第81話 井戸の底には、一度目の紬と、もう一人の俺がいました
「拓真」
井戸の底から。
一度目の紬が言った。
俺は。
何も言えなかった。
隣。
今の紬がいる。
俺の袖を掴んでいる。
井戸の中。
一度目の紬がいる。
そして。
さらに。
俺。
また。
俺。
「……もう本当に増えるな!」
我慢できなかった。
新八さんが。
真顔で言った。
「今は人数の話ではない」
「俺だって分かってますよ!」
分かってる。
分かってるけど。
言いたい。
だって。
多すぎる。
本当に。
俺が。
多すぎる。
「下にいる俺って」
俺は。
井戸へ顔を近づけた。
「どの俺ですか!」
新八さんが。
「その聞き方もどうなのだ」
と言う。
仕方ないでしょう!
今の俺。
傷のある俺。
眼帯の俺。
死んだ俺。
幼い政宗様に会った俺。
政宗様を天下へ向かわせた俺。
天下を止めようとした俺。
もう。
名前じゃ分からない。
「紬!」
俺は。
井戸へ叫ぶ。
「その俺、生きてます?」
長い。
沈黙。
「……分からない」
「触れます?」
「分からない」
「喋ってます?」
「喋らない」
俺は。
眉を寄せた。
「動いてます?」
「動かない」
嫌な予感。
「じゃあ」
俺は聞く。
「顔は見えます?」
「見える」
「誰なんです」
一度目の紬の声が。
震えた。
「会社で」
俺の胸が。
冷える。
「田中さんと一緒に倒れた拓真」
誰にも。
見えなかった。
触れなかった。
現代の会社。
床。
死んだ。
三人目の俺。
一度目の紬は。
会ったことがないはず。
なのに。
見えている。
「おかしい」
俺が言った。
今の紬が。
俺を見る。
「何が」
「一度目の紬は、その俺を知らない」
井戸の底。
声。
止まる。
「……え?」
一度目の紬も。
気づいたらしい。
「俺自身だって」
俺は続ける。
「記憶が戻るまで、ほとんど覚えてなかった」
小十郎さんが。
井戸の縁へ近づく。
「つまり」
「本当にそこにいるとは限らない」
俺は。
井戸の中を睨んだ。
暗い。
湿った石。
水。
匂い。
そして。
少し。
甘い。
匂い。
俺は。
止まった。
「楓」
「何」
「匂いません?」
楓が。
井戸の縁。
近づく。
新八さんが。
「気をつけろ」
と止める。
楓は。
無理に顔を入れず。
風上から。
少しだけ。
鼻を動かした。
そして。
顔をしかめる。
「同じ」
「何と」
「小鈴の部屋」
俺は。
息を止めた。
香。
薬草。
幻覚?
眠り?
呼吸を弱らせる。
「一度目の紬!」
俺は叫んだ。
「そこにいる俺、本物じゃないかもしれません!」
井戸の底。
返事。
ない。
「聞こえます!?」
「……聞こえてる」
「じゃあ!」
「でも」
声。
泣いている。
「いるの」
「何が」
「拓真が」
胸。
痛い。
「分かります」
「分からないで!」
一度目の紬が叫んだ。
「見えるの!」
「……」
「そこにいる!」
「……」
「死んでる!」
その声。
本物。
怖い。
悲しい。
俺も。
知ってる。
頭では。
おかしいと思っても。
目の前に見えたら。
信じる。
まして。
失った人なら。
「分かりました」
俺は言った。
今の紬が。
俺を見る。
「何が」
「見えてることは否定しません」
井戸の底。
静か。
「でも」
縄。
持つ。
「今は助けます」
「拓真を?」
「あなたを!」
即答。
すると。
一度目の紬が。
叫んだ。
「先に拓真を助けて!」
俺は。
本気で。
腹が立った。
「またそれですか!」
「だって!」
「自分を後回しにするな!」
「その拓真はもう死んでるの!」
「だったら余計に無理でしょう!」
沈黙。
新八さんが。
ぼそっと。
「正論だな」
と言った。
「今は褒めても何も出ませんよ!」
でも。
俺は。
井戸へ。
続ける。
「死んでる人を先に助けて、生きてるあなたを後回しにするんですか!」
「でも拓真なの!」
「俺も拓真です!」
自分を指差す。
意味。
分からない。
でも。
叫ぶ。
「ここにいる!」
隣の紬が。
「うるさい」
と言った。
「今!?」
「でも」
今の紬は。
井戸を覗く。
そして。
一度目の自分へ。
怒鳴った。
「先に上がって!」
下。
沈黙。
「嫌」
「何で!」
「この拓真を置いていけない!」
今の紬の顔が。
本気で。
険しくなった。
「馬鹿じゃないの!」
「何よ!」
「死んでるんでしょ!」
「でも!」
「私のために落ちたくせに!」
空気。
止まった。
俺は。
今の紬を見る。
「……どうして」
今の紬が。
井戸を見る。
「草履」
縁。
落ちていた。
片方。
「自分で脱いで置いた」
一度目の紬。
何も言わない。
図星。
「誰かに落とされたんじゃない」
今の紬が。
声を低くする。
「自分で入ったんでしょ」
長い。
沈黙。
そして。
井戸の底から。
小さな声。
「……うん」
俺は。
頭を抱えた。
「何で!」
「今の紬を助けたかったから!」
俺も。
今の紬も。
止まる。
「誰かに」
俺が聞く。
「言われたんですか」
「うん」
「何て」
「今の私を救いたければ」
一度目の紬。
声。
掠れる。
「自分で井戸へ入れって」
俺は。
本気で。
腹が立った。
また。
それ。
また。
一人。
自分。
差し出す。
「何で従うんですか!」
「だって!」
「罠に決まってるでしょう!」
「分かってた!」
「じゃあ何で!」
「怖かったから!」
声。
割れる。
「また私のせいで!」
「……」
「今の私まで死んだら!」
「……」
「嫌だったの!」
今の紬が。
拳を握る。
そして。
井戸へ。
本気で。
怒鳴った。
「私のために勝手に死なないで!」
一度目の紬。
すぐ。
言い返す。
「あんただって同じことするでしょ!」
今の紬が。
止まった。
俺も。
見た。
紬。
する。
たぶん。
する。
自分だけ。
死ねばいい。
何度も。
考えた。
「……するかも」
今の紬が言った。
俺は。
少し。
驚く。
でも。
続いた。
「でも今はしてない!」
一度目の紬が。
黙る。
「未来の私が馬鹿なことするかもしれない!」
「……」
「でも!」
今の紬。
井戸の縁。
握る。
「今の私は、あんたに死んでほしいなんて頼んでない!」
声。
震える。
「勝手に私のために死なないで!」
長い。
沈黙。
下から。
小さな。
泣き声。
たぶん。
一度目の紬。
俺は。
少し。
顔を逸らした。
今。
見なくていい。
たぶん。
◇
縄を下ろした。
まず。
一度目の紬。
上げる。
嫌がった。
かなり。
嫌がった。
「拓真が!」
「幻かもしれない!」
「でも!」
「上がってから考えます!」
「嫌!」
「面倒くさい!」
今の紬が。
「同感」
と言う。
俺は。
「あなたも同じですよ!」
と返す。
そして。
何とか。
引き上げた。
一度目の紬。
濡れている。
泥。
腕。
傷。
でも。
生きてる。
俺は。
息を吐いた。
「よかった」
一度目の紬が。
俺を見る。
でも。
すぐ。
井戸。
見る。
「拓真」
「俺ならここにいます」
「違う」
「知ってますよ!」
本当に。
ややこしい。
井戸へ。
灯り。
下ろす。
底。
水。
石。
何も。
いない。
一度目の紬。
顔。
青ざめる。
「いた」
俺は。
隣。
座る。
「見えたんですよね」
「いたの」
「はい」
否定しない。
「でも今はいない」
一度目の紬。
泣く。
静か。
「また」
言う。
「置いてきた」
俺は。
すぐに。
答えなかった。
だって。
その言葉。
千代。
拓真。
ずっと。
彼女を。
追っている。
「置いてきたんじゃないです」
俺は。
ゆっくり。
言った。
「今は」
一度目の紬。
見る。
「生きてる方を先に助けただけです」
「それが嫌なの」
「知ってます」
「分からないくせに」
「分かりません」
一度目の紬が。
睨む。
俺は。
少し。
笑う。
「でも」
「……」
「分からないまま、ここにいます」
今の紬が。
横から。
「それ、私にも言った」
と言う。
「同じ俺なので!」
「便利」
「最近みんな俺を便利に使う!」
◇
井戸。
周り。
調べる。
薬草。
灰。
小さな。
布袋。
楓が。
拾う。
匂い。
顔。
険しくなる。
小十郎さんが。
「分かりますか」
と聞く。
楓が。
少し。
黙った。
「似たものは知ってる」
新八さんの目が。
動く。
俺も。
見る。
楓。
薬草。
詳しい。
小鈴。
香。
井戸。
幻覚。
犯人。
城内。
「楓」
俺が呼ぶ。
「何」
「疑われるかもしれません」
「分かってる」
即答。
「平気ですか」
「平気」
俺は。
見た。
顔。
普通。
声。
普通。
でも。
少し。
手。
強く。
握ってる。
「嘘ですね」
楓が。
俺を見る。
「何が」
「平気じゃないでしょう」
「……」
「疑われても平気なふりしないでください」
楓の目が。
少し。
揺れた。
長い。
沈黙。
「平気じゃない」
小さい。
でも。
はっきり。
「嫌」
「……」
「疑われるの」
「……」
「私がやったって思われるの」
俺は。
頷いた。
「ですよね」
「でも」
「はい」
「疑っていい」
楓が。
俺を見る。
「分からないなら」
俺は。
少し。
苦しくなる。
「じゃあ疑います」
「うん」
「でも」
「何」
「一人で疑いません」
楓。
眉。
寄せる。
「みんなで調べます」
新八さんが。
「言い方が気持ち悪いな」
と呟く。
「今いい話だったでしょう!」
少し。
楓が。
笑った。
◇
その時。
一度目の紬が。
急に。
胸元を押さえた。
「何です」
「知らない」
懐。
探る。
紙。
出てくる。
本人。
驚く。
「入れてない」
俺は。
嫌な予感。
受け取る。
現代日本語。
一行。
――あと三人。
俺の胸。
冷える。
小鈴。
一人。
一度目の紬。
二人。
残る。
千代。
楓。
愛姫様。
そして。
その下。
もう一文。
俺は。
読んだ。
黙った。
紬が。
聞く。
「何て」
俺は。
楓を見る。
楓も。
俺を見る。
「次は」
喉。
乾く。
「楓」
楓。
顔。
変わらない。
「それだけ?」
「違います」
「何」
俺は。
もう一度。
紙を見る。
嫌だ。
本当に。
嫌。
「でも」
少し。
間。
「拓真は助けない」
全員。
黙る。
俺は。
すぐ。
言った。
「助けます」
楓が。
静かに。
「たぶん当たってる」
俺は。
振り向く。
「何で!」
楓は。
紙を見る。
そして。
俺を見る。
「私が死ぬ時」
声。
落ち着いてる。
でも。
さっき。
平気じゃない。
そう言った。
だから。
分かる。
本当は。
怖い。
「拓真は」
少し。
間。
「別の誰かを助けてるから」
俺は。
何も。
言えなかった。
その瞬間。
城の方角。
鐘。
三回。
鳴った。
火急の知らせ。
新八さんが。
顔を上げる。
兵が。
走ってくる。
息。
切らして。
叫ぶ。
「拓真殿!」
「何です!」
「千代様が!」
俺の胸。
跳ねる。
でも。
兵は。
続けた。
「千代様が、城から消えました!」
俺は。
楓を見る。
紙。
見る。
――次は、楓。でも拓真は助けない。
分かった。
犯人は。
未来を知ってるんじゃない。
俺を。
別の場所へ。
行かせようとしてる。
楓から。
離すために。
「行かないで」
楓が言った。
俺は。
止まった。
「でも千代が」
「知ってる」
「消えたんですよ!」
「知ってる!」
初めて。
楓が。
声を荒らげた。
俺は。
黙る。
楓の手。
震えている。
「私も」
声。
低い。
「死にたくない」
胸。
刺さる。
「でも千代も」
「分かってる」
「じゃあ」
「分からない!」
楓が。
叫んだ。
「私だって分からない!」
涙。
出てない。
でも。
顔。
苦しい。
「千代を助けてって言えば、私は死ぬかもしれない」
「……」
「私を守ってって言えば、千代が死ぬかもしれない」
「……」
「どうすればいいの!」
俺は。
答えられなかった。
また。
二人。
また。
選べ。
その時。
俺の袖。
掴まれた。
今の紬。
俺を見る。
「一人で決めないんでしょ」
俺は。
何も言えない。
紬が。
続ける。
「じゃあ」
楓を見る。
新八さんを見る。
小十郎さんを見る。
一度目の紬を見る。
そして。
言った。
「分けよう」
俺は。
息を止めた。
紬が。
言う。
「拓真は楓のそばにいる」
「え」
「私が千代を探す」
俺は。
即座に。
「危ない!」
と叫ぶ。
紬。
眉を寄せる。
「またそれ?」
止まる。
俺は。
歯を食いしばる。
そして。
聞いた。
「行きたいんですか」
「うん」
「怖くない?」
「怖い」
「死ぬかもしれない」
「知ってる」
長い。
沈黙。
俺は。
ゆっくり。
頷いた。
「じゃあ」
声。
苦しい。
「お願いします」
紬が。
少し。
笑った。
「変なの」
「知ってますよ」
でも。
その瞬間。
兵が。
もう一つ。
言った。
「まだあります!」
全員。
見る。
「千代様の部屋に」
息。
吸う。
「紬様の血のついた短刀が残されていました!」
俺は。
今の紬を見た。
彼女も。
俺を見る。
血。
誰の。
千代?
紬?
それとも。
また。
別の誰か。
そして。
井戸の底から。
誰もいないはずなのに。
また。
俺の声がした。
『今度こそ』
低い。
聞き覚えのある。
俺の声。
『楓を見捨てろ』
俺は。
井戸を。
睨んだ。
もう。
未来のせいには。
しない。
誰かが。
俺たちを。
動かしている。




