第42話 田中さんは、倒れる前日に俺へ「もう無理だ」と言っていました
――倒れる前日、田中さんはあなたに「助けて」と言ったでしょう?
違う。
そんな記憶。
ない。
ないはずだった。
でも。
頭の奥。
ずっと閉まっていた何かが。
ゆっくり。
嫌な音を立てて。
開いた。
◇
『神谷くん』
自販機の前だった。
たしか。
午後。
残業前。
俺は。
缶コーヒーを買った。
ブラック。
田中さんは。
壁にもたれていた。
顔。
白かった。
でも。
珍しくなかった。
あの会社では。
みんな。
大体。
顔色が悪かった。
『神谷くん』
『はい?』
『俺さ』
田中さんが。
笑った。
疲れた顔で。
弱く。
『もう、ちょっと無理かもしれない』
俺は。
その時。
何て答えた。
思い出した。
全部。
『俺もですよ』
俺は。
笑った。
『みんな無理ですよ。佐々木課長以外』
田中さんも。
笑った。
『ああ』
って。
少しだけ。
笑った。
それで。
終わった。
俺は。
自分の席に戻った。
田中さんも。
戻った。
次の日。
田中さんは倒れた。
◇
「……思い出した」
自分の声が。
遠かった。
紙を持つ手が。
震えていた。
紬が。
俺の前にしゃがむ。
「何を」
「田中さん」
声。
うまく出ない。
「言ってました」
「何て」
俺は。
しばらく。
答えられなかった。
でも。
逃げたくなかった。
今度は。
「もう、無理かもしれないって」
紬は。
黙っていた。
新八さんも。
近くに立っている。
でも。
何も言わない。
「俺」
笑った。
いや。
笑えてなかったと思う。
「俺もですよって」
喉が。
痛い。
「みんな無理ですよって」
紬が。
俺を見る。
「それだけ?」
「はい」
「田中って人も?」
「笑いました」
「じゃあ」
紬が言う。
「分からないじゃん」
俺は。
顔を上げた。
「何が」
「本当に助けてって意味だったか」
「でも次の日倒れた!」
思ったより。
声が大きくなった。
紬の眉が。
少し動く。
「結果を知ってるから、そう思うだけかもしれない」
「でも!」
「じゃあ拓真は、あの時分かったの?」
「……」
「分かったのに、無視した?」
「違います」
即答した。
「分からなかった?」
「はい」
「なら」
「でも今なら分かる!」
止まらなかった。
「今なら分かるんですよ! 顔色悪かった! 疲れてた! もう無理だって言った! 何で気づかなかったんだ!」
紬は。
黙った。
「俺」
呼吸が。
速くなる。
「自分も疲れてたから」
言う。
「自分もつらかったから」
「うん」
「だから、田中さんの言葉を」
喉。
詰まる。
「自分の愚痴と同じだって思った」
紬が。
小さく。
「うん」
「ちゃんと聞かなかった」
「うん」
「助けなかった」
「……」
「俺が」
「違う」
紬が言った。
俺は。
顔を上げる。
「何が違うんです」
「拓真が、今」
紬は。
少し考えて。
「自分に都合よく、全部まとめようとしてる」
「は?」
腹が立った。
少し。
本気で。
「都合よく?」
「そう」
「俺が自分を責めてるのに?」
「だから」
紬の声も。
少し強くなる。
「私が悪い。全部私が悪い。そう言えば、それ以上考えなくて済むから」
胸を。
殴られた気がした。
「紬」
「何」
「それ、自分にも言ってます?」
紬が。
黙った。
俺も。
黙る。
新八さんが。
横から。
「似た者同士だな」
と言った。
俺と紬が。
同時に見る。
「違います!」
「違う」
また。
重なった。
新八さんが。
ものすごく嫌そうな顔をした。
「やはり似ておる」
「どこが!」
「どこが」
また。
重なった。
最悪。
でも。
ほんの少し。
息ができた。
◇
俺たちは。
詰所から離れた。
政宗たちのいる部屋へ戻る前。
紬が。
廊下の途中で。
「待って」
と言った。
俺は止まる。
「何です」
「さっきの続き」
「まだやるんですか」
「逃げる?」
「……やります」
本当に。
嫌な人だ。
でも。
今は。
その嫌さが。
ありがたかった。
「拓真」
「はい」
「悪かったかもしれない」
俺は。
目を伏せた。
優しい言葉。
くれないんだ。
「田中って人が、本当に助けてほしかったなら」
紬は続ける。
「拓真は気づかなかった」
「はい」
「笑った」
「はい」
「次の日、倒れた」
「……はい」
「悪かったかもしれない」
もう一度。
言う。
痛い。
でも。
俺は。
頷いた。
「そうですね」
「でも」
紬が。
俺を見る。
「それで、今の全部まで駄目になるの?」
「……何ですか、それ」
「拓真が田中って人を助けられなかった」
「はい」
「だから千代を助けたことも駄目?」
「違います」
「小鈴も?」
「違う」
「私も?」
「違う!」
即答した。
紬が。
少しだけ。
笑った。
「じゃあ違うじゃん」
「そんな単純じゃ」
「分かってる」
「分かってない!」
「分かってる」
紬が。
珍しく。
強く言い返した。
「拓真がずっと気にするのも」
「……」
「田中って人に悪かったって思うのも」
「……」
「たぶん、正しいとか間違いじゃない」
俺は。
黙って聞いた。
「だから」
紬が言う。
「分からないまま生きれば」
俺は。
少し。
笑った。
「何ですか、それ」
「分からないなら、仕方ない」
「雑!」
「じゃあ一生座って悩んでれば」
「急に冷たい!」
「面倒だから」
「お前な!」
紬が。
少し笑った。
俺も。
本当に。
少しだけ。
笑った。
でも。
田中さんのことは。
消えない。
たぶん。
一生。
それで。
いいのかもしれない。
よくないのかもしれない。
分からない。
だから。
分からないまま。
生きる。
なんて。
ものすごく。
無責任で。
でも。
たぶん。
人間は。
そうするしかないこともある。
◇
「で」
政宗が言った。
「その男は未来人ではない」
俺は。
顔を上げた。
「え?」
俺たちは。
政宗たちの部屋に戻っていた。
小十郎さん。
新八さん。
愛姫様。
紬。
そして。
俺。
政宗は。
さっきの偽田中について。
当然のように言った。
「何で分かるんです」
「お前より馬鹿だからだ」
「説明になってない!」
俺は叫んだ。
政宗が。
少し笑う。
小十郎さんが。
代わりに説明した。
「拓真殿」
「はい」
「私は先ほど、あの男にいくつか尋ねました」
「何を」
「会社とは、どのような建物か」
俺は。
黙った。
「缶珈琲とは、どのような器か」
「……」
「救急車とは、どのような形か」
「答えは?」
小十郎さんが。
首を振る。
「何も」
俺の背中が。
冷えた。
「でも」
俺は言う。
「会社名も。佐々木課長も。田中さんも。缶コーヒーを落としたことも知ってた」
「言葉は知っております」
「でも意味は知らない?」
「おそらく」
小十郎さんが頷く。
「誰かに教え込まれたのでしょう」
俺は。
詰所の方向を見る。
「もう一人の未来人に?」
「はい」
政宗が。
「つまらぬ男だ」
と言う。
「その感想?」
「自分で未来人を名乗りながら、未来を知らぬ」
「でも」
俺は。
少し考える。
「それなら逆に怖いですよ」
政宗が。
目を細める。
「何がだ」
「あの男じゃない」
俺は。
紙を見る。
「本物の方」
もう一人の未来人。
女。
俺を知っている。
田中さんを知っている。
俺が忘れていた会話まで。
知っている。
「何で」
俺は呟く。
「俺より俺のこと知ってるんだ」
誰も。
答えられなかった。
◇
その夜。
偽田中への尋問は。
もう一度。
行われた。
俺は。
参加したくなかった。
でも。
政宗が。
「来い」
と言った。
「嫌です」
「来い」
「嫌だって言ってるでしょう!」
「来い」
「話を聞け!」
結局。
行った。
本当に。
最悪の主だ。
男は。
縛られたまま。
座っていた。
政宗が。
真正面に座る。
俺は。
少し後ろ。
紬もいる。
「お前は未来人ではない」
政宗が言う。
男が。
笑う。
「どうかな」
「会社とは何だ」
「人が働く場所」
「どのような建物だ」
沈黙。
「缶珈琲とは」
「飲み物」
「何に入っておる」
沈黙。
政宗が。
鼻で笑った。
「つまらぬ」
男の顔が。
少し変わった。
効いた。
そこ?
でも。
効いた。
政宗。
本当に。
人を苛つかせるのが上手い。
「お前は」
政宗が続ける。
「女に教えられた言葉を、覚えてきただけだ」
男が。
黙る。
「違うか」
「……」
「名は」
答えない。
「どこにいる」
答えない。
「なぜ拓真を知る」
答えない。
政宗が。
少し。
前へ出る。
「なぜ、こやつが忘れたことまで知っておる」
男が。
初めて。
俺を見る。
その目。
嫌だった。
同情?
違う。
憐れみ?
「神谷」
呼ばれた。
俺は。
答えなかった。
「お前」
男が言う。
「まだ分かってないんだな」
「何がです」
「自分が、どこから来たのか」
俺の眉が。
動く。
「日本ですけど」
政宗が。
「東都何とかか」
と言う。
「それ会社!」
男が。
笑った。
「そうじゃない」
俺は。
男を見る。
「じゃあ何です」
男は。
少し。
黙った。
そして。
政宗へ目を向けた。
「殿」
と。
呼んだ。
嫌な。
馴れ馴れしい呼び方。
「あなた方は」
男が言う。
「勘違いしている」
「何をだ」
「俺の主人は」
少し。
間。
「未来を知っているのではない」
俺の背中が。
冷えた。
政宗の目が。
細くなる。
「では何を知る」
男が。
笑った。
「神谷拓真が」
俺を見る。
「未来へ帰った後のことを知っている」
俺は。
何も言えなかった。
未来へ。
帰った後?
「……何です、それ」
声が。
うまく出ない。
男は。
続けた。
「お前は一度」
ゆっくり。
「この時代から帰っている」
俺の心臓が。
大きく鳴った。
「嘘だ」
即答した。
「俺は帰ってない」
「覚えていないだけだ」
「嘘だ!」
「主人は知っている」
「何を!」
「お前が」
男が。
笑った。
「伊達政宗を天下人にしようとして」
俺を見る。
「何を失ったのかを」
部屋が。
静まり返った。
俺は。
何も。
言えなかった。
紬が。
俺の袖を。
掴んだ。
強く。
そして。
男が。
最後に言った。
「だから、主人は止めるんだ」
笑い。
嫌な。
本当に。
嫌な。
「二度目の神谷拓真が、同じ過ちを犯さないようにな」




