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『奥州から始める伊達政宗との天下統一 〜未来人の俺、独眼竜の無茶振りに今日も振り回されています〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第8話 水路を一本直すだけのはずが、村同士の喧嘩になりました

「それで、未来人殿」


「はい」


「いつまで泥の中に座っているつもりだ」


「好きで座ってるように見えます?」


俺は水路の中で、泥まみれになっていた。


尻まで。


いや、もう尻どころではない。


背中。


腕。


顔。


全部だ。


先ほど派手に転んだせいで、右の頬にまで泥がついている。


村の若者――名前を平助というらしい――は、そんな俺を見下ろして笑っていた。


「いやぁ、未来人というのも大したことはないな」


「うるさいな! 未来では水路に入る仕事なんてしてなかったんですよ!」


「何をしておった」


「営業です」


「えいぎょう?」


「……人に頭を下げる仕事です」


「何だ、それ」


「俺も今となってはそう思います」


平助がまた笑った。


さっきまでは険悪だった。


帰れ、とまで言われた。


なのに、一度俺が泥の中で派手に転んだだけで、ずいぶん距離が縮んだ気がする。


納得いかない。


人間関係というものは、本当に訳が分からない。


俺は立ち上がろうとした。


ズブッ。


足が沈む。


「あ」


もう一度倒れそうになった俺の腕を、平助が掴んだ。


「危ないぞ」


「……ありがとうございます」


「未来人でも礼は言えるのだな」


「あなた、俺を何だと思ってるんです?」


「泥まみれの妙な男」


「今だけですよ!」


近くにいた村人たちが笑った。


さっきまで俺を警戒していた人たちまで。


俺は少しだけ安心した。


笑われるのは嫌いじゃない。


馬鹿にされるのは嫌だ。


でも、人と一緒に笑うのは好きだ。


その違いは大きい。


「拓真殿」


岸から小十郎さんが呼んだ。


相変わらず綺麗な格好だ。


一人だけ泥がついていない。


「何です?」


「その水路、本当に掃除するのですか」


「しますよ」


「今から?」


「今から」


小十郎さんが空を見る。


もう日は傾き始めていた。


「今日は屋敷へ戻る予定でしたが」


「じゃあ小十郎さんだけ先に戻ってください」


「私が一人で?」


「はい」


「殿に何と説明するのです」


「拓真は泥遊びしています、と」


「私は嘘をつきたくありません」


「本当に泥遊びしてるように見えます?」


小十郎さんは俺をじっと見た。


泥だらけ。


水路の真ん中。


片方の靴は脱げかけている。


「……見えなくもありません」


「ひどい!」


また笑いが起きた。


俺はもう諦めた。


「とにかく、やります」


泥を手ですくう。


重い。


臭い。


草の根も絡んでいる。


思っていたより大変だ。


これを全部?


一人で?


無理だ。


絶対無理。


未来知識以前の問題だ。


「平助さん」


「何だ」


「手伝ってください」


「嫌だ」


即答。


「何で!」


「俺は今日、朝から畑仕事をしていた」


「俺だって朝から歩き回ってたんですよ!」


「お主は仕事ではなかろう」


「仕事ですよ! たぶん!」


「たぶんとは何だ」


それを言われると弱い。


俺自身、今の自分が伊達家で何の役職なのかよく分かっていない。


未来人。


政宗の側に置かれた妙な男。


無茶振り処理係。


最後が一番正しい気がする。


すると。


村長の弥作さんが言った。


「やめておけ」


俺は振り返った。


「え?」


「あの水路は、掃除しても同じだ」


「どういう意味です?」


弥作さんは答えなかった。


代わりに。


平助が露骨に嫌な顔をした。


「爺様」


「隠しても仕方あるまい」


「だが」


「何です?」


俺は二人を見る。


さっきまでの空気と違う。


小十郎さんも気づいたらしい。


「弥作」


声が少し低くなった。


「何かあるのですか」


弥作さんは黙った。


長い沈黙だった。


そしてようやく。


「その水路の上流には、別の村がございます」


と言った。


「別の村?」


俺は水路の先を見る。


森の向こうへ続いている。


「そこから水が来てるんですか」


「はい」


「なら、そっちも見ればいいんじゃ」


「行っても無駄だ」


平助が吐き捨てた。


「なぜ」


「奴らが水を止めておるからだ」


俺は黙った。


「……止めてる?」


「ああ」


「わざと?」


平助は答えなかった。


それが答えだった。


俺は水路から上がった。


今度は慎重に。


「どうしてそんなことを」


「水が足りぬからだ」


弥作さんが言う。


「雨が少なければ、上の村も自分たちの田を守ろうとする。当然のことでございましょう」


「でも、そうしたらこっちに来ない」


「はい」


「話し合いは?」


平助が笑った。


嫌な笑いだった。


「したさ」


「それで?」


「殴り合いになった」


「何でそうなるんですか!」


「向こうが先に殴った」


「子供の喧嘩じゃないんだから!」


「先に殴ったのは向こうだ!」


「そこじゃない!」


平助も頑固だ。


いや。


俺だって、自分が先に殴られたなら相手が悪いと思うだろう。


人間というのは、案外そんなものだ。


俺は弥作さんを見る。


「いつからです?」


「何年も前から」


「何年も?」


「一人死んだ」


平助が言った。


声から。


笑いが消えていた。


俺は何も言えなかった。


「俺の兄だ」


平助は水路を見たまま言う。


「水を巡って揉めてな。向こうの村の者に斬られた」


「……」


「だから俺は、奴らと話し合う気などない」


今度は。


簡単に正論を言えなかった。


話し合え。


仲良くしろ。


水を分けろ。


現代なら言える。


いや。


現代だって、実際に家族を殺された人へ簡単に言えるだろうか。


俺には無理だ。


「すみません」


気づいたら、そう言っていた。


平助が眉を寄せる。


「なぜお主が謝る」


「何も知らずに、簡単なことみたいに言ったから」


「……妙な奴だな」


「よく言われます」


少なくとも、この時代に来てからは毎日言われている。


小十郎さんが弥作さんへ聞いた。


「役人には訴えたのですか」


「何度も」


「返答は」


弥作さんは苦く笑った。


「村同士で決めよ、と」


「なるほど」


小十郎さんの声から温度が消えた。


怖い。


この人。


本気で怒った時ほど静かになるタイプだ。


「誰です、その役人」


俺が聞くと、小十郎さんがこちらを見る。


「拓真殿」


「いや、だってそうでしょう。村同士で決めろって言って、死人まで出て、それで放置?」


「戦時ゆえ、人手が足りないという事情もあるでしょう」


「小十郎さん、本当にそう思ってます?」


「……」


「その沈黙、答えですよね」


人間は面倒だ。


役人にも事情がある。


村にも事情がある。


上流には上流の。


下流には下流の。


平助には兄を殺された恨みがある。


相手側にも、こちらが知らない何かがあるかもしれない。


一方だけ聞いて。


誰が悪い。


こっちが正しい。


そう決めるのは簡単だ。


でも。


「……面倒くさいなぁ」


つい本音が漏れた。


平助が睨む。


「何だと」


「いや、あなたじゃないです」


「では誰だ」


「全員です」


「何?」


「俺も含めて」


平助が黙った。


俺は泥だらけの手を見る。


一本の水路。


詰まりを取ればいいと思った。


だが。


違った。


水が詰まっているんじゃない。


人間関係が詰まっている。


そっちの方が、ずっと厄介だ。


「小十郎さん」


「何でしょう」


「上流の村、行きましょう」


平助がすぐに言った。


「やめろ」


「でも」


「行くな!」


強い声だった。


俺は黙った。


平助も。


しばらく何も言わない。


やがて。


「……死ぬぞ」


小さく言った。


「奴らは、よそ者にはもっと容赦がない」


怖い。


正直に言えば。


ものすごく怖い。


俺は喧嘩なんて強くない。


高校時代だって、体育は中の下。


刀なんて持ったこともない。


殺されるかもしれない。


でも。


帰る場所がない俺に。


今いる場所でやれることがあるなら。


「じゃあ、小十郎さんも一緒に」


「私を盾にするおつもりですか」


「駄目です?」


「正直ですね」


「長生きしたいので」


小十郎さんが、ほんの少し笑った。


「よろしいでしょう」


「いいんだ」


「ただし」


「はい」


「先に殿へご報告します」


嫌な予感がした。


ものすごく。


     ◇


翌朝。


嫌な予感は当たった。


伊達政宗は俺の話を最後まで聞いた。


水路。


上流の村。


下流の村。


水争い。


死人。


役人の放置。


全部。


黙って聞いた。


そして。


「なるほど」


と言った。


俺は警戒した。


この男の「なるほど」は危険だ。


会社員時代。


部長が、


『なるほどねぇ』


と言った後には、たいてい仕事が増えた。


「まず、二つの村の水路を調べようと思います」


俺は言った。


「その上で、どう水を分けるか」


「分かった」


「本当ですか?」


意外だった。


物分かりがいい。


いや。


待て。


この男が?


「では」


政宗は地図を広げた。


嫌な予感。


「伊達領内すべての水路を調べろ」


「ほら来た!」


俺は立ち上がった。


「何で規模を大きくするんですか!」


「二つ直せるなら全部直せよう」


「その理屈おかしいでしょう!」


「未来人だろう」


「未来人を便利屋みたいに使うな!」


「違うのか」


「違います!」


政宗が笑う。


小十郎さんは目を閉じた。


あ。


まただ。


この人。


心を無にしてる。


「小十郎さん!」


「何でしょう」


「助けてくださいよ!」


「殿のお考えにも一理あります」


「裏切った!」


「私は最初から殿の家臣です」


「知ってるけど!」


政宗は地図を指で叩いた。


「米を増やしたいのだろう」


「そうですけど」


「なら、水は要る」


「それもそうですけど!」


「なら決まりだ」


「決まってない!」


「決まった」


「横暴!」


「俺は当主だ」


「権力を正しく使ってくださいよ!」


政宗は声を上げて笑った。


俺は頭を抱えた。


結局。


一本の詰まった水路を掃除するだけだった話が。


なぜか。


伊達領全体の水利改革になろうとしていた。


本当に。


この男は。


規模を大きくすればいいと思っている。


「拓真」


「何です」


「期待しておるぞ」


「その言葉、嫌いなんですよ!」


俺の叫びが。


また屋敷に響いた。


そして。


この日。


俺はまだ知らなかった。


上流の村へ向かう途中で。


一人の。


腹を空かせ。


泥にまみれ。


誰も信じようとしない少女と出会うことを。


その少女がやがて。


俺の最初の侍女になり。


伊達家中を引っかき回すほど。


とんでもなく口の悪い娘だということも。


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