第6話 兵を増やしたい? その前に飯を増やしましょう
「安心せよ、拓真。俺はお前の元の主とは違う」
伊達政宗は確かに、そう言った。
その直後に、
「俺の無茶振りの方が、もっと大きい」
とも言った。
普通なら冗談だと思うだろう。
俺もそう思いたかった。
だが。
三日後。
俺は理解した。
あの男は一言たりとも冗談を言っていなかった。
◇
「……帰りたい」
俺は朝から呟いていた。
いや。
正確には、厠の前で呟いていた。
帰りたい。
二〇二六年の日本へ。
愛する故郷へ。
ウォシュレットのある世界へ。
「拓真殿」
後ろから声がした。
「いつまで厠を眺めているのです」
振り返る。
そこには若い男が立っていた。
細身。
穏やかな顔。
物腰も柔らかい。
だが、この三日間で分かった。
この人は絶対に敵に回してはいけない。
片倉小十郎景綱。
伊達政宗最大の腹心。
後世にも名を残す名将である。
そんな歴史上の偉人が今、俺の排便が終わるのを待っている。
何という状況だ。
「小十郎さん」
「何でしょう」
「未来にはですね」
「はい」
「座って用を足せる厠があります」
「今も座れますが」
「そういう意味じゃないんです」
俺は唇を噛んだ。
どう説明すればいい。
水洗便所。
便座。
ウォシュレット。
温かい便座。
消臭機能。
あれは人類が生み出した奇跡だった。
文明の結晶だった。
俺たちはもっと感謝するべきだった。
「水が勝手に流れるんです」
「水が?」
「はい」
「厠で?」
「はい」
「なぜ」
「なぜって……流すためですよ」
「誰が」
「だから勝手に」
小十郎さんが黙った。
この三日間。
俺は何度もこの顔を見た。
未来の話をした時の、
――また訳の分からないことを言い始めたな。
という顔である。
「信じてませんね?」
「いえ」
「絶対信じてない」
「拓真殿」
「はい」
「私は、あなたが未来から来たという話を、まだ信じておりません」
「正直!」
「ですが」
小十郎さんは少しだけ笑った。
「殿が信じると仰ったなら、私はその前提であなたを扱います」
「……大変ですね」
「何がです」
「上司があの人で」
一瞬。
ほんの一瞬。
小十郎さんの目が遠くなった。
俺は見逃さなかった。
「あ」
「何です」
「今、思いましたよね?」
「何を」
「大変だって」
「思っておりません」
「絶対思った」
「思っておりません」
「目が死んでましたよ」
「拓真殿」
笑っている。
だが怖い。
「厠へ戻されたいですか」
「すみませんでした」
俺は頭を下げた。
片倉小十郎。
間違いなく苦労人だ。
そして苦労人というものは、限界を越えると笑顔のまま人を殺せる。
会社員時代に学んだ。
◇
戦国時代の暮らしは、想像していたより大変だった。
いや。
大変どころではない。
まず食事。
米。
味噌汁。
漬物。
魚。
悪くない。
むしろ美味い。
ただし、現代の食生活に慣れた身には、やはり物足りない。
コンビニがない。
ラーメンがない。
カレーがない。
ハンバーガーも、唐揚げも、ポテトチップスもない。
そして。
「コーヒー飲みたい……」
朝。
俺が呟くと。
新八さんが言った。
「また未来の戯言か」
「戯言じゃないですよ」
「こおひいとは何だ」
「黒くて苦い飲み物です」
「薬か」
「違います」
「苦いのになぜ飲む」
「美味いから」
「苦いのに?」
「苦いけど」
「では不味いのではないか」
「ああもう面倒くさい!」
「お前にだけは言われたくない!」
新八さんとは、すっかりこういう関係になっていた。
友達ではない。
たぶん。
向こうは俺を信用していない。
俺も、初日に捕縛された恨みを少しだけ引きずっている。
でも毎日顔を合わせる。
飯も一緒に食う。
喧嘩もする。
微妙な関係だ。
人間関係というのは、名前がつかない時期が一番面倒くさい。
「ところで」
新八さんが俺の飯を見る。
「食わぬのか」
「食べますよ」
「先ほどから米を見てばかりではないか」
「考え事です」
「何を」
俺は箸を止めた。
「この米って、みんな毎日食べられるんですか」
新八さんの顔が少し変わった。
「皆とは」
「農民とか。兵とか」
「……時と場所による」
「食べられない人もいる?」
「当然だろう」
当然。
その一言が引っかかった。
俺にとって。
二〇二六年の日本では、金を出せば米は買えた。
高くなったと文句を言うことはあっても。
スーパーに行けばある。
腹が減ればコンビニがある。
それが当たり前だった。
でも。
この時代では。
当たり前じゃない。
「そうですか」
「何だ、急に」
「いや」
俺は飯を口に運んだ。
さっきより。
少し味が変わった気がした。
◇
その日の昼。
政宗に呼ばれた。
俺は嫌だった。
本当に嫌だった。
この三日間で分かった。
伊達政宗から呼び出されて、いいことなど一つもない。
初日は、
『未来の城を描け』
と言われた。
無理だ。
俺は建築士じゃない。
二日目は、
『未来の鉄砲を作れ』
と言われた。
もっと無理だ。
下手したら爆発する。
三日目は、
『空を飛べ』
だった。
意味が分からない。
「小十郎さん」
「何です」
「今日、逃げてもいいですか」
「なりません」
「即答」
「殿がお待ちです」
「体調が悪いとか」
「健康そうですね」
「心が」
「三日で弱りましたか」
「原因は分かってますよね?」
小十郎さんは答えなかった。
まただ。
絶対分かってる。
「入れ」
部屋の中から政宗の声がした。
「聞こえてました?」
返事はない。
嫌だ。
俺は部屋に入った。
政宗がいた。
地図を見ていた。
この前までスマホを触って子供みたいに目を輝かせていた男とは思えない。
静かな顔だった。
真剣な目。
少し。
近寄り難い。
こういう時だけは思う。
ああ。
本当に伊達政宗なんだな、と。
「来たか」
「はい」
「遅い」
「呼ばれてすぐ来ましたよ」
「俺が待った」
「知らないですよ!」
「二十歳の殿相手に何たる口を」
小十郎さんが後ろから言う。
「えっ、小十郎さん、そっち側?」
「私は最初から殿の側です」
「さっきまで一緒に歩いてたじゃないですか!」
「それはただの道中です」
「冷たい!」
政宗が笑った。
俺はため息をつく。
「それで、今度は何です」
「兵を増やしたい」
「……はい?」
「兵だ」
「聞こえました」
俺は嫌な予感がした。
ものすごく。
この人、まさか。
「俺に兵士を作れとか言いませんよね?」
「作れるのか」
「作れません!」
「ならば増やせ」
「それも俺の仕事じゃないでしょう!」
政宗は地図を指差した。
「兵が足りぬ」
「でしょうね」
「だから増やす」
「簡単に言いますね」
「何が難しい」
「全部ですよ!」
俺は地図を見る。
正直、細かいところまでは分からない。
ただ。
敵がいる。
領地がある。
戦がある。
そのくらいは分かる。
「兵を増やして、どうするんです?」
「勝つ」
「何に」
「戦に」
「どうして戦するんです?」
「勝つためだ」
会話が一周した。
俺は頭を抱えた。
「ちょっと待ってください。兵を増やすって、どこから集めるんです」
「領内からだ」
「農民も?」
「当然だ」
また。
その言葉。
当然。
俺は黙った。
政宗が俺を見る。
「どうした」
「いや」
昨日。
新八さんと食べた飯を思い出した。
皆が毎日、米を食べられるわけではない。
それが当然の時代。
兵士だって飯を食う。
馬も食う。
武器も要る。
運ぶ人間も必要だ。
俺は軍事の専門家ではない。
歴史好きなだけだ。
それでも。
一つくらいは分かる。
「兵を増やす前に」
俺は言った。
政宗の目が細くなる。
「飯を増やした方がいいんじゃないですか」
沈黙。
政宗。
小十郎さん。
二人が俺を見る。
「飯?」
政宗が言う。
「はい」
「なぜだ」
「兵士だって食べるでしょう」
「食べる」
「一人増えたら一人分。百人増えたら百人分」
「当然だな」
「戦に出たら、もっと必要です。運ぶ人もいる。馬もいる。長引いたら備蓄も要る」
政宗は黙っている。
俺は続けた。
「腹を空かせたまま戦えって言われても、無理ですよ。俺なんて昼飯抜いただけで仕事の効率半分になりましたから」
「お前と兵を一緒にするな」
「そこはいいんです!」
小十郎さんが少し笑った。
俺は政宗を見る。
「兵を増やしたいなら」
一度。
息を吸った。
「先に、飯を増やしましょう」
政宗は黙った。
長い。
また沈黙。
俺は弱くなる。
「いや、専門家じゃないんで。そんな自信満々に言うことじゃないんですけど」
「増やせるのか」
来た。
「いや、だから」
「米を」
「待ってください」
「どれほど増やせる」
「話を」
「倍か」
「聞け!」
思わず叫んだ。
小十郎さんが、
「殿に向かって!」
と言う。
でも。
政宗は笑っていた。
あの顔。
嫌いだ。
好奇心。
期待。
そして。
人に無理難題を押しつける時の顔。
「拓真」
「嫌です」
「まだ何も言っておらぬ」
「もう分かるんですよ!」
「米を増やせ」
「ほら!」
「できるのだろう」
「誰がそんなこと言いました!?」
「お前だ」
「飯を増やそうとは言いました! 俺が一人で増やすとは言ってない!」
「同じだ」
「全然違う!」
政宗は楽しそうに笑う。
小十郎さんは静かにため息をついた。
その時。
初めて。
俺と小十郎さんの目が合った。
何も言わなかった。
でも。
分かった。
ああ。
この人もずっと。
こうやって振り回されてきたんだ。
俺は少しだけ。
仲間を見つけた気がした。
「では決まりだ」
政宗が言う。
「何がです」
「明日から田畑を見て回れ」
「ちょっと待て!」
「小十郎」
「はっ」
「拓真につけ」
「承知しました」
「承知しないで!」
もう遅い。
話は決まっていた。
会社員時代と同じだ。
上司が勝手に決める。
部下が苦しむ。
違うのは。
前の上司はスーツを着ていた。
今の上司は刀を差している。
俺は天井を見上げた。
「……会社辞めた意味あったのかな」
誰にも聞こえないように呟いたつもりだった。
だが。
政宗が言った。
「何か申したか」
俺は笑顔で答えた。
「何でもありません、殿」
その笑顔は。
六年間の営業生活で身につけた。
完璧な作り笑いだった。




