第7話 死体が教えてくれたこと
岩場に到着する前に、俺は三度足を止めた。
一度目は、地面に残された獣の足跡を見つけたとき。
二度目は、折れた枝の先に毛皮が引っかかっているのを見つけたとき。
三度目は、風に混じって血の匂いが漂ってきたときだった。
「……いるな」
俺は岩陰に身を隠し、周囲を見回した。
薬草の採取場所は、地図によればこの先だ。だが、周辺に魔物がいるのなら、何も考えずに進むわけにはいかない。
昨日の俺なら、焦って走り出していたかもしれない。
今は違う。
少なくとも、違わなければならない。
俺は腰の袋から、森で拾った骨片を取り出した。昨日、死霊術の感覚を確かめようとして持ち帰ったものだ。
ただの骨ではない。魔力を通せば、死体とのつながりを探る手掛かりになるかもしれない。
しかし、骨片だけで狼の死霊を作れるとは思えなかった。
俺が必要としているのは、実際に動かせる死体だ。
周囲を探し、岩の隙間に倒れている小型の獣を見つけた。すでに息絶えており、身体の一部はほかの動物に食い荒らされている。
俺は近づき、死体の状態を確認した。
使えるかどうかはわからない。
だが、試す価値はあった。
「……少しだけ、力を貸してくれ」
死体に手を置く。
意識を集中すると、頭の奥に冷たい感覚が広がった。狼を動かしたときと同じだ。
魔力を流す。
死体の脚が震えた。
ゆっくりと首が持ち上がる。
小型の獣は、ぎこちない動きで立ち上がった。
「よし……」
頭痛はある。
しかし、昨日ほどひどくはなかった。
おそらく、動かす死体が小さいからだろう。あるいは、昨日の経験によって、力の流し方を少しだけ理解できたのかもしれない。
俺は死霊に命令を与えた。
「前へ進め。危険があったら戻ってこい」
命令を伝えた瞬間、頭の奥に微かな抵抗を感じた。
複雑すぎる。
危険を判断する、という命令が曖昧なのだ。
俺は指示を変えた。
「岩場まで進め。何かが動いたら、すぐに戻れ」
死霊はゆっくりと歩き出した。
その姿が岩陰へ消える。
俺は距離を保ちながら、後を追った。
◇◆◇
岩場は、崩れた石壁のような地形だった。
大小さまざまな岩が積み重なり、狭い通路を作っている。ところどころに低い草が生え、岩の根元には小さな紫色の花が咲いていた。
依頼書の見本と同じだ。
治療用薬草に違いない。
だが、採取場所の奥から、何かを引っかくような音が聞こえた。
俺は岩陰から覗いた。
大きなトカゲのような魔物が、岩の表面に爪を立てていた。背中には硬い突起が並び、口元には乾いた血がこびりついている。
魔物は岩の隙間に顔を突っ込み、何かを探しているようだった。
正面から戦えば、勝ち目は薄い。
俺はそう判断した。
武器らしい武器はなく、肩の傷も完全には治っていない。死霊の獣も小さく、敵を倒す力は期待できない。
目的は討伐ではなく、薬草の採取だ。
ならば、魔物を倒す必要はない。
俺は死霊の獣を、魔物の反対側へ進ませた。
小さな足音が岩場に響く。
トカゲの魔物が頭を上げた。
赤い舌が口元から伸び、死霊の獣の姿を捉える。
魔物はすぐに走り出した。
死霊の獣は、俺の命令どおりに逃げる。
魔物が追いかけていく。
「よし……」
俺は反対側から岩場へ入った。
薬草を見つけ、根を傷つけないように採取する。数は十分にありそうだった。
しかし、三株目を採ろうとしたとき、遠くから鈍い音が聞こえた。
続いて、死霊の獣とのつながりが途切れた。
「しまった……!」
魔物に破壊されたのだろう。
俺は急いで残りの薬草を採り、袋へ入れた。
ところが、戻ろうとした通路の先に、トカゲの魔物が現れた。
死霊を追いかけたあと、こちらへ戻ってきたらしい。
魔物は俺を見つけると、低い唸り声を上げた。
逃げ道が塞がれた。
俺は周囲を見回した。
狭い岩場。
積み重なった石。
通路は一人が通れる程度の幅しかない。
そして、魔物の身体は大きい。
正面から突破するのは危険だ。
ならば、通路そのものを利用する。
俺はゆっくりと後ずさり、狭い岩の隙間へ移動した。
魔物が追ってくる。
その巨体が岩にぶつかり、動きが一瞬止まった。
俺は足元の小石を拾い、反対側へ投げた。
カン、と乾いた音が響く。
魔物が音の方へ顔を向けた。
その瞬間、俺は脇の隙間を抜けた。
肩に痛みが走る。
だが、止まらない。
背後で魔物が暴れ、岩を引っかく音がした。狭い場所で身体を回転させられず、追いつくまでに時間がかかっている。
俺はその隙に岩場を抜けた。
◇◆◇
村へ戻ったとき、日はまだ高かった。
俺は採取した薬草を窓口へ提出した。
係の男は一株ずつ確認し、傷んだものを除いてから頷いた。
「規定量は満たしている。これが報酬だ」
手渡された硬貨は、ずっしりとは言えない重さだった。
それでも、初めて自分の力で稼いだ金だ。
俺は硬貨を握りしめた。
「ありがとうございます」
「魔物には遭わなかったか?」
「遭いました。でも、戦わずに済みました」
「それなら上出来だ。採取依頼で無理に魔物を倒す必要はない。目的を果たして戻ってくるのが仕事だからな」
その言葉を聞き、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
そうだ。
俺は魔物を倒すことばかり考えていた。
だが、仕事の目的は薬草を採ることだった。
敵を倒さなくても、目的を達成できれば成功なのだ。
報酬を受け取り、俺は建物を出た。
そのとき、頭の奥に奇妙な感覚がよみがえった。
岩場で死霊の獣を動かしていたとき、魔物の近くを通った瞬間、何かが伝わってきた気がする。
恐怖。
飢え。
そして、暗い場所へ帰ろうとする衝動。
死体に残された感情のようなもの。
ただの思い込みかもしれない。
しかし、ネクロマンサーには魂の残響を感じ取る能力があると、どこかで聞いたことがある。
もし、それが本当なら。
死体は単なる道具ではない。
そこには、生きていたときの痕跡が残っている。
俺は袋の中の薬草を見つめた。
今は、生きることが先だ。
だが、死霊術を使いこなすためには、死体を動かす方法だけでなく、そこに残るものを理解する必要があるのかもしれない。
その答えを知るには、もっと経験を積まなければならない。
俺は報酬の硬貨を数え、治療所へ向かった。
肩の傷が、また熱を持ち始めていた。




