03 - 開戦
目の前で、大切な少女が苦しんでいた。
嗚咽にまみれながら、彼女は自身のまわりを醜い色で染めていく。地に伏して、汗を浮かべ、惨めに震えている。けれど僕には、少女の痛みを和らげてやることも、共に震えてやることもできなかった。
本能を揺さぶるにおいが辺りを侵食し、傍にいた僕は反射的に拒絶を抱いてしまう。逃げ出したい。消えてしまいたい。負の感情がひとりでに膨れ上がり、なけなしの思考力を圧迫していく。そんな愚か者に気づいたのか、少女はほんのすこしだけ口角を緩めて、弱々しい声を絞り出した。
「ごめん、なさい」
「……っ」
少女の身体は、きっともうすっかり軽くなってしまった。肉体も、精神も、本来の凛々しいものからはかけ離れていた。抱きしめれば簡単に持ち上がり、そのまま消えて無くなってしまうかもしれない。
お伽噺の英雄様なら、彼女を救えたのだろうか。
真っ当な人間なら、彼女に優しい言葉を掛けることができたのだろうか。
だが生憎、僕はそのどちらでもなかった。何も、できなかったのだ。
「ごめん、なさい」
なぜ彼女が謝っているのか。なぜ苦痛に苛まれながらも謝っているのか。少女の本意は理解しているつもりだが、僕の頭は彼女の言葉を受け入れられない。「無理をしないでいい」だの、「喋らなくていい」だのといった月並みな言葉すらも返せない。ひどく無様だ。無様すぎて、彼女に気を遣わせてしまうほどだった。
「そんな顔、しないで」
ずっと遠い日に、ふとこの瞬間のことを思い出したら、僕はきっと後悔する。頭では分かっているのに、僕は何一つ叶えられない。ただひたすら、少女のことを見つめていた。すぐ傍に居るのだから、選べる手段はあったはずだ。僕なら彼女を救ってやれるかもしれないではないか。そう頭の中で描いても、愚か者の身体は動き出さない。
……だから、僕はこのとき、彼女に呪いをかけられてしまったのだろう。
「おねがい。こっちを、みないで。きょうを、わすれて」
――僕が目を閉じたのは、彼女の震えがようやく止まった後のことだった。
*
「……本当に、忘れてください、お願いします先輩」
後輩少女が吐瀉物の沼を作り上げたのは、ちょうど十五分前の事だった。
消毒をバタバタと済ませ、最低限の水分補給をさせて一息つき、彼女はようやく落ち着いたらしい。自嘲気味に口元を緩めながら、今は椅子に身体を預けて、自身の赤髪を弄っている。悲壮感がにじみ出ており、見ているこっちが辛くなってしまう。
「落ち着いたか?」
「……乗り物酔いっす。先輩に緊急の報告があったので、気持ち悪いのを我慢して急いできたんすよ。あーあ、今日は、久々に休暇のはずだったのになーっ」
やけくそに笑う少女が痛々しい。実験室の清掃は一通り終えたはずなのに、再び濁った空気が部屋に満ち始めている。簡易な戦闘ができるほど広いとはいえ、ここは室内だ。陽気な光は差し込まない。居たたまれなくなって近場の窓を開けると、肌寒い秋風が僕の頬を掠めていった。午前の六時。こんな朝っぱらから休日出勤で、しかも初っ端から大恥をかくだなんて、彼女も呪われた奴だった。まだ若いのに。ああ、日頃の行いのせいだろうか。
「にしても、未だに馬車が交通の主力だなんて、情けなくなる話っすよね。こりゃあ後進国だと揶揄されても言い返せねえです。これだから後進国は駄目なんすよ全く!」
「……」
どうフォローしてもダメージを与えてしまうような気がしたので、本題をどうぞ、と促す。
そして、この世の終わりのような表情で、彼女は言った。
「うちの班が管轄する防衛システムがですね。国境沿いの、第三防衛システム、あれが破壊されたんすよ」
「……は?」
「でも、不幸中の幸いなことに、隣国が休戦協定を破った、とかではないようなんすよ。なんとびっくり、こっちの国の内部犯っす」
「…………は?」
まて。
まてまて。
この前の事件から三日たった。何か起こるだろうとは覚悟していた。だが、防衛システムの、破壊? 内部犯? 国防の本丸が、内部から破壊された? それは、おかしい。
開けた窓から風が吹き込み、遠くで鳥が一斉に飛び立った。
後輩少女は自身の鞄から白衣状の隊服を取り出し、無造作に袖を通しながら、僕にも同じものを着るように促す。胸元では『十三』と刻まれたエンブレムがわざとらしく揺れた。何故だか、嫌味を囁かれた気持ちになる。
「で、先輩も流れ的になんとなくお察しかと思うんすけど。――第一容疑者はライカ=バラードっす。単独犯の可能性が高いっすね」
「……」
「現地から逃走しているのが目撃されていますし、システム側にも、彼女から攻撃を受けた魔力跡がありました」
捏造は考えにくいっす、まあ間違いなくクロっすね。後輩は諦めたようにけらけら笑った。
情報過多で一瞬フリーズしかけ、脳内で後輩の言葉を反芻する。絞首台の英雄・ライカ=バラードが、国境の防衛システムを、単独で、攻撃した。システムはすでに破壊されており、彼女は現在逃亡中。いずれも裏付けあり。
そんなこと、果たしてあり得るのか。
「先輩が何を考えているかは、特に聞きたくもないですけれど。先輩的には不幸中の幸いなんですかね、――防衛組織上層部が本格的に動き出すのは2日後です。それまでは、うちの班は自由に動けます」
「2日間で収束させろ、ってことか?」
「さあ。上の判断に大した意図があるかは知らないっす。解釈は先輩次第っすけど」
「……うん、あれだな。僕たちは常日頃から満身創痍なのに、どうして世界はこうも仕事を増やしてくれやがるんだか」
「やー、うちの班が多忙なのは、ぶっちゃけ先輩のせいですからね。大して報酬も受け取っていないのに無茶に働きすぎなんで、班全体がコスパに優れているみたいに思われているんすよ」
後輩はじっとりとした目をこちらに向け、「ほんと、馬鹿な人」とぼやく。何も言い返せなかった。
タイムリミットは2日。それまでに、僕たちが成すべきことはといえば。ため息をつき、昇り始めた太陽に目を細めて。
……。
僕は大きく息を吸って、部屋の外にもよく聞こえるくらいに声を張って宣言をした。
「きみに命じます。今すぐ復旧の設計に取り掛かりなさい。2時間きっかりでまとめること。わかったら作戦室に移動、駆け足。後で迎えに行く」
「おや、『仕事面で甘えたい』ってやつですか。……もしかして今の事態、あたしが認識してるよりずっとまずい状態っすかね?」
「早く。直ちに取り掛かれ」
後輩は首を傾げながらも実験室を去る。ゲロ吐いたばかりなのにこき使って申し訳ない、と思いつつ、けれど僕の意識は別のところに集中していた。彼女が去って、10秒、20秒、おそらくじゅうぶんに部屋から離れた頃。
ついさっき開けた窓から、真っ黒な制服を着た少女が、とんでもない速度で飛び込んできた。スライディングの格好で床を数歩分すべり、器用に身体を捻ってぴたりと止まる。まるで、誰かを助けに来た英雄かのように、惚れてしまいそうな凛々しさで、彼女はこの場に現れた。
「……意外とマナーがいいんだな。ガラスを割ってダイナミックに登場するかと思った」
「テロリスト歴は浅いほうなので。あんまり礼儀はわかってないんですよ」
土で僅かに汚れた、治安維持班の制服。
紅色の、美しい瞳。銀髪のサイドテールを揺らしながら、彼女は僕の目の前で立つ。
三日前に顔を見られた時点で、このような展開は覚悟していた。が、予想よりもはるかに早い。
「やあ、初めまして」
「ええ、初めまして。ライカ=バラードと申します。以後お見知りおきを」
「……ご丁寧にどうも。僕は――」
「シアン=ルイスさん、ですよね。知っています。私は、あなたに会いに来たのですから」
いい白衣ですね、似合っていますよ。彼女はにこやかにそう続ける。
少女が浮かべていたのは、一見すると朗らかな表情だったが、見方によっては待てを命じられた犬っころのようにも映る。爆発しそうな気持ちを、必死に内側で押さえつけているように思えてしまう。この時点で僕は、彼女がこれから取るだろう行動を、ぼんやりと理解できてしまった。
確か、いまは17歳と言ったか。この国にさえ生まれなければ、ただの穏やかな少女でいられただろうに。
「……さっきの後輩との会話で察しがついているだろうが、僕はそれなりに忙しい。あまり愉快な歓迎はできそうにないから、手短に頼みたい」
「お気遣いなさらず。こうして顔を合わせてもらえただけで、もう殆ど目的は達成しましたから」
僕の返事も待たず、銀髪少女の態度が変容する。
瞳が尖り、姿勢が下がり、纏う空気が五度冷える。今の今まで可愛らしかったはずなのに、彼女は既に復讐鬼に変わり果てていた。
少女、ライカ=バラードは、――光り輝く剣を右手に握り、それを僕の頭部へと突き出していた。
「さあ、シアンさん。殺し合いをしましょう」
そして彼女は一歩踏み込む。
――その時の僕は、特に油断していたわけでもなければ、彼女の断罪を甘んじて受け入れたわけでもない。ただ単に、反応できなかった、という情けない話でしかない。
次の呼吸が始まるまでのわずかな時間で、彼女の剣は振り下ろされて、……僕の右腕が宙を舞い、肩から血が吹き出す。
無機質に、無遠慮に、情けない音を立てて、右腕が床に転がった。




