第38話 政宗は、妻を裏切り者と呼びませんでした
「愛」
古堂の外から。
声がした。
愛姫様の顔が。
変わった。
俺は。
その声を知っている。
聞き間違えるはずもない。
戸が。
ゆっくり開いた。
そして。
伊達政宗が入ってきた。
俺は。
立ち上がった。
「何でいるんですか!」
第一声が。
それだった。
後から考えると。
もっと他にあったと思う。
政宗様。
とか。
ご無事で。
とか。
でも。
無理だった。
「城に残るって言いましたよね!?」
政宗が俺を見る。
「言ったな」
「じゃあ何で来た!」
「来たかったからだ」
「子供か!」
新八さんが。
俺の肩を掴んだ。
「殿に向かって何という口を」
「でも新八さんも思ってるでしょう!」
「思っておらぬ」
「今、一瞬目を逸らした!」
「黙れ」
痛い。
肩が。
本当に。
政宗は。
俺たちを無視して。
愛姫様を見た。
「愛」
「……はい」
「無事か」
最初に。
それを聞いた。
愛姫様の唇が。
少し動いた。
「はい」
「傷は」
「ございません」
「そうか」
政宗は。
それだけ言った。
怒らない。
責めない。
抱きしめたりもしない。
ただ。
愛姫様の手元を見る。
軍議書。
「それは?」
「殿の軍議書です」
「お前が持ち出したのか」
長い沈黙は。
なかった。
「はい」
愛姫様は答えた。
「俺に黙って?」
「はい」
「一部を外へ渡したか」
俺は。
愛姫様を見る。
紬も。
新八さんも。
黙っている。
「はい」
愛姫様は。
もう一度。
答えた。
古堂が。
静かになる。
言い訳しない。
守りたかった。
脅された。
騙された。
何も。
先には言わなかった。
政宗が。
愛姫様を見る。
片目。
俺には。
何を考えているか分からない。
いつもの。
面白そうな笑いもない。
「愛」
「はい」
「お前は」
声が。
静かだった。
「俺を裏切ったのか」
愛姫様の顔が。
歪んだ。
ほんの少し。
でも。
俺には分かった。
泣きそうだった。
たぶん。
「……分かりません」
その答えに。
俺は驚いた。
新八さんも。
少し顔を動かした。
でも。
政宗だけは。
何も言わない。
愛姫様が続けた。
「殿をお守りしたいと思いました」
「うむ」
「志乃という女が、何を企んでいるのか確かめたかった」
「うむ」
「けれど」
愛姫様の手が。
軍議書を強く握る。
「私は」
声が。
震えた。
「怖かったのです」
政宗は黙っている。
「殿が私を信じていないと言われて」
「……」
「いずれ捨てられると」
「……」
「私は殿の弱点でしかないと」
愛姫様は。
俯いた。
「そんな言葉を信じたくなかった」
声。
小さい。
「でも」
さらに。
小さくなる。
「少しだけ」
俺は。
息を止めた。
「少しだけ、信じました」
誰も。
何も言えない。
分かる。
と思った。
人は。
嫌な言葉ほど。
頭に残る。
お前はいらない。
お前には価値がない。
嫌われている。
捨てられる。
馬鹿な話だと。
頭では分かっても。
一度。
心のどこかに入ると。
何度も。
何度も。
勝手に出てくる。
俺だって。
会社にいた頃。
お前の代わりはいくらでもいる。
冗談みたいに。
何度も言われた。
辞めた後まで。
覚えている。
「だから」
愛姫様が言った。
「確かめたかったのです」
政宗が。
やっと聞いた。
「何を」
「殿が」
少し間。
「私を信じておられるか」
政宗が。
ため息をついた。
大きく。
深く。
俺は。
少し怖くなった。
怒る?
斬る?
いや。
さすがに妻を斬るとか。
でも。
この時代だ。
分からない。
政宗は。
愛姫様へ近づいた。
そして。
「馬鹿だな」
と言った。
愛姫様が。
顔を上げる。
俺は。
思わず。
「あ」
と言った。
政宗が見る。
「何だ」
「俺も同じこと言いました」
「誰に」
「愛姫様に」
新八さんが。
ものすごい顔で俺を見る。
「本人には言ってません!」
そこは。
大事。
政宗は。
少し笑った。
愛姫様も。
ほんの少しだけ。
口元を緩めた。
でも。
政宗はすぐ。
真顔に戻る。
「愛」
「はい」
「俺を守りたかったか」
「はい」
「俺を疑ったか」
長い。
沈黙。
「……はい」
「俺の軍議書を持ち出したか」
「はい」
「外へ渡したか」
「はい」
一つずつ。
事実。
逃げられない。
「ならば」
政宗が言った。
「今ここで、裏切ったかどうかなど決められぬ」
俺は。
政宗を見る。
愛姫様も。
「殿?」
「守りたいと思えば、何をしても許されるわけではない」
厳しい。
声。
「お前が漏らした情報で、兵が死ぬかもしれぬ。民が焼かれるかもしれぬ」
愛姫様が。
俯く。
「はい」
「だが」
政宗が続ける。
「疑ったから裏切り者だとも申さぬ」
愛姫様の目が。
揺れた。
「俺が」
政宗は言う。
「今すぐお前を許せば、それは妻だからだ」
誰も。
何も言わない。
「今すぐお前を斬れば、それは疑うのが楽だからだ」
俺は。
少し。
ぞくっとした。
「だから」
政宗は。
愛姫様を見る。
「俺も今は決めぬ」
愛姫様が。
泣いた。
声を上げたわけじゃない。
ただ。
一筋。
涙が落ちた。
「……はい」
それだけ。
政宗も。
何も言わなかった。
抱きしめない。
慰めない。
でも。
逃げもしない。
ああ。
夫婦って。
たぶん。
もっと。
簡単じゃない。
好きだから信じる。
疑ったら終わり。
そんな。
綺麗なものじゃない。
信じたい。
でも。
疑う。
腹が立つ。
でも。
いなくなられると困る。
本当に。
人間は。
面倒くさい。
◇
「ところで」
俺が言った。
全員が見る。
「何だ」
政宗が聞く。
「どうやってここまで来たんです?」
「馬だ」
「そういう意味じゃない!」
新八さんが。
ため息をつく。
俺は。
政宗を指差した。
「作戦では城に残るはずでしたよね!」
「うむ」
「偽の一行を出して!」
「うむ」
「俺たちが別経路!」
「うむ」
「あなたは城!」
「うむ」
「なぜここに!」
政宗が。
普通に答えた。
「愛が心配だった」
俺は。
黙った。
反則だ。
その答え。
ずるい。
「……じゃあ仕方ないですね」
紬が。
隣で。
「弱い」
と言った。
「何が!」
「そういうのに」
「うるさい!」
政宗が。
笑った。
愛姫様も。
涙を拭きながら。
少しだけ笑った。
その時。
新八さんが言う。
「愛姫様」
「何でしょう」
「外へ渡した軍議書の内容を」
空気が。
戻った。
そうだ。
そこ。
一番大事。
愛姫様は。
袖から。
もう一枚。
紙を出した。
「これです」
新八さんが受け取る。
読む。
顔が変わる。
政宗も見る。
小さく。
笑った。
「愛」
「はい」
「お前」
政宗の口元が。
少し。
上がる。
「書き換えたな」
俺は。
愛姫様を見る。
「え?」
愛姫様が。
少しだけ。
気まずそうな顔をした。
「すべてを渡すほど」
言う。
「私は殿を嫌っておりません」
政宗が。
声を出して笑った。
「はははは!」
「そこ笑うんですか!」
俺は叫ぶ。
でも。
意味は分かった。
本物ではない。
愛姫様は。
軍議書の一部を。
書き換えていた。
「どこを?」
俺が聞く。
愛姫様は。
指を差す。
新八さんが読む。
「兵糧の移送先」
「本当は?」
政宗が答える。
「南」
「渡した紙は?」
「北」
俺は。
理解した。
「じゃあ」
「敵がこの情報で動けば」
新八さんが言う。
「北へ向かう」
「捕まえられる!」
俺は。
思わず声を上げた。
愛姫様が。
小さく頷く。
「それを確かめたかったのです」
俺は。
何とも言えない顔になった。
この人。
悩んで。
怖がって。
疑って。
敵の誘いに乗って。
でも。
そのまま全部は渡さなかった。
裏切った?
裏切ってない?
本当に。
分からない。
「愛姫様」
俺は言った。
「何でしょう」
「やっぱり馬鹿です」
新八さんが。
「拓真!」
と怒鳴った。
俺は。
慌てて続ける。
「でも、俺も同じ種類の馬鹿なので!」
紬が言う。
「それ慰めになってない」
「知ってる!」
愛姫様は。
少し。
笑った。
◇
敵は。
その夜。
北へ動いた。
愛姫様が渡した。
偽の情報を信じて。
待ち伏せていた兵が。
一人。
男を捕らえた。
若い。
二十代くらい。
商人風。
でも。
手には。
武器を握った跡。
俺たちは。
城へ戻る途中。
その男と会った。
新八さんが聞く。
「誰の命令だ」
男は。
黙る。
「志乃か」
反応なし。
「もう一人の未来人か」
その瞬間。
男の目が。
動いた。
俺は。
見逃さなかった。
「いるんですね」
男は黙る。
「本当に」
俺は。
近づく。
「未来から来た人が」
男が。
やっと。
俺を見る。
「お前とは」
声。
低い。
「違う」
背中が。
冷える。
「何が」
男は。
笑った。
「何も知らずに来たお前とは違う」
俺は。
黙った。
「その方は」
男が。
続ける。
「すべて知っている」
「何を」
「伊達政宗が」
政宗を見る。
「どこで負けるか」
「……」
「誰に従うか」
「……」
「誰を失うか」
俺の喉が。
乾く。
そして。
男が。
最後に言った。
「その方は」
一度。
息を吸う。
「女だ」
誰も。
すぐには。
何も言わなかった。
俺は。
男を見る。
「女性?」
「そうだ」
「何歳」
答えない。
「名前は」
答えない。
「どこにいる」
笑う。
男が。
本当に。
嫌な笑いをした。
「お前は、まだ会っていないと思っているのか」
俺は。
息を止めた。
何?
「どういう意味です」
男は。
それ以上。
何も言わなかった。
ただ。
笑っていた。
俺は。
急に。
怖くなった。
もう一人の未来人。
女。
俺より先に。
この奥州へ来ている。
もしかして。
俺は。
もう。
会っている?
誰に。
志乃?
違う?
愛姫様?
まさか。
紬?
俺は。
反射的に。
紬を見た。
紬が。
ものすごく。
嫌な顔をした。
「何」
「いや」
「今、疑った?」
「違います!」
「顔」
「本当に顔に出るの嫌だ!」
政宗が。
笑った。
でも。
俺は。
笑えなかった。
敵の男が言った。
最後の一言。
それが。
頭から離れない。
――お前は、まだ会っていないと思っているのか。
そして。
その夜。
城へ戻った俺の部屋に。
一枚の紙が。
置かれていた。
現代の。
日本語で。
こう書いてあった。
――神谷拓真。
――やっと、会えたね。
俺の手が。
震えた。




