第56話 俺は田中美月を知っていました。でも、ずっと忘れていました
『田中です。田中美月』
女が。
笑っていた。
会社の廊下。
白い蛍光灯。
自動販売機の低い音。
社員証。
長い髪。
そして。
その顔を。
俺は知っていた。
「……知ってる」
声が出た。
誰かが俺を呼んだ。
紬?
分からない。
「俺」
床に膝をついたまま。
頭を押さえる。
「知ってる」
「拓真」
今度は分かった。
紬だ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「そう」
「そこは少しくらい、大丈夫って言ってくださいよ」
「嘘になる」
こんな時まで。
正直。
でも。
少しだけ。
助かった。
俺は息を吐く。
頭の中。
記憶。
戻る。
いや。
違う。
戻ったんじゃない。
ずっと。
あった。
ただ。
見ないようにしていた。
◇
田中さんが倒れてから。
何日後だったか。
正確には覚えていない。
一週間?
十日?
俺は。
いつものように会社にいた。
田中さんが倒れて。
救急車で運ばれて。
でも。
次の日には。
普通に仕事があった。
当たり前みたいに。
田中さんの机から。
資料が運ばれた。
誰かが。
彼の仕事を引き継いだ。
佐々木課長が言った。
『止めるなよ。田中一人抜けたくらいで』
俺は。
何も言わなかった。
言えなかった。
そして。
昼休み。
一人の女性が。
俺を訪ねてきた。
『神谷さんですか』
『はい』
知らない人。
そう思った。
でも。
社員証。
同じ会社。
部署は違った。
たぶん。
総務?
いや。
企画?
思い出せない。
そこまで。
ちゃんと見ていなかった。
『私、田中美月っていいます』
俺は。
その名字で。
分かった。
『田中さんの』
『妹です』
俺は。
何て答えたんだっけ。
『ああ』
だったか。
『そうなんですね』
だったか。
たぶん。
ものすごく。
どうでもいい返事。
美月さんは。
俺を責めなかった。
『兄が、ご迷惑をかけました』
逆に。
頭を下げた。
俺は慌てた。
『いやいやいや! 何で妹さんが謝るんですか』
『でも』
『田中さんが悪いわけでもないでしょう』
それは。
言った。
覚えている。
美月さんは。
少しだけ。
困ったように笑った。
そして。
『兄が』
言った。
『倒れる前に、最後に会社でちゃんと話した人が、神谷さんだったそうです』
俺の喉が。
詰まった。
田中さん。
自動販売機。
『神谷くん』
『俺さ』
『もう、ちょっと無理かもしれない』
俺は笑った。
『俺もですよ』
『みんな無理ですよ。佐々木課長以外』
そう返した。
「……やめて」
俺は。
今。
戦国時代の部屋で。
呟いた。
誰も。
止めない。
記憶も。
止まらない。
『兄のこと』
美月さんは。
俺へ言った。
『覚えていてくれますか』
俺は。
何て答えた?
もちろんです?
忘れません?
確か。
違う。
俺は。
たぶん。
少し困って。
笑った。
『はい』
それだけ。
だった。
約束した。
兄を。
覚えていてくれと。
頼まれた。
なのに。
俺は。
忘れた。
田中さんだけじゃない。
田中美月も。
全部。
◇
「違う」
俺は言った。
「忘れたんじゃない」
部屋へ戻る。
政宗。
小十郎さん。
新八さん。
愛姫様。
紬。
そして。
一人目の俺。
全員いる。
俺は。
一人目を見る。
「俺」
喉が。
痛い。
「見ないふりしたんだ」
一人目は。
何も言わない。
「田中さんが生きてるか死んでるか、調べなかった」
「……」
「美月さんのことも、思い出さなかった」
「……」
「会社辞めて」
笑った。
ひどい笑いだったと思う。
「自分だけ逃げた」
その瞬間。
一人目が言った。
「そうだ」
声。
冷たい。
「お前は忘れたんじゃない」
俺を見る。
「捨てたんだ」
何かが。
切れた。
「黙れ」
自分でも。
驚いた。
一人目も。
俺を見る。
「何だ」
「黙れって言ったんですよ!」
俺は立ち上がった。
「俺が一番分かってる!」
「分かっていない」
「分かってる!」
「なら、なぜ忘れた」
「うるさい!」
自分と。
怒鳴り合う。
本当に。
最低だ。
でも。
止まらなかった。
「あなたは全部覚えてるから偉いんですか!」
一人目の顔が。
固くなる。
「紬を二回失って!」
「……」
「政宗様を殺して!」
「……」
「二人目の自分まで殺した!」
「拓真」
紬が。
呼ぶ。
でも。
止まれない。
「それで今の俺に、お前は捨てた、お前は逃げたって!」
一人目が。
俺を睨む。
「事実だ」
「知ってますよ!」
「なら認めろ!」
「認めてる!」
「認めていない!」
「何であなたに決められなきゃならないんだ!」
俺と。
俺。
同じ顔。
同じ声。
でも。
今は。
憎かった。
目の前の男が。
ものすごく。
嫌いだった。
たぶん。
自分だから。
「もういい」
紬が言った。
俺は。
聞かなかった。
「よくないです!」
「よくないけど」
紬が。
俺たちの間へ入った。
「うるさい」
「今それ!?」
「二人いるから、いつもの倍うるさい」
新八さんが。
小さく頷いた。
「分かる」
「新八さんは黙って!」
紬は。
一人目を見る。
「あんたも」
一人目が。
少し眉を動かす。
「何だ」
「あんた、自分を責めたいから」
一人目の顔が。
止まった。
紬は続ける。
「今の拓真まで殴ってるだけじゃない?」
部屋が。
静かになった。
俺も。
一人目を見る。
「何を」
一人目の声が。
低くなる。
「だって」
紬は。
退かない。
「顔、同じだし」
「それは関係ない」
「ある」
「何が」
「今の拓真に、お前は逃げたって言えば」
紬が。
一人目を見る。
「昔の自分を責められるから」
一人目が。
何も言わない。
「今の拓真に、お前は捨てたって言えば」
「……」
「自分が捨てたことも、一緒に責められる」
「違う」
「本当に?」
一人目の顔が。
歪んだ。
紬は。
容赦しなかった。
「自分を殴るの疲れたから」
少し。
間。
「今の拓真を代わりに殴ってるんじゃないの」
俺は。
何も言えなかった。
一人目も。
黙っていた。
やがて。
新八さんが。
ぼそっと言った。
「どちらも面倒だな」
俺は。
「今それ言います?」
と返した。
でも。
少しだけ。
息ができた。
◇
「田中美月」
俺は。
その名前を。
もう一度言った。
今度は。
逃げずに。
「美月さんは、何者なんです」
一人目の俺へ。
聞く。
「倒れた田中さんの妹」
「それは思い出しました」
「東都システムの社員」
「はい」
「俺を未来へ帰した女」
「はい」
「二度目の紬を殺した女」
一人目は。
黙った。
俺は。
息を吸う。
「敵ですか」
一人目は。
すぐには。
答えなかった。
「味方ですか」
また。
答えない。
「どっちなんです」
「どちらでもある」
俺は。
眉を寄せた。
「一番嫌な答え!」
「事実だ」
「便利ですね、その言葉!」
一人目が。
少しだけ。
笑った。
俺は。
腹が立つ。
でも。
今は。
聞く。
「何をしたいんです。美月さんは」
一人目の目が。
変わった。
「守りたいんだ」
「誰を」
「世界を」
俺は。
しばらく。
黙った。
「……急に話が大きい」
本当に。
何だ。
さっきまで。
田中さん。
会社。
罪悪感。
紬。
政宗。
それが。
世界?
「もっと普通に説明してください」
「普通だ」
「どこが!」
政宗が。
少し笑った。
「面白くなってきたな」
「あなたは黙って!」
本当に。
嬉しそうにするな。
一人目が。
俺を見る。
「美月は」
言う。
「俺を止めようとしている」
「何から」
「全部からだ」
「分かりません」
「政宗を天下人にすること」
「……」
「歴史を変えること」
「……」
「紬を救おうとすること」
俺は。
拳を握った。
「何で」
「俺が動くたび」
一人目が言う。
「未来が壊れたからだ」
「どう壊れた」
「一度目」
声。
静か。
「政宗は天下を失った」
「……」
「紬は死んだ」
「……」
「俺は未来へ戻った」
「……」
「二度目」
一人目が。
政宗を見る。
「俺が政宗を殺した」
愛姫様の顔が。
わずかに。
強張る。
「紬も死んだ」
「……」
「その後」
一人目の俺が。
目を閉じた。
「未来へ戻った時」
声。
低くなる。
「日本が、俺の知っている日本ではなくなっていた」
俺は。
息を止めた。
「どういう意味です」
「会社もなかった」
「……」
「東京も」
「え?」
「俺の知ってる形じゃなかった」
「待ってください」
頭が。
追いつかない。
「戦争?」
「もっと前から違った」
「日本は?」
一人目が。
俺を見る。
「国として」
少し。
間。
「存在していなかった」
誰も。
何も言わない。
戦国時代の人たちには。
日本という今の国の形。
分からない。
でも。
俺には。
分かる。
俺がいた場所。
コンビニ。
電車。
会社。
スマホ。
自動販売機。
全部。
ない?
「嘘だ」
俺が言う。
一人目は。
首を振る。
「美月はそれを見た」
「……」
「俺も見た」
「……」
「だから美月は、俺を止める」
俺は。
声が出なかった。
「俺が」
喉が。
乾く。
「原因?」
一人目は。
俺を見る。
長く。
長く。
「未来が壊れるたび」
言う。
「中心には必ず神谷拓真がいた」
俺は。
笑った。
笑うしかなかった。
「何ですか、それ」
誰も。
笑わない。
「疫病神?」
返事。
ない。
「俺が政宗様に会ったから?」
一人目。
黙る。
「紬を拾ったから?」
黙る。
「人を助けようとしたから?」
「拓真」
紬が。
呼ぶ。
俺は。
聞かなかった。
「じゃあ何もしなければいいんですか!」
声が。
大きくなる。
「田中さんの時みたいに!」
部屋が。
静まった。
言ってから。
自分で。
傷ついた。
でも。
止まれない。
「助けない!」
「……」
「見ない!」
「……」
「逃げる!」
「……」
「そうすれば世界は無事ですか!」
一人目が。
答えない。
「答えろ!」
「分からない」
俺は。
笑った。
「あなたもそれか!」
今まで。
何度。
言った。
分かりません。
俺の言葉。
一人目も。
同じ。
やっぱり。
俺だ。
嫌になる。
その時。
政宗が。
静かに言った。
「拓真」
俺は。
見る。
「何です」
「俺を天下人にすれば」
片目。
鋭い。
「その日本という国が消えるのか」
一人目の俺が。
政宗を見た。
そして。
答えた。
「ああ」
俺の心臓が。
強く鳴った。
一人目は。
今度は。
今の俺を見る。
「聞け、三人目」
嫌だ。
聞きたくない。
でも。
逃げられない。
「お前が伊達政宗を天下人にすれば」
少し。
間。
「お前が生まれた日本は消える」
誰も。
動かなかった。
一人目の俺は。
さらに。
言った。
「田中さんも」
「……」
「美月も」
「……」
「お前も」
「……」
「最初から、生まれない」
俺は。
政宗を。
見た。
天下を取らせたい。
そう言った。
自分で。
でも。
その先に。
俺が知っている日本が。
ない?
その時。
政宗が。
笑った。
静かに。
「ならば」
俺は。
嫌な予感がした。
「何です」
政宗は。
俺を見た。
「天下を取りながら、日本も残せばよい」
俺は。
本気で。
叫んだ。
「だから、何でいつも二択を力技で壊そうとするんですか!」
政宗は。
当然のように答えた。
「難しいからだ」
俺は。
頭を抱えた。
でも。
今度は。
笑えなかった。
だって。
一人目の俺は。
そんな政宗を。
悲しそうに見ながら。
小さく。
こう言ったからだ。
「一度目の政宗も、同じことを言った」
俺の手が。
止まった。
そして。
一人目は。
続けた。
「その結果」
声が。
冷たくなる。
「日本は消えた」




