第26話 片倉小十郎の印を持つ女
政宗は。
笑っていなかった。
それだけで。
部屋の空気が。
さっきまでとは全く違うものになった。
「小鈴」
「……はい」
「確かなのだな」
政宗が聞く。
小鈴は布団の中で。
少し怯えた顔をした。
「分からない」
俺は。
一瞬。
えっ。
と思った。
さっきは持っていたと言ったじゃないか。
でも。
小鈴は続けた。
「片倉様の印だって、あの人が言ってた」
「あの女自身が?」
小鈴が頷く。
「だから。本当にそうなのかは、分からない」
政宗が。
ほんの少し目を細めた。
俺は。
息を吐いた。
安心した?
自分でも分からない。
ただ。
小十郎さんの印だと確定したわけではない。
それだけで。
少し。
救われた気がした。
「拓真」
政宗が呼ぶ。
「はい」
「今、安心したな」
「え」
「顔に出ておる」
「俺の顔、そんなに何でも表示するんですか!?」
新八さんが言う。
「お前は分かりやすい」
紬も。
「分かりやすい」
千代まで。
小さく頷いた。
俺は頭を抱えた。
「もう顔に布でも巻こうかな……」
「余計怪しい」
楓が言った。
「じゃあどうしろっていうんです!」
その時。
小鈴が。
くすっと笑った。
俺は。
それで。
まあいいか。
と思った。
さっきまで死にかけていた子が笑った。
俺の顔が分かりやすいくらい。
安いものだ。
たぶん。
「呼べ」
政宗が言った。
新八さんが。
ほんの一瞬だけ。
黙った。
「……殿」
「何だ」
「よろしいので?」
「何がだ」
「片倉様を」
政宗は。
新八さんを見る。
「だからこそ呼ぶ」
短い。
それだけだった。
新八さんは頭を下げる。
「はっ」
そして。
小十郎さんが呼ばれた。
◇
「私の印を持つ女、ですか」
小十郎さんは。
いつもの顔だった。
穏やか。
静か。
そして。
何を考えているのか。
よく分からない。
俺は。
そのことが。
今まで以上に怖かった。
「小鈴」
政宗が言う。
「申せ」
小鈴が。
布団を握った。
小十郎さんを見る。
怯えている。
俺は。
思わず言った。
「無理しなくても」
政宗が俺を見る。
「拓真」
「いや、でも」
「大丈夫」
小鈴が言った。
声は小さい。
でも。
ちゃんと。
自分で言った。
「話す」
俺は黙った。
小鈴は。
ゆっくり。
説明した。
夜。
女の声。
拓真の部屋から紙を盗めと言われたこと。
砦へ戻すと脅されたこと。
手首に赤い糸。
そして。
女が口にした言葉。
――私は片倉様のお印を預かっている。
小十郎さんは。
最後まで。
何も言わなかった。
「どうだ」
政宗が聞く。
「心当たりは」
長い。
ほんの少しだけ。
長い沈黙だった。
俺は。
その間を。
嫌だと思った。
すぐに。
ない。
そう言ってほしかった。
でも。
小十郎さんは。
「ございます」
と答えた。
俺の胃が。
ぎゅっと縮んだ。
紬の顔も。
少し険しくなる。
「申せ」
政宗が言う。
小十郎さんは。
頭を下げた。
「私の印ならば」
そして。
静かに。
「一つ、失っております」
誰も。
すぐには。
言葉を出せなかった。
俺が。
一番最初だった。
「……失くしたんですか」
「はい」
「いつ」
「半年ほど前です」
「半年!?」
思わず声が大きくなる。
「それ、結構前じゃないですか!」
「そうですね」
「そうですね、じゃないでしょう!」
政宗が俺を見る。
「拓真」
「はい」
「少し黙れ」
「はい」
怒られた。
でも。
小十郎さんを見る。
半年。
紬が山ノ瀬村にいた時期。
人買い。
水番。
もしかしたら。
全部。
重なる。
「なぜ報告しなかった」
政宗が聞く。
声。
冷たい。
俺まで。
怖くなった。
小十郎さんは。
頭を下げたまま。
答えた。
「盗まれたとは、考えておりませんでした」
「では」
「紛失したものと」
「お前が?」
政宗の声が。
さらに低くなる。
「片倉小十郎景綱が、自らの印を失くし。それを半年も俺に告げなかったと?」
小十郎さんは。
黙った。
その沈黙。
肯定だった。
俺は。
信じられなかった。
あの小十郎さんが?
何でもできて。
何でも気づいて。
俺よりずっと先まで考えている人が?
「小十郎さん」
思わず。
呼んだ。
「本当に?」
「本当です」
「何で」
「拓真殿」
「だって、あなた」
言葉が出ない。
何でもできる人だと。
勝手に思っていた。
失敗しない。
間違えない。
そんな人。
いないのに。
「なぜ黙っていた」
政宗が。
もう一度聞く。
小十郎さんは。
少しだけ。
目を閉じた。
「私が」
そして。
言った。
「私自身の失態であると考えたからです」
「だから隠した?」
「……はい」
俺は。
思わず。
「えっ」
と声を出した。
小十郎さんが。
こっちを見る。
「何です」
「いや」
「何か」
「もっと格好いい理由があるかと思ってました」
全員が俺を見る。
しまった。
でも。
本音だ。
小十郎さんが。
ほんの少し。
眉を寄せた。
「拓真殿」
「すみません! でも本当に!」
政宗が。
吹き出した。
「はっ」
笑った。
ほんの一瞬。
「小十郎」
「はっ」
「言われておるぞ」
「殿まで」
初めて。
小十郎さんが。
少し。
嫌そうな顔をした。
それで。
俺は。
何となく。
安心してしまった。
この人も。
失敗する。
隠したくもなる。
怒られたくない。
恥ずかしい。
そういうことが。
ある。
「ただ」
小十郎さんが続ける。
「それだけではありません」
また。
空気が変わった。
やっぱり。
あるのか。
「印を最後に扱った者がおります」
政宗が聞く。
「誰だ」
小十郎さんは。
一瞬。
躊躇した。
俺は。
それを見た。
確かに。
「申せ」
政宗の声。
小十郎さんは。
答えた。
「私の屋敷に仕えていた女中です」
紬の肩が。
動いた。
「名は」
「志乃」
その瞬間。
紬の顔から。
血の気が引いた。
「紬?」
俺が呼ぶ。
反応がない。
「知ってる?」
千代が。
紬の袖を掴む。
「紬」
「……知ってる」
声が。
小さかった。
小十郎さんが。
紬を見る。
初めて。
目が変わった。
「どこで」
紬は。
唇を噛んだ。
言いたくない。
そんな顔。
でも。
今回は。
逃げなかった。
「山ノ瀬」
答えた。
「水番役人のそばにいた女」
小鈴が。
布団から。
少し身体を起こす。
「赤い糸?」
紬が頷いた。
「たぶん」
「たぶん?」
俺が聞く。
「顔をはっきり見たわけじゃない」
「でも知ってるんですよね」
紬は。
黙った。
「紬」
「……声」
「声?」
「聞いたことがある」
部屋の空気が。
静かになる。
「どこで」
俺は。
聞いた。
紬は。
答えなかった。
何秒。
経っただろう。
「昔」
やっと。
言った。
「私が、まだ紬じゃなかった頃」
俺は。
息を止めた。
紬の昔の名前。
今まで。
聞かなかった。
いや。
聞けなかった。
本人が。
捨てたと言ったから。
「志乃という女が」
政宗が聞く。
「お前を知っていたのか」
紬は。
頷いた。
「名前も?」
また。
頷く。
俺は。
聞かない方がいい。
そう思った。
でも。
紬が。
自分から言った。
「あの女」
声が震えていた。
「私を見て」
一度。
息を吸う。
「そう呼んだ」
「何と」
小十郎さんが聞く。
紬は。
俺を見る。
なぜ。
俺を見たのか。
分からない。
でも。
その目。
怖かった。
昔に戻される。
そんな。
顔だった。
「……美緒」
紬が言った。
「それが」
少し。
笑った。
苦い。
嫌な笑い。
「私の昔の名前」
俺は。
何も言えなかった。
美緒。
紬。
どっちが本当の名前なのか。
そんなこと。
たぶん。
どうでもいい。
今。
目の前にいるのは。
紬だ。
でも。
本人にとっては。
違う。
「美緒」
千代が。
小さく呼んだ。
紬が。
びくっとした。
「呼ばないで」
強い声。
千代が怯える。
「ご、ごめん」
「その名前は」
紬が。
拳を握る。
「もう捨てたから」
俺は。
何か言おうとした。
でも。
やめた。
何を言っても。
薄っぺらくなる気がした。
その時。
小十郎さんが。
低い声で言った。
「志乃は」
全員が見る。
「三か月前に、死んだと聞いております」
今度こそ。
誰も。
何も言えなかった。
「……死んだ?」
俺が聞く。
「はい」
「本当に?」
「確認はしておりません」
「誰から聞いたんです」
小十郎さんが。
答える。
「水番役人からです」
ぞっとした。
繋がった。
いや。
繋がっていない。
でも。
糸は。
見えた。
水番。
志乃。
失われた印。
人買い。
紬の昔の名前。
そして。
偽の情報。
「政宗様」
俺は言った。
「これ」
「うむ」
「思ったより、ずっと面倒なやつですよね」
政宗が。
笑った。
今度は。
いつもの笑いじゃない。
冷たい。
狩る前の。
獣みたいな。
「ようやく気づいたか」
「気づきたくなかったです」
「俺は面白くなってきた」
「人の苦労を娯楽にするな!」
「拓真」
「何です」
「志乃は生きておる」
俺は。
黙った。
「なぜ分かるんです」
「死んだ者は、夜に人を脅せぬ」
それは。
そうだ。
「小十郎」
「はっ」
「お前が失った印」
「はい」
「志乃」
「はい」
「水番」
「はい」
「すべて洗え」
小十郎さんが。
深く頭を下げた。
「必ず」
そして。
政宗は。
紬を見る。
「そなたもだ」
紬の顔が。
固くなる。
「美緒と呼ばれていた頃」
紬が。
睨んだ。
政宗を。
本気で。
「その名で呼ぶな」
新八さんが息を呑む。
俺も。
さすがに。
怖い。
でも。
政宗は。
怒らなかった。
「ならば紬」
言い直した。
「そなたの過去を、すべて話せとは言わぬ」
紬が。
少し驚く。
「だが」
政宗は続けた。
「志乃を追うのに必要なことは申せ」
紬は。
黙った。
長い。
長い沈黙。
そして。
小さく。
「考える」
と答えた。
「それでよい」
政宗は言った。
俺は。
少しだけ。
安心した。
無理矢理。
全部話させなかった。
それが。
嬉しかった。
「拓真」
「はい」
「そなたは紬を見張れ」
「え?」
「逃げぬように」
「何で俺が!」
紬が言う。
「逃げない」
政宗が笑う。
「ならば問題あるまい」
「でも俺の仕事がまた増えてません!?」
「ついでだ」
「人一人をついでで見張らせるな!」
「拓真」
紬が呼ぶ。
「何です」
「嫌なら別にいい」
その言い方。
何だ。
少し。
腹が立つ。
「嫌とは言ってないでしょう」
「今、何で俺がって」
「仕事が増えるのが嫌なんです!」
「じゃあ嫌なんじゃない」
「そういう意味じゃない!」
また。
千代が笑った。
楓も。
小鈴まで。
少しだけ。
笑っている。
小十郎さんは。
困った顔。
政宗は。
楽しそう。
俺は。
ため息をついた。
本当に。
面倒だ。
でも。
その夜。
もっと面倒なことが起きた。
紬が。
俺の部屋へ来た。
何も言わず。
座った。
そして。
長い沈黙の後。
こう言った。
「拓真」
「何です」
「私」
一度。
言葉を止める。
「たぶん」
紬は。
笑わなかった。
「人を殺したことがある」
俺は。
返事ができなかった。




