失われた忠誠心
*
「ロアの会議の知らせでしょう」
私を応接室に案内しながら、エリザがそう言った。
ウォルツ伯爵邸に到着した私を真っ先に見つけたのはエリザだった。リジン様のお兄様の、ユリス様と一緒にいたから驚いたわ。
「ええ、そうなの」
エリザもミュール。話は聞かされているのだろう。
一瞬エリザがメフィス伯爵邸で執事をしている映像が頭に浮かんだ。慌てて消す。
エリザに任せるくらいなら私がやる。ロアの尻拭いを彼女にさせるわけにはいかないもの。──ロアが執事をしないことなんて、あるわけないけれど。
「どうなるのかしらね。マリアさんやルドルフ伯父様は、万が一のことを考えてらっしゃるの?」
「先日、私が執事になる可能性がありそうなことは言われたけれど」
「大変ね」
エリザの声に真剣味はなく、どこか上辺だけに聞こえた。
「エリザ、貴女本当にそう思ってる?」
「少しは。でも……そうねぇ、ロアのしたことに、感心もしているわ」
「感心?」
顔を顰めた私とは対称的に、エリザは晴れやかな表情だった。今の状況に相応しくない。不謹慎だわ。
「感心。すごいじゃない。ミュールに逆らう人なんてこれまでいなかったんだから」
そんな嫌な感心はいらないわよ。
そういえば、この間にここに来た時に、エリザとトールと話した。ミュールの権利と義務。これまでに使用人以外の道を選んだ人はいなかったのかと問われ、絶対にいないと答えた私。正しかったのは──いえ、間違えていたのは、私。
どうしてロアが、なんて何度も考えたけれど、勝手に信じて勝手に裏切られた気になっているだけなのかしら、と思うと、どうにも嫌な気分になる。
「……リジン様と、ローズ様にどんな顔をして会えば良いのかしら。恥ずかしい。愚弟が貴方方ではなく、ミネルヴァ公爵に仕えたいと申しております、だなんて言えないわ」
「もう知ってるけど」
「だとしてもよ。ああ、これまでこんなことは起こらなかったのに」
どうしてよりにもよって。お二人はあんなにも素晴らしい方なのに。セルア様なんかより、もっとずっと。
「リドニア、貴女も頭が固いわね。ほんとに、ミュールらしい」
「母様にも言われたわ」
「貴女が長男だったら良かったのにね。ロアは、彼が長男だったからこんなにも大事になったのだし」
それは私も思う。恐らく母様や父様も同感だろう。
ああでも、私が長男だったらお嬢様についていけないわ。ずっとメフィス伯爵家にとどまり、お嬢様が訪ねてくださるのを待つ日常なんて、嫌よ。
リジン様とローズ様がお待ちくださっている応接室の扉の前で、エリザは立ち止まった。正直お二人に顔を合わせるのが怖かった私は、その数秒にすがるように少し安堵した。
「大丈夫よ。遅かれ早かれ、こうなることは避けられないわ。ただロアが律儀にそれを告白してしまっただけで。それを、ローズお嬢様もリジン様もご理解してくださっているわ」
「……」
扉が開かれた。
お二人は何ごとか話し合っていたらしく、リジン様が「だから、」と言ったところで口を閉じた。私とエリザを見てにこりと微笑む。
「ようこそ、リドニア」
「ふふ、シンシア伯母様の誕生会以来ね。ご機嫌いかが? リド。誕生会ではあまり話す機会がなかったから、残念に思っていたのよ」
ふんわり。ローズ様を見ていると、ロアの騒動なんてまるでなかったかのように感じてくる。もちろんそんなはずはない。私は仕事でここまで来たのだから。
「突然の来訪を受け入れてくださり、感謝申し上げます。このたびは、メフィス伯爵邸で行われる会議の招待状をお持ちしました」
敬礼したあとに招待状を差し出すと、エリザがペーパーナイフをお二人に渡した。リジン様が二人分の封を切り、片方をローズ様に戻す。
「会議は……あら、早いのね」
「今日から数えて十日後か」
「セルアさんは参加されるのかしら?」
ローズ様の視線を受けて、私は頷く。
「招待状はお書きしましたが、会議自体には参加されません。あくまで当事者として、屋敷に招待するだけです」
「ミュールからの参加者は参加するのか?」
「ルドルフ執事のみ、参加されます。彼も求められたときのみの発言となるので、招待状は出しておりません」
ちなみに、他のミュールは出席しない。下手に発言されても事が大きくなるだけ、と父様が判断した。メフィス伯爵家と繋がりのある貴族も、今回は参加されない。ミュール家とのつながりは、あくまでメフィス伯爵家の個人的なものだからだ。
「……分かりました。招待状は受け取ったわ、リドニア」
義務を果たしたことで軽く肩の力が抜ける。私が密かに恐れていたような、お二人との関係が変わるような溝は生まれていなかった。
ふと、段々と整ってきたロアの未来を決める会議のことを考えてしまった。もしも万が一、ロアがミュールから抜けるようなことがあれば、私なりエリザなりトールなり、誰かがロアの位置に立つのだろう。いくら大事だと思われていても、いなくなれば穴埋めがされる。その事実は、なんとも空虚な現実なのだと感じてきた。
たとえばきっと、私がいなくなってもミュール家は回っていくのだろう。
「リドニア? どうしたの、ぼーっとして」
ローズ様が私の顔を覗き込んでいた。驚きで目を見張って、私は一歩下がった。
「あ……すみません。あの……お一つ、伺いたいことがあるのですが、よろしいですか」
「どうぞ。そのために貴女がここに来たのでしょう?」
流石に、こんな、言ってしまえば使い走りのような仕事を私が任されるわけはないと知ってるわよね。私の言葉に、ローズ様は頷いてくださった。その隣に座るリジン様も、招待状をテーブルに置いて私の方を見ていた。
私は一度お二人の顔を見て、それから言った。
「恐らく、ロアの訴えは通りません。ですがロアは、……セルア様に、忠誠を誓っています……。その後に会議で決定し、ロアがメフィス伯爵家の執事になった場合、ロアはメフィス伯爵家に忠誠を誓えるでしょうか? ……その忠誠は、本物でしょうか……?」
本物でない忠誠など、誰も求めてはいない。ミュールの誓う忠誠は永遠で絶対的なもの。だからこそ、ミュールは特別であり、全てをまかされた。
私の言葉を聞き終えて、ローズ様はリジン様と顔を見合わせた。
「リドニア。顔を上げて。そのことについて、ローズと話し合ったんだ」
リジン様の声はいつも通り落ち着いていて、慌てて乱れきった私の心を落ち着けてくれた。
「残念だけど、君の予想は当たっている。一度別の誰かに捧げられた忠誠は、本人の意思で変えられるものじゃない。そして、忠誠を誓わない執事など、私達に必要ない」
……多少、この言葉を予想はしていた。
そしてその言葉に続くものも。
「ローズと話し合って決めたんだ。リドニア、次期メフィス伯爵家の、女執事になってもらえないか」
ローズ様の傍に控えていたエリザの表情が強張った。
リジン様の言葉は、私の中に苦さと嬉しさを呼び起こした。能力と働きを認められた、という嬉しさ。そして、私はお嬢様と共にヒルドマンについて行きたいという苦さ。そして……。
今この瞬間に、ロアはリジン様とローズ様に切り捨てられた。
あいつは、メフィス伯爵家に捨てられた。
その事実が、悲しみとなって私を包み込んだ。