第47話 一度目の紬を斬ったのは、俺らしいです
――一度目の紬を斬ったのは。
――伊達政宗ではない。
――政宗の命令を受けた、神谷拓真です。
紙が。
俺の手から落ちた。
誰も。
拾わなかった。
俺も。
拾えなかった。
「……嘘だ」
やっと。
それだけ言った。
誰に言ったのか。
分からない。
紙か。
政宗か。
紬か。
それとも。
一度目の俺か。
「俺に」
自分の手を見る。
右手。
傷もない。
刀だって。
まともに扱えない。
「人なんか斬れるわけないでしょう」
新八さんが。
腕を組んだまま。
「今のお前ならな」
と言った。
俺は。
顔を上げる。
「今の俺なら?」
「刀を抜く前に、自分の足を斬りそうだ」
「そこは普通に否定してくださいよ!」
「事実だ」
「やったことないでしょう!」
「やりそうだ」
「想像で人を斬るな!」
少しだけ。
空気が緩んだ。
本当に。
少しだけ。
でも。
小十郎さんが。
静かに言った。
「新八の申す通りです」
「小十郎さんまで!?」
「いえ。自分の足を斬るという部分ではありません」
「そこは分かってます!」
「今の拓真殿なら、という意味です」
俺は。
黙った。
小十郎さんは。
床に落ちた紙を拾った。
「我々が知っているのは、今の拓真殿です」
「はい」
「ですが」
また。
嫌な言葉。
「一度目の拓真殿が、何を見て、何を失い、どこまで追い詰められたかは分かりません」
「……」
「今の自分にはできない。だから一度目の自分にもできなかった」
小十郎さんは。
俺を見る。
「そうは言い切れません」
痛かった。
でも。
正しい。
たぶん。
俺は。
会社にいた時だって。
何度も思った。
こんな仕事。
できない。
こんな上司みたいには。
絶対ならない。
なのに。
疲れて。
余裕がなくなって。
後輩に冷たくした日もあった。
電話を切った後。
客の悪口を言ったこともある。
自分が嫌いだった人間と。
少しずつ。
似たことをした。
追い詰められた人間が。
何をするか。
俺には。
分からない。
自分のことすら。
「拓真」
声。
紬だった。
俺は。
見られなかった。
「何です」
「私」
少し。
間。
「本当に、あんたに斬られたの?」
その質問。
来ると思っていた。
でも。
来てほしくなかった。
「分かりません」
「覚えてない?」
「はい」
「本当に?」
俺は。
顔を上げた。
紬の目。
怖がっている。
俺を。
そう見えた。
胸が。
痛かった。
でも。
当然だ。
目の前に。
自分を殺したかもしれない男がいる。
怖くない方が。
おかしい。
「本当に覚えてません」
俺は答えた。
「一度目のことなんて、何も」
「そう」
紬は。
それだけ言った。
一歩。
俺から。
離れた。
たった。
一歩。
でも。
俺には。
ものすごく遠く見えた。
俺は。
何も言えなかった。
行かないで。
なんて。
言えるわけがない。
怖いなら離れていい。
当然だ。
でも。
寂しい。
俺は。
本当に。
勝手だ。
◇
「紬」
政宗が呼んだ。
「はい」
「怖いか」
俺は。
思わず政宗を見る。
何で。
そんなこと。
本人の前で聞く。
紬も。
少し驚いた顔をした。
それから。
俺を見た。
ほんの一瞬。
「……少し」
言った。
正直だった。
俺は。
何も。
言えなかった。
政宗が。
次に俺を見る。
「拓真」
「はい」
「傷ついたか」
「何で俺まで聞くんです!」
「答えろ」
「……傷つきましたよ」
言ってから。
紬を見る。
「でも、紬が悪いとは思ってません」
「拓真」
紬が言う。
「何です」
「そういう言い方」
「何が」
「余計に嫌」
刺さる。
「何で!」
「私が怖がっても許してあげます、みたい」
「あ」
言われて。
気づいた。
確かに。
そう聞こえる。
「違う!」
「でも聞こえた」
「すみません!」
即座に謝った。
新八さんが。
「お前たちは忙しいな」
と呟く。
本当に。
俺もそう思う。
紬は。
少しだけ。
口元を動かした。
笑ったのか。
怒ったのか。
分からない。
でも。
さっきより。
一歩分の距離が。
少しだけ。
近く感じた。
◇
「一つ」
政宗が言った。
「分からぬことがある」
俺は。
政宗を見る。
「一つだけですか?」
「斬るぞ」
「すみません」
今日は。
何だか。
本当に斬られそうな気がする。
「俺が」
政宗が続ける。
「なぜ拓真に命じた」
部屋が。
静かになる。
「仮に」
政宗は。
紬を見る。
「俺が天下人となり、紬を殺す必要が生じたとする」
俺は。
顔をしかめた。
嫌な仮定。
でも。
聞く。
「ならば」
政宗が。
自分の腰の刀へ。
軽く触れる。
「俺が斬ればよい」
誰も。
すぐには。
何も言わなかった。
確かに。
そうだ。
政宗なら。
人に命じるより。
自分でやる?
いや。
主君だから。
全部自分でやるわけにはいかない。
でも。
なぜ。
俺。
俺なんかに。
刀もまともに使えない。
未来人の俺に。
「理由がある」
小十郎さんが言った。
政宗が頷く。
「俺が命じた理由」
「はい」
「拓真殿が従った理由」
「……はい」
「そして」
小十郎さんが。
紬を見る。
「紬が斬られねばならなかった理由」
俺の胃が。
痛くなった。
本当に。
痛い気がする。
「全部調べるんですか」
「当然だ」
政宗が言う。
「嫌だと言ったら?」
「調べる」
「俺の意思!」
「関係ない」
「横暴!」
「知っておる」
認めるな。
でも。
俺も。
分かっていた。
知りたい。
怖い。
でも。
知りたい。
なぜ俺は。
紬を斬った。
本当に。
斬ったのか。
そして。
その時の紬は。
何を思っていた。
◇
写真を。
もう一度。
調べた。
一度目の俺。
知らない女。
写真の端に。
赤い糸を巻いた。
志乃らしき手。
そして。
俺の右手首。
紬からもらったらしい。
布紐。
「これ」
紬が言った。
「外せないの?」
「写真から?」
「違う。実物」
「どこにあるんです」
「偽田中の荷物」
俺は。
小十郎さんを見る。
小十郎さんが。
少し考え。
別の包みを出した。
「あ」
あった。
写真だけじゃない。
偽田中が。
隠し持っていた。
細い。
古びた。
布紐。
俺は。
息を止めた。
「これ」
紬が。
手に取る。
「私の縫い方」
「分かるんですか」
「分かる」
少し。
むっとした。
「私が縫った物くらい」
「すみません」
俺には。
全然。
分からない。
紬が。
布紐を。
指で。
ゆっくり触る。
その時。
「待って」
声が変わった。
「何です」
「内側」
縫い目。
一部。
妙に硬い。
紬が。
爪で。
少し開く。
「おい」
新八さんが止める。
「壊れるぞ」
「もう壊れてる」
確かに。
古い。
紬が。
布を。
そっと。
開く。
内側。
黒ずんでいる。
いや。
赤黒い。
「血?」
俺が聞く。
誰も。
答えない。
そして。
そこに。
文字。
小さい。
本当に。
小さい。
血で。
書いたような。
三つの文字。
俺は。
読めなかった。
この時代の字。
「何て」
声が。
震えた。
小十郎さんが。
布紐を受け取る。
読む。
顔が。
変わった。
「何です」
「……私は」
少し。
間。
「頼んだ」
俺は。
息を止めた。
「誰が」
答え。
分かっている。
でも。
聞いた。
小十郎さんは。
紬を見る。
「おそらく」
静かに。
「一度目の紬が」
部屋が。
静かになった。
私は。
頼んだ。
何を。
誰に。
俺に?
斬ってくれと?
殺してくれと?
「嘘」
俺が言う。
でも。
今度は。
声に。
力がなかった。
紬が。
布紐を見る。
「私」
呟く。
「拓真に頼んだの?」
俺は。
すぐに言った。
「分かりません」
「殺してって?」
「分からない!」
また。
強くなった。
紬が。
俺を見る。
俺は。
顔を背けた。
「すみません」
「また謝る」
「だって」
「分からないから怒った?」
「……はい」
「私に?」
「違う!」
すぐ。
顔を戻す。
「自分に!」
紬が。
黙った。
「何も覚えてない自分にです」
俺は。
自分の頭を。
指で叩いた。
「一度目の俺が何をしたのか」
「……」
「何であなたを斬ったのか」
「……」
「何であなたが頼んだのか」
「……」
「俺だけ何も知らない」
腹が立つ。
怖い。
情けない。
「一度目の俺は知ってたのに」
俺は。
笑った。
たぶん。
ひどい顔だった。
「今の俺には何もない」
紬が。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
「ある」
と。
言った。
「何が」
「私」
俺は。
止まった。
紬は。
少し。
気まずそうな顔をした。
自分で言って。
恥ずかしくなったのかもしれない。
「今の」
付け足す。
「今の私がいる」
俺は。
何も言えなかった。
「だから」
紬が。
少しだけ。
目を逸らす。
「前の私が何を頼んだか知らないけど」
「はい」
「今の私は」
俺を見る。
「今は、殺してって頼んでない」
「……はい」
「だから勝手に殺さないで」
俺は。
思わず。
「殺しませんよ!」
と叫んだ。
紬が。
少し。
笑った。
「本当に?」
その質問。
冗談に。
できなかった。
俺は。
すぐに。
絶対と言いたかった。
でも。
一度目の俺は。
斬ったらしい。
簡単に。
嘘はつけない。
「……今の俺は」
ゆっくり言う。
「あなたを斬りたくありません」
紬が。
黙る。
「絶対にないとは」
喉が。
痛い。
「もう、簡単には言えません」
紬の目が。
少し。
傷ついた。
分かった。
でも。
続けた。
「だって」
声。
震える。
「俺が何をされたら変わるのか、自分でも分からないから」
「……」
「でも」
紬を見る。
「少なくとも今は」
はっきり。
言った。
「あなたを斬りたくない」
長い。
沈黙。
紬が。
小さく。
「そっか」
と答えた。
信じた。
とは。
言わなかった。
怖くないとも。
言わなかった。
でも。
離れもしなかった。
俺の隣に。
いた。
それで。
今は。
十分だった。
◇
その夜。
城へ戻る途中。
紬が。
前を歩きながら。
急に言った。
「ねえ」
「何です」
「私なら」
振り向かない。
「何をされたら、あんたに殺してって頼むんだろうね」
俺は。
答えられなかった。
新八さんも。
小十郎さんも。
何も言わない。
山道。
風。
木々の音。
そして。
俺は。
思った。
たぶん。
次に探すべきなのは。
誰が裏切ったかじゃない。
誰が敵かでもない。
一度目の紬に。
何が起きたのか。
なぜ。
あの紬は。
俺に。
自分を殺してくれと。
頼んだのか。
その時だった。
道の先。
一人の少女が。
立っていた。
痩せた。
ぼろぼろの着物。
長い黒髪。
俺たちを。
待っていた。
その少女は。
紬を見ると。
震える声で言った。
「美緒」
紬の足が。
止まった。
少女が。
泣いた。
「生きてたんだ」
そして。
次の言葉で。
俺たちは。
全員。
動けなくなった。
「今度は」
少女は言った。
「私を置いていかないで」
紬の顔から。
血の気が。
消えた。




