↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/65

第五十六話

 黒田軍第一師団の栗山善助中将は蒸気鉄甲戦艦を率い鹿児島の稲荷川河口付近の港湾設備を艦砲射撃で次々に破壊していった。


やがて下船命令が出され上陸兵らにより迫撃砲・無反動砲・重機関銃、そして荷車に満載された砲弾や銃弾が次々に下ろされていく。

次いで蟻の群れが巣から這い出るが如く短機関銃や歩兵小銃を携えた夥しい数の兵が数珠繋ぎの如く下船していく。


下船した兵等は瞬く間に二十人程の小隊を編成するとその小隊は八十隊を超え 次々に号令を掛け合うと燃えさかる炎をかいくぐり街や山側の方へ駆け足で進軍していった。


鉄甲船艦に残った栗山中将は指令所の椅子に座り横に立つ井関大佐に向かい「我が方の兵士らが目標地点に到着する前に計画通り城や館をことごとく砲撃し壊滅させよ、くれぐれも目標物から砲弾が逸れぬよう砲手にはよくよく狙うよう厳命致せ、それと遠くに見えるあの上山城じゃが…計画では第十小隊が無反動砲五門で潰す計画であったが、絵図で見るより余程近くに見ゆるが…艦載砲でここより狙えるじゃろうか」と振り返った。


「距離にしておよそ三十町弱と見えまする、であるならば艦載砲の射程範囲内にござりまするが」


「そうか、では第十小隊には悪いがあの城も艦砲で潰してしまえ、それにしても薩摩一国だけでも城の多さには呆れるのぉ、いったいどれほど城があるのじゃ、これに大隅・日向の城数を加えれば数えきれぬであろうが…」と言いながら改めて目の前に広がる島津本家の鹿児島都邑をながめ善助は島津の底力を思い知らされた感に身震いは禁じ得ない。


やがて艦載砲は緩やかに旋回を始め照準は南の内城とその奥に霞む上山城そして北の東福寺城と浜崎城に絞られていく、そのとき一号艦の艦載砲二基が突如火を噴いた、それは内城の天守に向けられたものだ、発射の轟音とともに天守は一瞬で破裂し奥に噴き飛んだ、遅れて着弾の破裂音が殷々と鳴り響く。


四艦の艦載砲から次々に撃ち出される砲弾は目標物に吸い寄せられるが如く着実に標的を破壊していく、やがて四城とその周辺の御殿や櫓が紅蓮の炎に包まれたころ町家の各所でも火の手が上がった、それでも艦載砲は鳴り止まず狂気が取り憑いたように鹿児島の街を破壊し尽くしていく。


「井関よ!もうその辺でやめておけ味方が危険じゃ、それと退避にあたり途中の大隅や日向辺りから敵の軍船が反撃を仕掛けてこよう、その応戦に砲弾は必要じゃからのぅ」

栗山中将のその声で砲撃は次第に止んでいった。


栗山中将は床几から立ち上がると燃えさかる城や造船所辺りを眺め、街の方角から聞こえる銃撃音に耳をすませた、やがて空には放物軌道の白い筋を描く無数の迫撃砲弾が飛び交い始めると次第に街全体は紅蓮の炎に包まれていく、栗山中将はその光景を満足そうに見つめるも(実に惜しい…)と小さく呟いた。



 そのころ母利太兵衛中将と黒田直之少将ら第二師団は石垣原の戦いで勝利し、その日の昼前には兵三千の軍列を整えると豊後で西軍に与した「豊後七党」を降伏させるべく実相寺山を下り南へ進軍を開始していた。


第二師団がこの実相寺山に到着する二日前の事、國東半島を石垣原に進軍中に豊後七党の一人である西軍・竹中重隆が護る高田城を包囲した、この竹中重隆の義兄は今は亡き竹中半兵衛であり黒田如水との因縁が深かったためか第二師団が攻撃を仕掛ける前に城を開城し降伏を申し出てきた、母利太兵衛中将は竹中重隆に「これより東軍に与し兵を出してくれぬか」と頼んだところ「今はすぐは出せぬが後ほど必ず出すゆえ御容赦下され」と懇願され渋々これを許した。


その後 高田城の南にある熊谷直盛の居城 安岐城と、垣見一直の居城 富来城はそれぞれ城主が美濃の関ヶ原に西軍として出陣しており留守居は僅かな兵しか残っておらず、ここも第二師団二千五百が城を囲むと抵抗もせず降伏し開城した、これにより目指すは南の佐賀関半島に割拠する残る四党の城々である。


そのころ肥後の加藤清正は豊後・杵築城の松井康之が大友軍に囲まれたがこれを黒田軍が救援し助け、黒田軍はそのまま大友義統の混成軍一万二千と石垣原で対峙したと聞き 黒田軍に味方せんと兵五千を率い肥後熊本の城下を豊後に向け進軍を開始していた。


だが途中、黒田軍が大友軍に圧勝したことを聞くや軍を反転させ引き返した。

大友義統が負けたなら何も急行して豊後に行く必要はない、むしろ西軍の首魁 小西行長や相良頼房を先に討伐すべきであろうと考えたのだ。


加藤清正の領地 肥後は北半分が清正の領地で南半分は宇戸に居城を構える小西行長の領地であった、またすぐ南の薩摩と国境を接する球磨郡の人吉は相良頼房の領地である。


この二人は言うまでもなく西軍の首魁で いつ熊本に攻めてくるやも知れず、清正は黒田救援に熊本を空けることを憂いていた、それゆえ黒田軍が大友軍に勝ったという知らせは嬉しく、豊後に行くと見せかけ 急ぎ転進し小西行長の宇戸城を襲おうと考えたのだ。


また加藤清正は東軍西軍のどちらに与するか態度を明らかにしない肥前佐賀の鍋島直茂の動向も気になっていた、黒田如水から豊後・筑後・豊前小倉を落とすと事前に聞いていただけに己も早期に肥後南に西軍の旗を掲げる小西と相良を落とさねば東軍勝利後の領地割譲に際し優位に運べぬと焦ってもいた。



 九月十三日、酉刻暮六ツ(18:36)黒田軍第二師団は実相寺山から四里南の早川長政が居城の府内城から半里西の王子山に兵を休めると母利太兵衛中将は左に菡萏湾、奥に寒川(大分川)を控える府内城の全景を目に収めた。


この府内城は慶長二年、福原直高によって築かれた城で直高は石田三成の妹婿の関係で臼杵藩六万石から府内藩十二万石に加増転封となり荷落の地に新しい城を築き縁起を担いで「荷揚」と改名した、これが府内城の地である。


秀吉がこの世を去ると直高は家康から府内領を召し上げられ元の臼杵領六万石に減封となった、代わって早川長政が二万石で府内に入り慶長五年六月 早川長政は三成の誘いを受けると西軍に属し七月中旬に大坂淡路町橋を守備、七月下旬からは丹波福知山城主小野木重次らと丹後の田辺城に籠城する細川幽斎を攻め立て、十三日のこの日は日田領主の毛利高政らと丹後の安久口に布陣していたころであろうか。


母利太兵衛中将は西の空を染める夕陽を見ながら隣りに立つ黒田直之少将に「今日はここで休むとするか、兵らもさぞ疲れていることだろう」と言い直之の顔をしみじみと見た。


二人が初めて出会ったのは太兵衛が十四歳で直之が六歳の時であった、その時は幼い直之などは遊び相手にもならず無視したが直之が天正五年 十三歳で豊臣秀吉に仕えるべく大坂に発ち、次いで兄・利則同様に豊臣秀長に付いたため疎遠となっていった。


だが秀吉の九州平定時、異母兄・官兵衛の出兵に伴い黒田家に戻ると太兵衛は純朴な直之の気質が気に入り付き合いを深めていった、また直之は熱烈なるキリシタンでミゲルという洗礼名を持つ敬虔なる信者でもあった、太兵衛が直之を妙に好んだのは性格が粗野な己と真逆だったからかもしれない。


「おぬしも戦は朝鮮出兵以来じゃからさぞ疲れたことであろう、飯を食ったらすぐに寝るがよい、明日はあの府内城を一気に踏みつぶし臼杵城へと向かうよって明日もきついであろうからのぅ」太兵衛は直之に対し弟にでも語りかけるように言った。


二人が並び立つ後ろ姿はまるで仁王様と子供が並んだ風にも見え、自然と太兵衛が直之を気遣うは致し方ないところであろう、だが九年後 直之は生来の病弱ゆえか体調を崩すと四十半ばを待たず呆気なく病没してしまう。


「中将殿、ここに来る途中に田所大佐よりの報告では城主の早川長政は西軍にくみし現在は丹後の田辺城に在り、留守を預かる城代の早川内右衛門は本日の石垣原の戦いで大友陣地内で自兵と共に爆死したとのこと、先ほど早川内右衛門の遺骸を確かめた上田中尉を呼びに行かせましたよって すぐにも真偽のほどは確かめられまする」


「なに!早川内右衛門は石垣原におったのか、ならば生き残ること難かしかろう、ならば府内城に残る兵は三百そこそこ戦うまでもないのぅ、しかし素通りするのも癪じゃから開城させこちらの兵を少しばかり駐屯させ臼杵に向かおうか、そうとなれば明日からの戦術を見直さねばならぬ、直之よ皆を集めてくれんか」

太兵衛はそう言うと直之の肩を叩き組み上げられたばかりの天幕に入っていった。



 明けて十四日、辰刻朝五ツ(7:00)府内城南の堀外に黒田軍第二師団三千の兵が居並ぶと城内より使者が転げるように現れ降伏開城の旨を申し出た。


母利太兵衛中将は馬上より降伏状を受け取ると、兵百程を重装備させ府内城に残し直線にして南方六里先の佐賀関半島南付根に在る「臼杵」に向け進軍を開始した。


第二師団は府内から真南に行軍し寒川の浅瀬を探し、畑中付近を渡ると進路を最短の南東方向にとり大野川を渡った、こうして第二師団の三千近い兵は一列縦隊となり佐賀関半島付根の険しい山道に分け入っていった。



 そして慶長五年九月十五日ここ豊後より直線にしておよそ百三十里彼方の美濃国不破郡関ヶ原には未明より霧が深く立ちこめていた。


慶長五年九月に入り美濃・大垣城を拠点とする石田三成に呼応し、九月二日に大谷吉継が北国街道より関ヶ原の山中村に着陣した、そして翌三日には伊勢長島から東山道を経て小早川秀秋が一万五千余の兵を率いて関ヶ原の松尾山に着陣、さらに七日には毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長塚正家・長宗我部元親らがおよそ三万の軍勢を率い関ヶ原の南宮山東麓に布陣する。


そのころ三成は美濃赤坂に着陣した徳川家康と杭瀬川を挟んで小競合いが続き、三成は暫しこの緒戦は続くものと予想していた。

だが杭瀬川の衝突で西軍の島左近が功を奏したあと その状況は変わった、東軍・家康は西軍が結集する大垣城を無視し三成が居城の佐和山城を抜き西軍総大将の毛利輝元が居座る大坂城を直接攻撃する動きを見せたのだ。


この東軍の動きをいち早く察知した三成は先回りし佐和山城に向かう東軍を関ヶ原で食い止める作戦に打って出た。


関ヶ原は各方面に繋がる街道が幾筋も交わる要衝であり、三成は一歩たりとも西に繋がる街道へ東軍を通さない構えから西軍主力は越前敦賀方面に繋がる街道に布陣させた。


次いで、大谷吉継ら西軍別働隊は佐和山方面の街道を守備、また小早川秀秋は東軍を横から牽制出来る松尾山に布陣した、また南宮山の毛利秀元は東軍本隊の背後を突くに位置に布陣すると東軍がここ関ヶ原の要衝に入ってくるのを息をひそめて待った。


こうして東軍に先んじたため関ヶ原に布陣した西軍方は実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えることができ形成有利な配置についた、それは三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山など四山を結ぶ防御線となり、遅れて関ヶ原に入ってくる東軍を巨大な鶴翼の陣で包む込むように形成したのだ。


こうして寅刻七ツ半前(午前四時頃)西軍は陣形を整えて迎討つ布陣は完了した、そして遅れること半刻後まずは東軍の先鋒隊が関ヶ原の山間に入ってくると後続本隊がその後に続々と入ってきた。


東軍が陣を布き終わったのが明六ツ(午前五時前)である、その朝 関ヶ原は濃い霧に塗り込められていた、東軍・徳川家康に属する兵八万九千と、西軍・石田三成に属する兵八万四千の双方は息をひそませジリジリと焦りのなか霧が晴れるのを待っていた。


このとき当軍側では先鋒は福島正則、二番手は黒田長政と決められ、本多忠勝と井伊直政ら家康の旗本衆四千は先発隊とされた、こうして福島正則隊六千と黒田長政隊五千は最前線に配置され開戦のその時を待っていた。


そして午前八時、ようやく霧が晴れ始めると両軍より関ヶ原の山々を震わせる喚声が沸き上がった、続いて法螺貝が谷間に木霊すと兵らは抜刀し敵陣目指し一斉に走り始めたのだ、ここに日本史上最大と言われる一大野戦の幕が切って落とされたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。