第三話(知らなかった、は言い訳ですね)・5
ナナシは剣を地面に突き刺して、痺れた腕を軽く動かして筋肉をほぐす。
「大丈夫ですか? その、腕は?」
腕と剣を交互に見ながら姫はナナシを伺う。
「まあ、問題ねぇ。腕も剣もな」
「これを斬りつけて、折れるどころか刃こぼれもしないのですね」
ナナシは剣を背の鞘に納めた。
「レニウムってなんだ? 聞いたこともねぇが」
「ものすごく硬い金属で、溶かすのも砕くのも動かすのも正直かなり厄介です。これを加工する技術があれば、ここは宝の山なのですけれど」
ナナシは壁を見上げて腕を組む。
「登るか? 俺の装備に鉤爪がある。向こうになんとか引っかかれば行けるだろう」
すぐに返事をせずに姫は壁を何度か軽く小突く。
「ナナシさん。ここからは見えづらいのですけど、上の縁の部分、いわゆる天端が剣のように鋭くなっている可能性があります」
姫はナナシに説明しつつ、手品のようにどこからもとなく出した長縄を器用に放る。
縄は弧を描き、縄の中腹が天端に触れると、それだけで縄は両断された。
「軽く探った感じだと、地中にもこの壁は伸びています。ただ、厚みはそこまでありません。地面付近が一番厚く、上下に伸びるにつれ細くなっています」
「上も下も駄目なら、迂回するしかねぇが……」
ナナシは逡巡する。この壁の目的が、内側にあるのか外側にあるのかはわからないが、ここまで大掛かりなことをする者が、迂回すれば済むような隙を作るか甚だ疑問だった。時間を稼ぐのが目的なのか、それとも迂回させて用意した罠へと誘うのか。どちらにしても立ち往生が一番危険ではある。
「師匠なら飛び越えちまうんだがな」
「飛び越える? これを?」
アリスティア姫が目を丸くする。
「何度か空中を跳ねることができたんだよ、あの人はさ。俺はどうやってもできなかったが」
「空気を蹴る、とか?」
その答えにナナシは苦笑する。
「懐かしいな。俺もそう言ったよ。『空気なんぞ蹴れん』だってさ。力に捕まる前にもう一度押すんだそうだ。俺もわからん」
「無重力状態になる刹那よりも短い間に、もう一度推力を得る、ということ? そんなの人の身体能力で出来るのかな?」
顎に手を当てて考え込もうとする姫も、手を鳴らして現実に引き戻す。
「今はそんなこと考えてる時じゃないだろ? どうする? 迂回は現実的か?」
ナナシさんが言い出したのに、と小声の反論をしつつ姫は壁を見上げる。
「私の詠術なら、乗り越えるぐらいならそんなに難しくはないです。土を固めて階段を作ったり。2人が登るくらいならもつでしょう。でも……」
不意にアリスティア姫の瞳の色が、両目とも濃い碧に染まっていく。
「お、おい……」
ナナシは自分の鳩尾が絞られていく感覚に、姫にとっさに声をかける。これは心配からくるものではない。認めがたい感情がナナシの膝を震わせる。
ぱちりと瞬きをしたアリスティア姫は、ナナシを見据える。もう瞳の色は元通りだった。
「この壁は私の詠術でなんとかします」
「厄介なんじゃないのか?」
「そうですね、少し無茶をします。でも本当に退路が塞がれているならどこかで開けておかないと、後々の禍根となるでしょう。それに北の狼族の里へ入る道はこの先です。迂回してもこの壁が続いているのなら、迂回している時間が無駄ですし、余計な危険を招きかねない」
そう言うと、アリスティア姫はその壁を指でなぞり始める。背伸びをしながら真横一直線になぞり、今度は縦方向へ、途中しゃがんで地面付近をちょこちょこと進みながら一筆書きで長方形を描いた。
といっても姫の指に塗料もなにもついているわけでもないので、目に見えてその壁に変化があるわけではない。
その指でなぞっただけの長方形の中心に両手を置くと、姫はなにやら呟いていく。
「神威限定解除」
ナナシは目を見張る。アリスティア姫の銀髪が、金色に輝き始めたのだ。
(黄金よりも輝く艶やかなる髪をもつ……)
それだけではない。姫がなぞった部分が青白く稲妻が走り、ぼやけはじめる。壁は一切動いていない。物音1つたっていない。しかし姫がなぞった箇所は激しく振動し、その輪郭が曖昧に滲んでみえる。
目から入る光景は、驚異的で恐ろしいものなのに、音がすっぽり抜け落ちているせいなのか、ナナシは自分が立っている地面すらあやふやになって、幼いころ迷子になったときの感覚が蘇ってくる。
ただ見ているだけのナナシが疲れを感じるようになった頃、突然稲妻は消えた。
するとアリスティア姫は壁に持たれつつ、ズルズルと崩れ落ちていく。
「おい!」
駆け寄り、完全に地に伏す前に姫の肩を抱き留める。弱々しい笑顔が、ナナシを焦燥させた。
「さすがに、2つも飛ばすのは疲れますね……」
元の色に戻った髪が汗で顔に張りつき、抱いた身体はかなり火照っている。荒い呼吸がナナシの腕に伝わって、抱き留める力の加減を迷わせる。
息も絶え絶えに姫は口を再び開いた。
「私がなぞったところ、白金に変えました。あなたなら、切れるはず」
言われてナナシはその箇所を観察すると、壁の他の部分より、稲妻が走っていた部分は灰色が薄れ、より鮮やかな銀色になっていた。
「おまえ、大丈夫なのかよ?」
「ごめんなさい、少し休めば」
ナナシは右手を姫の膝裏にさし込むと、そのまま抱きかかえて持ち上げる。
「なにを謝る?」
自分に比べれば、この姫は華奢だとよく分かる。
ナナシは後方に控えていた行李の1つを背もたれにして姫を座らせた。
「あんたが回復し次第、切る。今は少し休め」
かかんで姫にそう告げると、すぐさまナナシは周囲を警戒する。姫がこの状態で不意をつかれるわけにはいかない。
生暖かい風がナナシの頬をなで、枝葉のざわめきを伝えてくる。枝を揺らすのは、風か隠れ伏す獣なのか。
まとわりつく油が這うような時間がナナシを苦しめる。
太陽の位置は、ナナシが期待したほど、ほとんど変わっていない。
それでもアリスティア姫はゆるゆると立ち上がった。その様子をナナシは険しい顔で見つめる。
「あんたの詠術がこの先絶対条件って言ったよな?」
「大丈夫です。私、あんまり休み過ぎても駄目なんです。もう動けますし、詠術も行使できます」
ナナシは姫を睨みつける。
「信じるぞ」
それだけ言い残し、くるりと背を向けると、走り出す。
剣を左手の篭手に押しつけて力を溜め込み、壁がナナシの間合いに入った瞬間、銀を奔流が真横に駆け抜ける。
(抜けた!)
弾かれた先程とはまるで違う感触に驚きつつ、ナナシは立て続けに剣を振るう。
4箇所全てを切り払い、最後中心を手で押すと、切り取られた部分の壁はゆっくりと傾き、轟音をたてて地にめり込んだ。
すぐにナナシは壁の内側を覗きこむと、その異臭に肘の内側で鼻を覆う。
濃厚に漂う血の匂い。
「壁一枚でこんなに違うもんなのか」
少し進んで周囲を確かめていると、いつの間にかナナシの後ろまで付いてきていたアリスティア姫も顔をしかめる。
内側の壁には乾いた血が歪な模様と化して、地面にはいつくもの引きずられた跡が走っている。
「やっぱり、逃げられなかったんだな。この壁のせいで」
「ナナシさん。血の跡があんまり古くありません。奥に誘い込まれてから壁が築かれたのだと思います」
「先に進むほか、まあ、ねぇよな」
血が匂いたつような引きずられた跡を踏み越えて、慎重に進む2人。その警戒をあざ笑うように、忽然と行儀良く座り込んだ狼の彫像が現れた。
(狼型神罰!? どっから沸いた?)
驚愕しながらもナナシは一気に駆け出す。狼型は仲間を呼ぶのがなにより早い。
だが、ナナシの予想に反して神罰化した狼がこちらを睨みつけたまま身動ぎもせずに様子をうかがっている。
「照合されてねぇ!」
神罰獣が照合されているか否か、表面の金属光沢が目視でどれくらい滑らかに見えるかによって、ナナシはこれまで見抜いてきた。理論ではなく師匠譲りの経験則だが、外したことはない。
「ナナシさんなにか変です。待って!」
不明瞭な言葉にナナシはちらりと振り返る。少し離れたところに彼女は立っていた。すぐに強烈な違和感に襲われる。
アリスティア姫であることに間違いないはずなのに、人間を見ている気がしない。精巧に描かれた絵画にすり替わったような不気味で異質な不一致を感じる。
ギョッとして体が強張るが、目の前に神罰獣がいると思い直してすぐに視線を戻すと、狼型神罰は距離を詰めてきていた。先ほど見かけたときと全く同じ座り込んだ姿勢のままで。
板かなにかに描かれた絵が近づいてくるような感覚にナナシは吐き気を催すほど気持ち悪くなる。
「なんなんだこりゃあ」
頬に感じる僅かな空気の流れに、ナナシは嫌な予感がしたので剣を振り上げる。確証があったわけではない。目にはなにも捉えていない。
空を切った、そのはずなのに、硬い感触重い衝撃が剣を通して伝わり、中途半端に振り上げた剣は弾かれた。空中で甲高い音と、その後に地面から鈍い衝突音。それでも自分が振った剣になにがぶつかったのか全くわからない。
「姿が見えねえ奴がいんぞ!」
叫び、近づいてきているはずの姿勢をまったく変えない狼型神罰を確認する。しかし今度はその狼型神罰の姿もない。
「見失った!?」
剣を振り上げ、予想にない衝撃に驚いたとはいえ目を離していたわけではない。相手は地面に尻をつけていた状態。動けば必ず気付いたはず。ナナシは慌てて視線を巡らすと、今度は地面に横たわる狼型神罰が見つかる。倒れたまま、動く気配がない。
反射と言っていい速度で、倒れている狼型神罰へ長剣を叩きつける。宙に舞ったのは泥。倒れていたはずの狼型神罰は影も形もない。
「あんな態勢から避けられるはずがねぇ!」
言って、自分の言葉に違和感がある。避けられたことも問題だが、なによりもおかしいのは。
(動いた所がなぜ見えない)
倒れていたのは間違いない。ならば体を起こし、足に力を入れて跳ねるという一連の動きの流れが神罰獣にしてもあるはずなのに、それを一切見ることが出来なかった。
(無色透明にでもなれるってのか)
全く体を動かさず近づいてきた狼型神罰と、無色透明になれる奴が別々にいるのではなく、近づいてきてから透明化し、ナナシの剣がまぐれ当たりして解除されたが、今再び透明化した。
そんな考えに、自分の直感が頭のなかで異を唱えた瞬間、右太腿に灼熱の痛み。何か鋭いものに挟まれている。
苦悶の声を押し殺し、剣を振り下ろす。手応えはまるでないが、挟んでいた何かはなくなった。
「ナナシさん!」
「噛まれただけだ、なんでもねぇ!」
(そう、噛まれたんだ俺は。でも剣は当たってねえ)
そして見えないのは相手が速すぎるからではない。噛んでいるその様すら見えないのは速度でできることではない。
「透明な神罰獣なんか聞いたことねえ。詠術で見えるようにはなんねぇのか?」
「違います! 相手は透明ではありません」
「はぁ?」
「ナナシさん、なんとか壁まで戻りましょう。謎を解かないと、なにもできないまま殺されます」
振り返った先に、いるはずのアリスティア姫の姿はない。
「どこだ? おい! どこにいる?」
「ナナシさん気にしないで、壁まで走って!」
声は割と近くで聞こえるのに、その発している本人の姿はない。
「ああくそ、わけわかんねえ」
悪態をつきながら、剣を逆手に持ち替えて背を庇うようにかまえると、先ほど通った壁の穴へ体を向ける。足を踏み出すと、噛まれた太腿がずきすきと痛みを主張してくるのを根性で無視して走る。見えない敵に、なにもしないまま棒立ちは危険すぎた。
壁まであと少しという所で、剣を持つ右手の手首に激痛が走る。しかし噛まれるなら右手だと予想していたナナシは、すぐさま右手を地面に叩きつける。鈍い手応えとともに痛みから解放される。狼型神罰が狙いやすいように、わざと剣を持つ右手は動かさずに背中側に向けていたのだ。
ナナシが切り開けた箇所をくぐり抜けた刹那、アリスティア姫が叫ぶ。
「つちのかみ!」
切り倒した部分の壁が勢いよく立ち上がり、そのまま蓋をした。すぐさまこちら側に倒されないように土が盛り上がり、壁を支える。
「大丈夫ですか!?」
噛まれた箇所を確認するナナシに、アリスティア姫が心配そうに近寄ってくる。その姿には壁の内側で先ほど感じた気持ち悪い違和感はない。
「噛みちぎられてはいねぇよ。やつらの習性と、あんたの縄に助けられたな」
神罰獣はもとになった獣の種類により、神罰化した後の行動に型がある。狼型神罰は獲物を嬲り、弱らせてから殺すという癖が出やすい。
そして、アリスティア姫が投げていた縄の、壁の内側に落ちた方をナナシは回収していて、逃げると決めた瞬間、手首に巻いておいたのだ。
そのためナナシは痛みはまだ少し残るものの、取り返しのつかない傷までは負わなかった。
「なんだったんだ、今のは」
壁の内側は沈黙している。じっとりとした殺意だけが漏れだしていた。
「あの狼型神罰は、恐らく神話化した獣の影響を受けています」
「神話獣がいるってのか!」
「はい。たぶん、太陽を喰らうもの、マナガルム」




