっちに進んだらいいかわからなくなってしまった時に使うものです。機構上、一度使ったらもう使えません。私と一緒なら迷いようがないのですから、もったいないでしょう?」


 まだ不満そうなナナシに姫は苦笑する。


「ほらもう出発しますよ。ナナシさん、あなたにはねこの里の真実を見てほしいのです」


 姫は外套を羽織って頭巾を目深に被ると、窓を開けてその身を外へと放り出した。


 ナナシは慌てて窓の外を確認すると、こっちです、という姫の声は頭上から聞こえてくる。


「剣は置いて行って下さい」


 ナナシは小さく悪態をつくと、受け取ったばかりの小型巻取り機を装着し、姫と同じく外套を身につけて窓の外から屋上へと踊りでる。


「ま、この里の真実っていうからにはこっそり行くとは思ってたよ」


 屋上をこそこそと行く、2人は建物の縁から下を確認した。

 雨の中でも煌々と辺りを照らす松明を片手に、里人達が巡回をしている。


(硫黄と石灰を混ぜた不知火を知っているのか。変な知識はある里だぜ)


「当然、俺達の夜間外出を警戒しているわけだ。夜出かけちゃいけないなんて言われてないのにな」


「生きているならモトで位置がわかる私にとって、この程度の警備は笊どころがないも同然です。ついて来てください」


 下に降りる非常用の梯子をするすると降り、2人は建物から抜け出した。


 姫を先頭に音もなく駆け抜けると、誰にも遭遇せず、幾ばくもかからないうちに里の外まで来てしまった。焼け落ちた北の狼族の里よりも随分とせまいと感じる。


「ここならもう平気ですね」


 そう呟くと、姫は詠術で指先に光を灯らせた。

 微かな光が照らすのは、広がる荒野と、その風景をぶつ切りにする石造りの壁だ。城壁を彷彿とさせるほど頑強そうで、ナナシ達がイデラと会ったあの寂れた入口とは方角も逆なら、壁もまた対照的に大掛かりだ。


「ずいぶんとまぁ、いきなり様子が変わるもんだな」


「今まで私達がいた所は、里とは言ってもほんの玄関部分です。実はあの人達は普段あそこで生活なんてしていません」


「どういうことだ? なんでそんな七面倒くさいことをする?」


 コツコツとその壁を叩いて歩きながら姫は答える。


「いわゆる対外用ですね。カレドアージュの視察だったり、運悪く迷い込んだ人間に見せても大丈夫な部分だけあえて見せる用です」


 あった、そうひとりごちると姫は片手で壁の一部を押す。すると少し離れた壁が僅かにずれる。


「回転式の隠し扉!?」


「空気の流れが違うのですよね。私から隠したければ、もうちょっと工夫してもらわないと」


 ずれた部分を姫が肩で押してもびくともしなかったので、ナナシが代わりに押し開けた。


「なんか言ってた?」


「独り言です」


 壁の向こう側には数え切れない石碑群が立ち並んでいた。


 霧雨けぶる夜、姫の指先の光にぼんやり輪郭が反射する石碑にナナシは背筋が冷える。


「こりゃあ墓場にしか見えねえが?」


「ええその通りです。木猫族は捧げ場と呼んでいますが」


 不吉極まりないその名称にナナシの顔が歪む。


「ここに真実があると?」


 姫は指先の光を前方に飛ばす。するとそこには木材で造られた、正面が台形になっている建物が照らされた。まるで墓場の主のように屹立している。


「地下水を汲み上げ、浄化する装置ですね」


「こんな、墓場に?」


「木猫族は御子の揺りかご、と呼んでいます。彼らが救い主と呼ぶ男が残した、彼らにとっての聖遺物」


「聖遺物ってことは、ここにあんたの探している御神体か」


 暗闇に邪魔されて、いまいち姫の表情がわからない。


「ここって実は万年水不足に陥る場所なのです。本来なら」


「そんな様子はなさそうだったが……」


「雨は降りますが、こんな霧雨ばかりで貯まりませんし、山が枯れて久しいので貯水もままならない。さらに畜産には莫大な水資源が必要です。家畜や自分たちに必要な食糧は外からなんとか調達できる仕組みを構築しても、大量の水だけはどうにもならなかった。だから、救い主はこの装置をここに残した。かなりの深度から金属成分により汚染された地下水を汲み上げ、それを浄化する装置を」


 姫は勝手知ったる建物なのか、ごく自然にその建物に入っていく。

 ナナシもその建物に足を踏み入れると、灯りが独りでに点く。


「なんだこりゃあ……」


 歩けない程ではないが強めの振動に、低い重低音が腹に響く。

 通路全体が鉄製の細かい網目状で下の様子が見える。ナナシの足下には巨大な同じく鉄製の管が横たわっていた。


 半径だけでもナナシ数人分だ。その巨大な管はある程度真っ直ぐに伸び、あとは底など想像も出来ないほど地下へと向かっている。音と振動はこの管から発せられていた。


「人の手では到底汲み上げられない地下から水を引っ張ってきています。そして浄化炉で飲み水に変える。操作せずともこの装置は動力が供給される限り勝手に動き続けます。ここはまさにこの里の生命線です。と言っても彼らも怖くて普段は近づきません。仕組みだけならなんてことない、ただの装置なのに」


「400年も昔にこんなものを?」


 井戸なら見たことは当然あるが、こんな大掛かりでかつ、浄化する装置なんて各地を放浪してきたナナシでも聞いたこともない。


 実に不思議で不快な気分だった。明らかな人工物で装飾もなにもない無味乾燥なものなのに、べっとりとした悪意のようなものを感じてしまう。


 その管の上に設置された通路を姫はどんどんと進む。


「人力ではないこれは、当然動力源はモトです」


「モト? でもここにモトはないんだろう?」


「ええ、そうです。だから救い主は代々の言葉預かりに維持の方法を伝えてきた。モトの器が大きい人間をこの施設のなかで殺せ、と」


 驚きに、ナナシは聞き返すことも出来なかった。


「人の死はモトに還元される。死喰い虫も待たずとも、死ねば体内モトは空気中に放出されますから。モトの器、要は体内モトを多く貯められる子供を18歳まで育ててこの建物の特定の部屋で殺すと、死体から漏れ出た体内モトがこの装置の動力として吸収されるのです。モトがないと言っても、神罰化に必要な量にまとまってないだけで、僅かにはありますからね」


 淡々と語られる事実に、ナナシはむしろ混乱した。


「本当に? 本当にそんなことを?」


 姫は立ち止まり、進んでいる通路から枝分かれしている先の部屋を指差す。質素というより、無機質だ。人の意志がまるで介在していないぐらい、冷たい扉。

「私の話が本当かどうか、あの扉を開けばわかりますよ」

 ナナシは唾を飲み込む。


「口を抑えて、悲鳴を決してあげないでくださいね」


 姫が開けるその扉の先をナナシは覗く。


 その小部屋は火の色ではない、自然にあるとは思えない赤い光が明滅していた。

 断続的な赤に照らされて、ぼうっと3人の身体が見える。


 胡座をかいた白装束の首なし死体。切断された自分の頭を両手で抱えている。


 目が、閉じられていなかった。恍惚とした表情のまま。


 ナナシは辛うじてへたり込まなかった。予め姫に注意されていなければ悲鳴をあげていただろう。


「こんな、こいつらは、ここの装置のために、水のために殺されたのか!」


「その通りです。薬を飲まされ、恐怖をごまかされて連れてこられたこの子達は、ここで首を落とされてしばらく放置される。体内モトが完全に身体から抜け切るまでね」


 通り過ぎてきた間にも、似たような扉、部屋はいくつものあった。


「この行いを木猫族は神事といい、殺されたこの子達を神事の御子、と呼んでいます。外部から迷い込んだ人も、もてなした後にここに連れてくるなんて当然しているでしょうね。恐らくあの夜毒殺されていたら、私達も御子にされていたでしょう」


「これがあんたが俺に教えたいこの里の真実か!」


「これは真実の前提です。こんな大掛かりな施設と、人の命をふんだんに使ってなぜ大量の浄水が必要なのか。その理由こそ、私がナナシさんに知ってほしい真実です。さあ、この建物を抜けた先に、それはありますよ」


 瞼の裏に先ほどの死体が焼き付いたまま、ナナシは姫の後へ続く。後にした部屋を振り返ることはできなかった。


 言い知れない恐怖が治まると、ナナシの胸に沸いてきたのは怒りだ。


「こんな糞ったれな事をしてまであいつらここにしがみつくのか!」


「そうですよ。ここまでしないと、ここでは水が手に入らない」


 ナナシは改めて口を抑えた。

 ここで幾度となく飲んだ水。


 それは今みたあの子達の命が、連綿と捧げられたこれまでの命が詰まっている。


「俺は、この里の奴らを赦せそうにない……」


 ナナシはぼそりと呟いた。姫はなにも言わなかった。

 通路を抜けて、また出てきた扉を開けると、そこはもう外につながっていた。ちょうどこの建物を直線に抜けた形になる。


「ここから先は本当に木猫族が住んでいる場所になります。見つからないよう慎重に行きましょう」


 明らかに道として整備されていた。姫の言う通り、この先に道を整備するにたる何かがあるのは明白である。


 その道をあえて姫は外れ、緩やかな坂になっている方向へ進む。


 進む斜面が、登ると表現したほうが正確になったころ、ようやく平らな箇所に着く。


「これは……」


 小高いここから見下ろすと、先にある異様な建物がいやでも目に入る。


 建物自体は意匠もなにもない、大まかな輪郭は単純な直方体で、出入り口らしき箇所や窓などが薄ぼんやりと観察できる。


 異様なのはその大きさである。今まで寝泊まりしていた木猫の里、姫に言わせれば玄関と呼ばれていた部分など比べものにならない。


 高さはおよそ1階半ほどと低いが、その面積は集落が丸ごと入るほどの広さだ。


「あれもまた救い主が残した遺物、全天候型飼育施設です。カレドアージェも含め、部外者が絶対に見てはいけない木猫の全て。あそこで木猫族は生活しながら獣を飼育し、屠殺し、食肉加工までしているのです。玄関部分にいた里人も獣もね、ほんの一部に過ぎません」


「一部だと」


 その広大さに驚くあまり、ナナシは呆然と、姫の言葉を繰り返す。そしてその意味を咀嚼したとき姫をまじまじと見た。繰り返しデエルに言っていたから印象に残っている。


『豚は137頭。ここに』


 確かにそう言っていた。


「あそこにいたの百何頭の豚が、ほんの一部?」


 姫は頷いた。


「ナナシさんのその外套、神獣皮ですよね」


「え? いきなり話変わったな、おい」


 姫は自分の外套を摘まんだ。


「私のこれも神獣皮です。外で持っている人は初めてみました」


 ナナシは大きく息を吸い込んで、わざとらしく吐いた。


「本当は言いたくないんだ。わかるだろ?」


「稀少でかつ、人蜘蛛を上回る頑丈さですから、盗まれたり奪おうとする人達に絡まれたりするからですね」


「まあな。これがそうだとよく気づいたな」


 見た目はただの外套と特別差異があるわけではない。


「狼型神罰に噛まれた時ですね。まるで無傷は普通の物質ではありえません」


「その時から気づいていたか」


「ええ。ただ、これの特性は頑丈な布ということだけではないのです。真の特性はモトを流すと負の方向へ力が流れる、ということなんです。衝撃を完全に相殺したり、あるいは」


 そう言うと、姫は詠唱を始める。


「ひかりのかみ、光学電磁超越物質化メタマテリアル展開」


 姫の身体が、正確には着ている外套が中身の姫ごとみるみる無色透明になっていく。


 程なくして本来姫に遮られて見えないはずの背後の景色が完全に見え、逆に姫の身体は跡形もなく見えなくなった時、ナナシはもう驚きを通り越して呆れた。外套から出ている首から上、両手、そしてくるぶしから足先ブーツだけ見えているのはナナシを混乱させる。


「詠術ってやつはこれだから」


「本来、光は私の体を透過できず反射するので背後は当然見えません。でもこの状態の神獣皮は可視光線を迂回させ、背後の情報を周辺にいる人の目に届くよう設計できるので、私が透明になっているように見えます」


「大部分何言ってんのかわかんねぇけど、身体が本当に消えているわけじゃないんだな?」


「ありますよ。触って確認します? あの、やさしくし」


「うるせえ」


「食い気味で言わなくても」


 突然身体が元通り見えるようになった。


「これが、私が派手に久遠城から抜け出しても追っ手を撒けた理由です」


「なるほど、雨も通り抜けて見えるとはな」


「夜で霧雨が幸いしました。昼でどしゃぶりだったらさすがに不自然に映ります」


 姫が一歩横にずれると、そこにははっきりと足跡が残っている。


「あんたが言ってた詠術は万能じゃないってやつか。過信は厳禁だな」


「それに可視光線を常に3次元的に設計、計算し続け、あー、えー、つまり消費モトが物凄いので短時間しかちません」


 話の途中、ナナシの目の焦点があわなくなったのを感じた姫は説明を簡略にして早口で言い切った。


「本題はここから。あなたの外套にも同じ詠術を施せるので、透明化してあの建物へ潜入してもらいます」


「もらいます?」


「私はここで待っています」


「なんで?」


 あの巨大な建物に向かうならナナシでも迷いようがない。でも姫なら性格的に案内しそうなものだ。


「モトの節約です。ここに今はモトがないので」


 こんな便利な詠術がありながら、先程使わなかった理由にもなるが、ナナシの違和感は拭えない。とはいえ潜入なら1人のほうがいいのでそれ以上の追求はしなかった。


「私の神獣皮製手袋をあげます。外套に隠れないブーツから下は包帯状にした神獣皮で巻きましょう」


「そんなにあんの!?」


「あれ? 知りませんでした? 私、お金持ちなんです」


「うぜぇ」


 手早く準備が整うと、姫は注意点を説明した。


「フードで完全に顔を隠してください。それでも前は見えるようにしておきます。むしろフードで前が見えなくなったら詠術が切れているということなので、周囲に姿が見えていることになります」


「なるほど」


「長くは透明状態は続きませんので、入口付近の様子を見たらここに戻ってきてください。それで十分分かりますから。くれぐれも音や足跡には気をつけて」


「わかった。やってくれ」


 外套越しに方に姫の体温が伝わる。


「どうぞ」


 と、言われてもナナシは大した変化を感じたわけではない。ただフードが顔にかかっている感触があるのに前が見えるのが奇妙だった。自分の身体が見えないのも落ち着かない。


 足音を立てず足跡も残さない、それぐらいの隠形はナナシにも可能だ。明かりも問題ない。建物から僅かな光が漏れている。夜目の効くナナシならそれで十分だ。


 向かう途中、見回りをしているの里人を発見した。普段なら気配を殺しやり過ごすが、ナナシは意を決してすれ違う。

 微塵もナナシに気付いた様子はない。相手が持つ松明の熱をこちらは感じるのに、向こうは目すら合わない。

(本当、この便利さに慣れたくないな)


 音と足跡にだけ気を付けながらナナシは進む。


 巨大とはいえ、高さがないため正面まで来てしまえばただ地味な建物だった。それよりも近づくにつれて濃くなる獣臭のほうがよほど異様だ。

(事前に聞いていなきゃとても近づこうとは思わないよな)


 その建物に扉はなかった。入口がぽっかりと長方形の形に虚を見せる。

 むせかえる獣臭にナナシは鼻と口を抑え、侵入した。


 内部は天井から吊された照明が、淡い橙色の灯りで暗闇をほんの少し誤魔化していた。


 そろりと歩を進めると、通路は入口から真っ直ぐに走っている。その両脇は柵で区切られている。


 その柵の向こう側は近づくまでもなく。


 ナナシの想像を絶するほどの数の獣達がいた。


 鼻と口を押さえていたため、ナナシはなんとか声をかみ殺せた。ゆっくりゆっくり細く息を吸って動悸を抑え込む。


 ナナシから見て左側には、里にいた豚なる獣達が横たわっていた。そこかしこから聞こえる寝息は重なりあって地響きにも思える。


 今、見える範囲だけでも数十頭は確実にいるのだ。この先が見通せなくても気配はずっとある。同じように通路の先、柵の奥まで豚が眠っているとするなら、その数はもはやナナシの常識を壊すほどいるだろう。


 幽かな足音が聞こえてナナシはそちらに顔を向ける。ちょうど逆側の柵だ。


 こちらに向かって来た獣は、これもまたナナシがこれまで遭遇したことがない獣だ。


 鹿のように四足歩行であるが、ナナシの背をゆうに超えるほど高い。おまけに鹿よりも足はしなやかに、後ろに伸びる背も長い。


 恐ろしく、そして美しかった。


 その獣はナナシへと直進してくる。つぶらな黒瞳がナナシを見つめ続けている。


(まさか!)


 フードは被ったまま視界は確保できているから、姫の詠術は解けていない。


 だが、明らかにこちらを認識しているとしか思えない獣の挙動にナナシは動揺し、斜めに後ずさりしてしまった。背後の壁にぶつかり音を立てる。


「なんだぁ、誰かいんのかぁ?」


 里人の声にナナシは素早く身を翻し、一目散にもと来た道を駆け抜けた。


 姫のもとへ辿り着いたと同時に詠術は解けた。ナナシはその場でへたり込んだ。


「音を、立てちまったよ」


「大丈夫でしょう。様子はここから伺ってましたけど、騒ぎにはなっていませんし」


「入口しか見ていないが、やばい数だ。数え切れないくらいに。見たことない獣もいたよ。鹿みたいな、でもそれより大きくて、狼とも違う、早く走りそうな」


「その特徴なら馬でしょうね。野生化ではもう絶滅していますから、ここにしかいない獣です。長く、とても速く走る獣で、神罰前は人を背に乗せたり、車を牽いたりしていたとか」


「ここで働かせているとでも?」


「神罰以前の人類について記した古文書を紐解くと、馬の血を利用した繁殖方法が記されていました。妊娠している馬の血の成分には、他の獣の繁殖機能を高める効果があると。豚の繁殖に使われているのでしょうね。ここは獣の農場だから」


「なんだよ、なんなんだよここは。獣の農場だと! そんなことしてまで獣を増やしているだと!」


「ええ、そうですよ、需要に応えるために。数え切れないと言っていましたよね、ナナシさん。私はモトでわかっちゃいます。正確には現時点であの建物には全部で6万2千4百7十1頭います」


「6万……」


 途方もない数字だった。


 6万頭を超える獣。姫の話が本当ならそれは予言の日、6万体の神罰獣となる。百ならなんとかなるなんて考えていた自分がとてつもなく滑稽だ。


「そんなの、どうにもならないじゃねぇか」


 神罰化してしまったのなら、そんな数の暴力を前にナナシにできることはなにもない。姫1人を逃がすことすら命をかけても不可能だろう。姫の強力な詠術だって、6万もの神罰にモトが吸収されてしまうならどこまでのことができるのかは未知数だ。安全をとるなら今すぐにでも離脱するべきだった。


「木猫はそもそも二重の計画で私達を迎えていたのです。1つは毒殺。もう1つは玄関部分だけみせて辞めたふりをすること。あの全天候型飼育施設さえ見られなければ、どうとでもなりますからね」


「そういうことか」


 なぜ姫が絶対に金塊を受け取ると自信があったのか、ようやくナナシは得心がいった。


 全部、ふりだ。金塊を受け取るのも、獣を処分するのも、移住するのも、玄関部分の人と獣で行うだけで、ここにある施設、人、獣はそのまま。ほとぼりが冷めたら玄関にいた移住した人間も戻って全て元通り。金塊を受け取る分、木猫だけ儲けてお終いだ。


「カレドアージェのご老体があまりにも無頓着だから、私もここの存在に気付かないと決めつけたのでしょう。でもナナシさん私はね、実はここに来る前から知ってました。モトで数なんか把握しなくたって、そのぐらいはいるだろうと。だって狩師族は狩猟物を周辺国家に報告を行うのですよ。その数と闇市を含めての実際の流通量が全然違うのです。ご老体は結果さえあれば手段は問わない人だけど私は違う。ここのカネとモノを追いました。届け出のない狩猟物が市場に流れているのはすぐにわかりました。ということは私以外にも気づいている人は大勢います。でもみんな黙っています。それどころか、貴族側が加担すらしている。でなければ闇市なんてずっと維持できるはずがない。肉だけじゃない、獣毛皮の加工や獣由来の効果の怪しい薬やらまもう全く新しい経済圏が王の感知しないところで形成されていました」


 姫の手が震えているのがわかる。


「だって、だってね、どうして需要が増えたのか、どうして木猫はそれに応えたのか。それはね、遡ればおばあちゃんが、虐殺王アイル・エル・ラティカが誰から構わず殺しに殺して経済をズタズタにしてしまったからなのですよ! それがそもそものきっかけなんです。そして決定的になったのは大陸間戦争。兵士に人手を取られ、どこもかしこもまともに農産物が生産できなくなって、死因が餓死であることが当たり前になってしまったのをなんとかしたいと救い主の予言を研究して生産拡大に踏み切ったのです! 人を救うために! 善意が始まりなのです! ここの人達に悪意なんてなかった……」


「でも、でもよ、そんなこと言ったってよぉ」


 ナナシは必死に言葉を探しても、不明瞭な事しか言えない。


「そう、でももうお終いです。ナナシさん、神話獣の発生条件を知っていますか?」


「人を殺しに殺したら……」


 自分の言葉にナナシは察して息を飲んだ。


「もしかして、まさか、人を殺して出てくるのは」


「そうです。体内モトです。神話化は大量のモトを吸った個体なんです。でも体内モトはすぐには他の生物には吸収されません。だから殺しに殺した後、なんです。予言の日、ここに溢れるのは体内モトじゃない! すぐ吸収される普通のモトなのです。6万の獣は6万の神話獣になってしまう!」


 マナガルムにアマルティ。


 姫がいなければナナシはマナガルムに瞬殺されていた。

 まともに対峙していたらアマルティに成す術なく圧死させられていた。


 6万体を超える神話の獣達。


「そんなの、里どころの話じゃない、下手したら国が滅ぶ話じゃねぇか!」


「だから、そうなる前にここの獣を皆殺しにします。私ならできます。神罰化する前なら苦痛なくあの世へ送ることが」


 ナナシは姫を愕然と仰ぎ見た。


「命ってなんでしょうね。人に獣に植物に。全部違うけど、全部命です。豚も鶏もあなたが見た馬も、ここにしかいません。私がこの手で絶滅させるのです。人だけを助けるために。あそこにいる獣達はそのほとんどが外にも出されない。一生をあの空間で過ごします。外を知らないまま、みんなみんな、私がこの手で殺します。6万を超える命を。人を傷つけたどころか、その命で寄り添ってきた存在を」


 この里に入った時から様子がおかしいことはわかってはいたのだ。

(この事実をずっと1人で抱え込んでいたのか)


「なんであんた1人が負わないといけないんだ? もういいじゃねぇか。みんな見て見ぬふりを続けてきたんだろう? そのツケがいまようやくまわってきたってことだろう?」


「ナナシさん」


「逃げちまったっていいんじゃねぇの? ここで放りだしたって」


 姫は首を横にふる。


「誰が! 一体どんな奴があんたを責める。責める資格なんて誰も持ってない。そんな奴、俺が赦さない。俺がそんなやつぶん殴ってやる」


 姫はしゃがんでナナシに目線を合わせる。


「私が責めます。私が私を赦さない」


 その瞳に宿る覚悟を悟り、ナナシの瞼から雨と混じる水滴が零れ落ちる。


「あーあ、そうかよばぁか」


 この姫は、自らを憐れんでは泣けないのだ。


「なら俺が言ってやる! 全部終わったらあんたに言ってやる。助かったって。ティアのおかげで俺は命を救われたって。ちゃんと俺が言ってやる!」


 姫はナナシに抱きついた。その場で崩れないようにしっかりしがみつく。


 暗闇を吐き出す夜空に、押し殺した泣き声が2人分、雨に溶けていく。

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