第18話 山の砦から、女の子の泣き声が聞こえる
「先に言っておきます」
俺は馬の上で言った。
「何だ」
新八さんが振り返る。
「山道を馬で走るの、無理です」
「まだ走っておらぬ」
「歩いてる今でも怖いんです」
「なら落ちろ」
「ひどくない!?」
前を歩いていた紬が振り返った。
「落ちたら置いていくから」
「お前まで!」
「昨日も三歩で転んだし」
「もう忘れてくださいよ!」
「無理」
「即答するな!」
護衛の兵が笑った。
最近。
俺は伊達家の家臣たちからも少しずつ、
――何かよく叫んでいる妙な男。
として認識され始めている気がする。
嫌だ。
もっとこう。
未来知識で天下統一を助ける謎の天才軍師。
みたいな扱いを期待していた。
現実は。
馬に乗れば尻が痛い。
走れば転ぶ。
水路では泥まみれ。
そして今は。
山道の揺れで酔いそうになっている。
「……気持ち悪い」
「吐くなよ」
新八さんが言う。
「吐きませんよ」
「俺の馬には近づくな」
「吐かないって言ってるでしょう!」
紬が。
少し笑った。
「拓真」
「何です」
「顔、白い」
「それは心配してる?」
「面白いだけ」
「返して、俺の期待!」
そんなことを言い合っていた。
だが。
山が深くなるにつれて。
誰も。
あまり喋らなくなった。
道は狭い。
左右は木。
風が吹くたび。
葉が揺れる。
どこかで鳥が鳴く。
そして。
人の姿がない。
「この先です」
先行していた兵が言った。
新八さんの顔が変わる。
さっきまで俺に嫌味を言っていた人と。
同じ人間には見えない。
「馬を降りろ」
低い声。
俺は素直に降りた。
転びかけた。
誰も笑わなかった。
今は。
そういう空気じゃない。
「砦までは?」
「ここから半里ほど。山の中腹にございます」
「見張りは」
「少なくとも二人」
「中は」
「分かりませぬ」
「娘の声は」
「夜になると聞こえる、と木こりが」
その瞬間。
紬の肩が。
わずかに動いた。
俺は気づいた。
でも。
何も言わなかった。
新八さんが地面へしゃがみ。
簡単な地図を広げる。
俺も覗き込んだ。
分からない。
正直。
全然分からない。
山。
道。
線。
丸。
「拓真」
「はい」
「分かるか」
「何となく」
「嘘をつけ」
「すみません」
即座に謝った。
こういう時。
分からないものは分からないと言った方がいい。
会社員時代。
分からないのに、
『大丈夫です』
と言って地獄を見た経験が何度もある。
「砦への道は一つか」
新八さんが聞く。
兵が答える。
「表向きは。ただし古い砦ゆえ、裏に獣道があるかもしれませぬ」
「中の人数も分からない」
「はい」
「娘が何人いるかも」
「分かりませぬ」
俺は黙った。
千代。
本当にいるのか。
まだ。
分からない。
でも。
少女の泣き声。
女の子たちが捕らえられている可能性。
十分ある。
「攻めます?」
聞いた。
新八さんに睨まれた。
「簡単に言うな」
「いや、だって」
「中に娘がおるかもしれぬ」
「……あ」
「火をかけられればどうする。人質に取られればどうする」
言葉が止まる。
その通りだ。
俺は。
本当に。
何も知らない。
戦うというのは。
敵を倒すだけじゃない。
助けたい人がいるなら。
余計に難しい。
「じゃあ」
俺は聞く。
「どうします」
「見張る」
「どのくらい」
「分からぬ」
「その間に逃げられたら」
新八さんが黙った。
俺も黙る。
焦る。
焦ってはいけない。
でも。
待ちすぎてもいけない。
面倒だ。
本当に。
「……外に出せません?」
気づいたら。
口に出していた。
新八さんが見る。
「何を」
「中の人間を」
「どうやって」
「理由を作る」
紬もこちらを見る。
俺は考えながら喋った。
「人って、用事がなければ出てこないでしょう」
「当たり前だ」
「じゃあ、用事を作る」
「だから何をする」
「たとえば」
頭の中に。
営業時代が蘇る。
客先。
電話。
アポイント。
見込み客。
売り込み。
相手が動く理由。
「買い手が来た、とか」
空気が。
止まった。
紬の顔が。
変わった。
しまった。
と思った時には遅い。
「……買い手?」
「いや」
「私たちを買った奴らみたいな?」
声が冷たい。
俺は慌てた。
「違う! そうじゃなくて!」
「何が違うの」
「中の奴らを外へ出すために、そういうふりをするだけで」
「誰が」
「え?」
「誰が買い手になるの」
俺は。
少し考えた。
「俺とか」
次の瞬間。
新八さんに。
胸ぐらを掴まれた。
「ぐえっ!」
「お前は馬鹿か!」
「ちょっと! 苦しい!」
「なぜお前が行く!」
「だって俺、刀使えないし! 戦うより喋る方が得意だし!」
「だからといって!」
新八さんの顔。
本気だった。
怒っている。
いつもの。
半分呆れたような感じじゃない。
本気で。
怒っている。
「相手は人買いだぞ」
「分かってます」
「分かっておらぬ!」
怒鳴られた。
俺は黙った。
「お前が未来から来たか何だか知らぬ。だが首を斬られれば死ぬ。腹を刺されても死ぬ。お前だけが特別に死なぬわけではない!」
何も言えなかった。
新八さんは。
しばらく俺を睨んで。
やがて。
手を離した。
「……すみません」
俺が言う。
「謝るくらいなら最初から申すな」
「でも」
「まだ言うか!」
「俺、何もできないの嫌なんですよ!」
今度は。
俺が声を上げた。
全員が黙る。
「新八さんは戦える。兵の人たちも。小十郎さんは頭がいい。政宗様は決める。でも俺は?」
自分でも。
何を言ってるんだろうと思った。
でも。
止まらなかった。
「未来人だからって何でも知ってるわけじゃない。農業だって知らない。水路だって知らない。刀も使えない。馬にも乗れない。走れば転ぶ!」
「最後は知ってる」
紬が言った。
「今そこ茶化す?」
少し。
笑いが起きた。
俺も。
ほんの少し。
息を吐いた。
「だから」
続ける。
「喋るくらいは役に立ちたいんです」
新八さんが。
長くため息をついた。
「……お前は面倒だな」
「知ってます」
「殿と同じだ」
「それは嫌だ!」
思わず即答した。
今度は。
紬まで笑った。
でも。
その笑いは。
すぐ消えた。
「拓真」
「何です」
「私も嫌」
「え」
「囮」
紬が俺を見る。
「嫌だから」
それだけ。
理由を言わない。
でも。
何となく。
分かった。
「……分かりました」
俺は言った。
「俺は囮になりません」
新八さんが言う。
「最初からそう申している」
「でも、買い手を装う案は使えません?」
「誰がやる」
全員。
黙る。
そして。
なぜか。
新八さんを見る。
「待て」
新八さんが言った。
「なぜ俺を見る」
俺は言った。
「強そうだし」
紬も。
「悪人っぽい」
「紬!」
新八さんが本気で怒った。
俺は。
腹を抱えて笑いそうになった。
「笑うな、拓真!」
「すみません、でも……悪人っぽいって」
「お前も同罪だ!」
「俺、言ってませんよ!」
結局。
買い手役は。
護衛の兵の中で。
一番。
商人風の顔をしていた男になった。
本人は。
ものすごく嫌そうだった。
◇
日が落ちるまで。
俺たちは砦の近くで待った。
木々の隙間から。
古い石垣。
崩れかけた柵。
見張り。
確かにいる。
二人。
いや。
交代があるならもっと。
「寒い」
紬が言った。
「これ羽織ります?」
俺は自分の上着を渡そうとした。
「いらない」
「でも」
「臭そう」
「傷つくなあ!」
小声で言い合う。
新八さんに睨まれる。
俺たちは黙った。
その時。
風が止んだ。
本当に。
一瞬。
山が。
静かになった。
そして。
聞こえた。
声。
遠く。
小さい。
女の子の。
泣き声。
俺は。
息を止めた。
紬が。
立ち上がりかけた。
俺が腕を掴む。
「待って」
「離して」
「今行ったら駄目です」
「離して」
「紬」
「離して!」
声が震えていた。
泣き声。
また聞こえる。
かすかに。
本当に。
かすかに。
「……つむぎ」
紬の顔が。
変わった。
俺を見る。
目が。
大きく開いている。
「今」
「え?」
「今、呼んだ」
俺には聞こえなかった。
でも。
紬には。
聞こえた。
「千代?」
紬は。
泣きそうな顔で。
頷いた。
「千代だ」
その一言で。
俺の心臓が。
大きく鳴った。
生きている。
ここに。
いる。
その時だった。
砦の中で。
男の怒鳴り声が響いた。
続いて。
何かが倒れる音。
少女の悲鳴。
紬が。
俺の手を振り払った。
「待て!」
新八さんが叫ぶ。
だが。
紬はもう。
砦へ向かって走り出していた。
「紬!」
俺も走った。
今度は。
転ばなかった。
そんなことを気にしている場合じゃない。
ただ。
目の前の紬を。
追った。
そして。
砦の見張りが。
こちらに気づいた。
「誰だ!」
刀が抜かれる。
俺の足が止まりそうになる。
怖い。
本当に。
でも。
その時。
背後から。
新八さんの声が飛んだ。
「拓真! 伏せろ!」
俺は。
何も考えず。
地面へ倒れ込んだ。
頭の上を。
何かが。
風を切って通り過ぎた。




