第五十五話
黒田軍第一師団を率いる栗山善助中将は蒸気鉄甲戦艦の司令室から鹿児島の「内城」を見詰めていた。この内城を居城とするのは島津義弘である、義弘は武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られこの戦国時代屈指の猛将として全国にその名は知られており、特に朝鮮の役で多くの朝鮮人を殺戮したその残酷性は世に怖れられていた。
だが栗山善助が内城を見詰めているとき当の義弘は美濃の関ヶ原にいるはず、ゆえに現在城を守るのは義弘の兄・義久と義弘の子の忠恒であろう。
島津家はその昔、初代の島津忠久が源頼朝公より薩摩国・大隅国・日向国 三国の守護職に任じられそれ以来 南九州の雄族として守護から守護大名 さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧した大々名である。
鎌倉幕府の初期、島津氏は幕府の有力な御家人であった、だが建仁三年九月二日鎌倉幕府の内部で起こった政変「比企能員の変」に連座し大隅・日向の守護職を剥奪されてしまった、以降は鎌倉時代を通し薩摩一国のみの守護職として相伝していくことになる。
やがて鎌倉幕府の力が衰え倒幕の機運が高まった元弘三年のとき五代・島津貞久は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加することになる、貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し鎌倉幕府滅亡に貢献した、その功を以て初代・忠久が成し遂げた薩摩・大隅・日向の守護職を回復し三国の守護大名に返り咲いた。
天正12年、十六代当主 島津義久は沖田畷の戦いで九州北西部に強大な勢力を誇っていた肥前の龍造寺隆信の軍を撃ち破る、この勝利により肥後の豪族らはこぞって島津方に転じ力を得た島津義久は次に肥後で武威を誇っていた北中部の阿蘇氏・甲斐氏らの拠点である花山城、堅志田城、木山城を陥落させ、勢いに乗り九州統一へと乗り出していった。
島津義久は三人の弟(義弘・歳久・家久)とともに九州統一を目指し一時は豊後・豊前の一部を除く九州のほぼ全土を手中に収めるなど九州において最大版図を築き上げた。
しかし天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐に遭いあえなく降伏、再び元領の薩摩・大隅と日向を交渉のすえ何とか安堵された、それ以降秀吉への恨みは島津兄弟に根深く残ることになる。
慶長三年秀吉の死後、十七代目・義弘の子である忠恒が島津家の家老であった伊集院忠棟を殺害したため忠棟の嫡男・伊集院忠真が「庄内の乱」を起こした、この弁明に義弘が大坂に行きそこで親豊臣派として止まることになった、以降 島津氏内部は薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、大坂の義弘の間に家臣団の分裂・分離の軋轢が生じていく。
長いあいだ義弘は秀吉のお膝元の大坂に在り、本国にいる反豊臣的な兄・義久とは疎遠且つ確執が生まれた、それは弟義弘に十七代目の家督を譲ったがそれは名目に過ぎず、本国では依然 島津家の実権は兄の義久が握っていたためだ(両殿体制)。
そのため義弘はこの当時 島津本軍を動かす指揮権などなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が自由に動かせたのは義弘とともに大坂に駐在していた一千五百足らずの兵士しかいなかった。
慶長五年、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと義弘は東軍に誘われ家康方につき、京都守護の任を受けるや手勢一千を率い家康の重臣である鳥居元忠が籠城する伏見城へと救援に馳せ参じた。
だが鳥居元忠は家康が島津義弘に救援を要請したなど聞いておらず、また当時島津義弘が親豊臣派であることは周知であったため鳥居元忠は俄に島津義弘が信じられず入城を拒否してしまった、この仕打ちに義弘は大いに憤慨し当初の意志を翻すと敵である西軍の三成に与することを決意してしまう。
だが石田三成にとって わずか一千五百程度の手勢を率い味方に加えろと言う島津義弘など全く眼中に無く、美濃墨俣での撤退においても前線に展開していた島津隊を見捨てたり、関ヶ原合戦前日の重要会議において義弘が主張する夜襲策など嘲笑無視したのだ。
この度重なる西軍首脳部の無視や冷遇に島津義弘は次第にやる気を失っていく。
ただ単に家康の連絡ミスにより伏見城の入城拒否だけで「鎌倉以来の九州の覇者 島津家を軽んじるとは!」と大いに憤激し短絡的に西軍に与してしまったことを大いに悔やんだという。
かつては「鬼島津」とまで異名とった勇ましい義弘の影は今や無く、大大名のプライドはズタボロ状態になったのだろう、それらから想像するに関ヶ原の戦いであれほど重要な場面でなぜ島津義弘は動こうとしなかったのか…は理解できようか。
鹿児島の内城は、天文十九年(1550年)に島津宗家十五代目当主となった島津貴久によって築かれた城である、貴久は薩摩伊集院の一宇治城から「内城」に居城を移すと三国統一を果たしその後九州一円の制覇を成し遂げた、こうして貴久は朝廷や室町幕府また島津氏一門から守護として名実ともに認められ、それ以降「内城」は島津宗家五十年間の居城となった。
その五十年に渡り城下の街並みや辻は拡充整備され、治水や湊の完成度は大坂に並び称されるまでになっていった、ゆえにいま栗山善助が見る鹿児島の城下町は豊前中津など比べようもないほど大都会に映っていた。
この街を今から焼け野原にするのか…そう思うと善助は(惜しい)と思った、それはこの街を焼け野原にし、再び建て直して元に戻すことなど無理と思えたからだ、それほどまでに鹿児島は盛ん且つ美麗な街並みに見えた。
以前、中津において大殿如水を交えての作戦会議の席で、薩摩の島津だけはそう容易く陥落は出来まいとの観測が議題に上り幾度も検討が重ねられた、そして最終的に島津攻略は緒戦程度に済ませ無理攻めの犠牲を払わずとも関ヶ原の合戦以降 黒田家が天下に覇を唱えれば自然と向こうから領地を差しだしてこよう、ゆえに島津には黒田家の恐ろしさの片鱗程も見せ島津義久を薩摩の地に封じ込めておくが肝要との思惑で諸将の一致を見た。
それは島津家の底力を怖れてのことだった、その当時島津家の本領は薩摩・大隅・日向の三国を領し七十数万石を領すると言われていたが…その実 百万石は優に超えていた。
また兵の数も掻き集めれば三十万余は楽に徴集出来ようか、つまり現在の黒田家など島津にとってみれば歯牙にもかけない田舎大名に過ぎず、いくら優れた武器を所有していようが島津の三十分の一の兵力で九州の半分近くを占める巨大な島津領全てを攻め滅ぼすには無理があり、出来たとしても相当の損害を覚悟しなくてはならない、それより現状保有する戦力はまずは徳川家康の殲滅に注ぐべきとの観測に基づくものだ。
よって如水が島津義弘に降伏勧告状を送付したり このたびの第一師団に依る渡海侵攻などは示威活動に過ぎず、鹿児島「内城」を噴き飛ばしたり その都邑を焼け野原にするなどの攻略は島津家に黒田家の現状の武力の程を見せつけるだけに他ならない。
第一師団の艦隊十隻は二千の兵を乗せ鹿児島の都邑北にある稲荷川河口七町手前で停船した、そして陸に対し四艦の鉄甲戦艦は前衛に配置し安宅軍船六隻は後方につけた、この配置は陸からの砲撃を慮ってのことだ。
この時代、堺で造られた一貫五百匁筒と呼ばれた大筒が市場に多く出回り始めた時期で薩摩も朝鮮の役で戦略上における大筒の重要性を認知した大名だ、黒田家の間諜の報告に依れば堺より一貫五百匁筒数門を購入し、それを模範にして模倣砲を七十門以上は製造したはずと報告されていた。
その砲の諸元は、砲身全長十尺(3030mm)、砲身直径十寸(303mm)、口径三寸一分(95mm)の大筒で、重さ1貫五百匁(5.2kg)の鋳造砲丸を十五町(1635m)ほども飛ばせる高性能大筒である。
黒田の間諜に依れば、島津軍が所有する主要大筒は現在は一貫五百匁筒に統一され、その数は七十門を超えその多くは内城や鹿児島の主要湊である稲荷川河口の湊陣所に配備され、また軍船にも多く搭載されていると調査されていた。
その砲の最大射程は十五町とされ、有効射程は六~八町ほども有り当時としては最新鋭の前装式大筒という、計算上 迎角5度で十五町(1635m)先の目標物に弾を当てるには弾を撃ち出す初速は304m/秒ほどが必要でこの速度で飛んでくる5.2kgの砲丸が木造船などに直撃すればその破壊力は凄まじく船体に50~80cm程の大穴を穿ち、また人に当たれば姿さえとどめないだろう。
しかしこの時代の鋳造技術は巣が多く材料の均一性も甚だ乏しい、その為5.2kgもの砲丸を初速304m/秒で撃ち出すガス圧は凄まじく砲身炸裂は否めない、よって十五町もの距離を飛ばす場合は砲身迎角は20~30度程と大きく傾けたと推測される。
その根拠は、例えば25度の砲身迎角で十五町飛ばすなら砲弾初速=1635・G/sin2αから√20917=145m/秒で済み、5°迎角に対しガス圧は半減でき火薬量も同様である、つまりこの高迎角で撃てば要求距離は達成でき砲の安全も保たれる、しかし砲弾の威力は「ドスン、コロコロ」といった程度になろうか。
ゆえに栗山中将は安田誠二郎中将に言われた「陸から七町以上離れ敵と対峙するが肝要」との助言に従い距離を開けたのだ。
この距離であれば鉄甲戦艦に砲丸が直撃したとしてもへこむ程度だろう、それゆえ鉄甲戦艦の甲板上で働く兵等に「射撃準備が整い次第、それぞれの鉄甲楯櫓に身を潜ませよ」と井関大佐は命じていたのだ。
河口の左岸奥には内城が見え右岸には薩摩水軍の本拠地である造船所や陣所が密集している、そして造船所の奥には東福寺城と浜崎城が並んで威容を誇っていた。
栗山中将は 当初 内城に使者を赴かせ降伏勧告の返答を聞こうと考えていたが既に一刻前に薩摩水軍と戦闘状態になりこれを殲滅した、ゆえに今更使者を出したとて形ばかりに過ぎず使者は殺されに行くようなものだ。
(こうなれば礼を失するが攻撃に移るしかないか…)と栗山中将は河口付近を見つめた。
今や稲荷川河口には無数の早舟が漕ぎ廻り艦隊に接近しては盛んに火縄銃を撃ちかけてきている、また後方の桜島方面からは大型軍船六隻がこちらに向けて迫りつつあった。
「井関よ、致し方ないが戦闘に入るか、まずは目先の五月蠅い早舟を黙らせ後方の大型船は充分に引き付けたところで撃沈せよ」
この命に従い井関大佐は後方の鉄甲戦艦三艦にも同様の命令を手旗信号で伝えると艦の舷側を河口側に向けるよう転回していく、そして四艦を一直線に並べると戦艦舷側左右に装備された各四基の機関砲砲手に「発射用意!」と号令をかけた。
「撃てぃ!」の大音声で戦艦四艦の左舷から計十六門の機関砲が一斉に火を噴いた、それはまるで「ドロドロ」と狂気の早太鼓にも似て恐るべき発射音を奏で甲板上に鳴り響いた。
機関砲は夥しい量の薬莢を吐き出していき、放たれた超音速の機関砲弾は次々に早舟を破壊し乗船している兵を破裂させ肉片へと変えていく。
やがて稲荷川河口が血で赤く染まったころ機関砲は鳴り止んだ。
そのとき三号艦と四号艦から艦載砲の凄まじい連続発射音が海上に轟いた、栗山中将はその発射音に驚き反射的に桜島方向を振り返った。
と同時に桜島からこちらへ迫っていた敵の大型軍船四隻から火柱が噴き上がるのが見えた、距離にしておよそ十町、砲弾は敵船の舳先を貫通し船内で破裂したのか数秒後に四隻の内二隻が火薬誘爆を起こしたらしく隣船を吹き飛ばす程の凄まじい破裂を起こした、そして数分後に四隻ともに海に没していった。
栗山中将は敵の軍船六隻中四隻が沈んでいくのを眺めながら残る二隻にも焦点を当てた、するとこの二隻は慌てるように帆を下ろし始めたのだ。
(なぜ帆を下ろすのだ…これは降伏の意思表示なのか)
そう思ったとき再び轟音が轟いた、三・四号艦は敵の奇異な行動など全く頓着なく命令通り全隻撃沈を履行していく、今度も先と同様に発射した砲弾二発は外れることなく敵船二隻に見事命中し次弾の砲撃で二隻を轟沈させた。
栗山中将は誠二郎が造った正確無比な80mm榴弾砲の命中精度に舌を巻いた、当方浅瀬のため艦の波揺れはないが、それにしても十町も先の豆粒大の標的を一発の外れも無く仕留めるとは神がかり的性能と感じたのだ。
(しかし先程敵船の俄なる帆下ろしは何の意味があったのか、降伏の意味…或いは帆を下ろし 的を小さく見せようと考えたのだろうか)と栗山中将は済んだことだが妙に気になった。
未刻昼八ツ(14:00)海に動く敵船は遠くに小舟三隻ほどが南に向かって漕いでいるのが見えただけだった。
稲荷川河口の右岸には造船所や陣所が立ち並び大型船発着に適した船着き場が五町に渡って設えられている、また左岸も同様に荷揚げ湊の造作が整い黒田艦隊十艦ぐらいは充分に停泊できる広さを有していた。
黒田軍はこの渡し場に上陸し榴弾砲や無反動砲を陸揚げし鹿児島の街を隅から隅まで焼き払うつもりでいた、だが敵も当然それを読んでいるのか河口両岸には多くの大筒が引き出され兵がその廻りで慌ただしく動いているのが朧に見える。
やがて敵は大筒の準備が整いその砲口からは真っ白な煙を吹き上げ盛んに大筒を撃ち始めてきた、「シュルシュル」と不気味な音が海に鳴響き黒田艦隊の前方一町先に水柱が立ちはじめ やがて艦隊のすぐ近くにも水柱が集中してきた。
そして「ドコーン!」という音や「キーン」という音がしたとたん艦が振動した、敵の弾が当艦に当たり始めたらしい、そのとき猛烈なる80mm艦載砲の砲撃音が鳴響き艦全体が激しく横揺れした、鉄甲戦艦四艦から計八門の80mm榴弾砲が陸に向け怪獣に似た咆哮を放ち始めたのだ。
榴弾砲八門より次々と榴弾や焼夷弾が撃ち出されていく、稲荷川河口の両岸辺りに絨毯爆撃の如く無数の砲弾が着弾し破裂・噴煙・火柱が立ちあがった、その赤黒い炎は数十間にも噴き上がり岸辺には猛烈な炎と煙がたちこめると敵の砲撃はいつしか止んでいた。
およそ百発ほどの榴弾・焼夷弾を撃ち込むと黒田軍の艦砲射撃も終息した、稲荷川河口の両岸辺に立ち並ぶ建屋や無数にあった砲列も既に形を成さず紅蓮の炎に包まれ岸辺は判別さえつかぬ有様となっていた、栗山中将はそれを見て「全艦微速前進」の命を下した。
およそ四半時もかけ河口右岸の船着き場に注意深く接近すると乗船兵等は甲板上に立ち陸地に人影がないか短機関銃を構え目で追いはじめた、だが視野の範囲には人の動きはなく焼け焦げた遺体が燻っているだけだった。




