第13話 お前、生きていたのか
「お前、生きていたのか」
その言葉を聞いた瞬間。
紬が。
俺の背中に隠れた。
本当に。
何の前触れもなく。
俺の着物の背中を掴んだ。
ぎゅっ、と。
俺は驚いて振り返りかけた。
「紬?」
「……」
返事がない。
いつもの、
『うるさい』
も。
『馬鹿』
もない。
それが。
一番怖かった。
「お前……」
目の前に立っている男が、もう一度言った。
年齢は四十歳くらいだろうか。
日に焼けた顔。
痩せている。
手には鍬。
村人なのだろう。
だが。
紬を見る顔は。
驚いているだけではなかった。
恐れていた。
そう見えた。
「本当に、生きて……」
「待ってください」
俺は男の言葉を遮った。
気づけば。
一歩前へ出ていた。
紬を背中に隠すように。
自分でも。
何でそんなことをしたかは分からない。
俺は喧嘩なんて弱い。
この男が突然殴りかかってきたら。
たぶん負ける。
でも。
紬の指が。
俺の背中の着物を。
まだ掴んでいたから。
「あなた」
俺は男を見る。
「紬を知ってるんですか」
「つむぎ?」
男が眉を寄せる。
「その娘の名か」
「今はそうです」
「今は?」
しまった。
余計なことを言った。
俺は営業マンだったくせに。
どうもこの時代へ来てから。
口が滑る。
いや。
元からかもしれない。
「拓真殿」
小十郎さんが俺の横へ出た。
穏やかな声。
だけど。
村人を見る目は鋭かった。
「我らは伊達家の者です」
男の顔色が変わった。
すぐに頭を下げる。
「これは……失礼を」
「名を」
「吾平と申します」
「では吾平」
小十郎さんは聞いた。
「この娘をご存じなのですね」
吾平は黙った。
俺の後ろで。
紬の指に力が入った。
痛い。
少し。
でも。
言わなかった。
「知らぬ」
吾平が答えた。
俺は思わず言った。
「いやいやいや」
全員が俺を見る。
「今、生きていたのかって言いましたよね?」
「人違いだ」
「無理がありますって」
「似た娘がおっただけだ」
「名前も聞かずに生きてたのかって」
「拓真殿」
小十郎さんが俺を止める。
「少し」
「はい」
営業時代にも言われた。
お前は追及する時、一気に行きすぎる、と。
でも。
腹が立つ。
露骨に嘘をつかれると。
ものすごく。
「紬」
俺は小声で呼んだ。
返事はない。
「知ってる人ですか」
沈黙。
「答えたくなかったら、答えなくていいです」
しばらくして。
背中から。
小さな声がした。
「……知ってる」
吾平の顔が引きつった。
「紬!」
俺は振り返ろうとした。
また着物を強く引っ張られる。
「見ないで」
「え?」
「こっち見るな」
こんな時まで。
命令口調だ。
でも。
声が。
震えている。
俺は前を向いた。
「分かりました」
そして。
吾平を見る。
正直。
腹が立っていた。
この人が何をしたのかも。
まだ知らないのに。
紬が怖がっている。
それだけで。
嫌いになりそうだった。
でも。
駄目だ。
平助の兄の話で学んだ。
片方の話だけ聞いて。
決めつけてはいけない。
人間は面倒だ。
いつだって。
事情がある。
たぶん。
「紬は」
小十郎さんが聞いた。
「以前、この村にいたのですね」
吾平は答えなかった。
代わりに。
別の声がした。
「何の騒ぎだ」
村の奥から。
老人が来た。
杖をついている。
白い髭。
その後ろに。
何人もの村人がいた。
全員。
俺たちを見ている。
いや。
違う。
紬を。
見ている。
ざわめきが起きた。
「あれは……」
「まさか」
「生きておったのか」
また。
同じ言葉。
俺は。
背中が寒くなった。
何だ。
この村。
紬が生きていたことが。
そんなにおかしいのか。
老人が俺たちの前へ来た。
小十郎さんを見る。
そして。
すぐに頭を下げた。
「片倉様」
知っているらしい。
小十郎さんが頷く。
「村長ですね」
「はい。庄左衛門と申します」
「では庄左衛門」
小十郎さんの声は。
変わらず穏やかだった。
「この娘について、ご説明いただきたい」
村長は。
紬を見る。
長い。
長い沈黙だった。
やがて。
ため息をついた。
「以前。この村におりました」
「どのような立場で」
「預かっておりました」
俺が聞く。
「誰から?」
村長は俺を見る。
たぶん。
誰だ、こいつ。
という顔だった。
慣れた。
最近よくされる。
「この方は神谷拓真殿」
小十郎さんが言う。
「政宗様が側に置かれている者です」
ざわめき。
俺は。
少し恥ずかしくなった。
側に置かれている者。
それだけ聞くと。
俺がすごい人物みたいだ。
実際は。
毎日政宗に無茶振りされて叫んでいるだけなのに。
村長が頭を下げる。
「失礼を」
「いや、それはいいんです。それより紬を誰から預かったんです?」
村長は黙る。
「言えません?」
「……旅の商人です」
嘘だ。
そう思った。
理由はない。
ただ。
間が。
不自然だった。
俺は小十郎さんを見る。
彼も同じことを感じたらしい。
だが何も言わない。
「商人の名は」
「覚えておりませぬ」
「いつ頃です」
「二年ほど前」
俺の背中で。
紬が震えた。
「紬」
小声で言う。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
絶対嘘だ。
「無理なら、先に戻ってても」
「嫌」
「でも」
「ここにいる」
頑固。
本当に頑固だ。
でも。
その頑固さを。
今は責められなかった。
村長が続ける。
「その娘は、行く場所がないとのことで。しばらく村で働かせておりました」
「どのくらい」
「半年ほど」
「その後は?」
村長が黙る。
まただ。
「村を出た」
吾平が言った。
俺は見る。
「自分で?」
「そうだ」
「どこへ?」
「知らぬ」
「なら、どうしてさっき生きていたのかって」
吾平が俺を睨む。
「山道で消えれば、死んだと思うこともあろう!」
「山道で消えた?」
俺は紬を見る。
いや。
振り返らない。
約束したから。
「紬」
「……」
「自分で出ていったんですか」
沈黙。
長かった。
そして。
小さな声。
「違う」
村人たちがざわめいた。
「連れていかれた」
俺の胃が。
冷たくなる。
「誰に」
「知らない男たち」
「どこへ?」
「知らない」
「どうして?」
また。
沈黙。
そして。
紬が言った。
「売られたから」
誰も喋らなかった。
風の音だけ。
聞こえた。
俺は。
理解するのに。
少し時間がかかった。
売られた。
誰に。
何のために。
そんなもの。
考えたくもない。
「……誰が」
声が。
自分でも驚くほど。
低くなった。
「誰が紬を売ったんです」
村長が言う。
「誤解です」
「何が」
「村は売っておらぬ」
「じゃあ誰が!」
声が大きくなった。
新八さんが俺の肩を掴む。
「拓真」
「でも!」
「落ち着け」
落ち着けるか。
十七歳。
二年前なら。
十五歳。
そんな子を。
売った。
人買いに。
「拓真殿」
小十郎さんが言う。
「まだ何も分かっておりません」
「分かってますよ!」
「いいえ」
静かな声だった。
「分かっておりません」
俺は黙った。
悔しいけど。
その通りだ。
誰が。
なぜ。
何のために。
まだ。
何も。
「紬」
小十郎さんが聞く。
「売った者の顔は見ましたか」
「見た」
「誰です」
紬の手が。
俺の背中から離れた。
その瞬間。
なぜか。
少し寂しいと思った。
変な話だ。
彼女が一歩前へ出る。
顔は。
青ざめていた。
でも。
目は。
まっすぐだった。
「水番」
誰かが息を呑んだ。
「水番役人が?」
小十郎さんの声が。
さらに低くなる。
紬は頷いた。
「米を出せない村があった」
「はい」
「だから水を止めた」
「それは聞きました」
「それでも米が出せなかった」
紬は。
村長を見る。
吾平を見る。
村人たちを見る。
「だから」
言った。
「代わりに、人を出せって」
空気が。
完全に。
凍った。
俺は。
何も言えなかった。
「私だけじゃない」
紬が続ける。
「他にもいた」
その言葉。
今までで。
一番。
怖かった。
「他にも?」
俺が聞く。
紬は頷く。
「女の子」
一人。
また一人。
「売られた」
俺の頭の中で。
何かが。
切れた。
その時。
小十郎さんが。
俺より先に。
言った。
「新八」
「はっ」
「この村を出ます」
俺は驚いた。
「え?」
「すぐに」
「でも!」
「拓真殿」
小十郎さんが俺を見る。
初めてだった。
あんな顔。
怒っている。
静かに。
本気で。
「これはもう、村同士の水争いだけではありません」
俺は黙る。
「殿へ報告します」
政宗に。
一瞬。
あの人の顔が浮かんだ。
笑って。
無茶を言って。
俺を振り回す。
二十歳の若者。
でも。
伊達家当主。
「政宗様なら」
俺は言った。
「どうします?」
小十郎さんは。
答えなかった。
代わりに。
紬が。
小さく。
俺の袖を掴んだ。
「拓真」
初めて。
名前を呼ばれた。
俺は彼女を見る。
「何です?」
「もう一人」
紬が言った。
「え?」
「私と一緒に売られた子」
唇が震えていた。
「まだ」
一度。
息を吸う。
「生きてるかもしれない」
俺は。
何も言えなかった。
そして。
その瞬間。
決めた。
水路も。
米も。
政宗の無茶振りも。
全部大事だ。
でも。
今。
俺が一番知りたいのは。
その子が。
どこにいるのかだった。




