第5話 救えなかった人たち
村へ戻る途中、俺は何度も足を止めた。
煙はまだ上がっていた。
風が吹くたび、焦げた木材の臭いが鼻を突く。森の中には鳥の声もなく、聞こえるのは自分の荒い呼吸だけだった。
生き残りがいるかもしれない。
そう考えるたびに、胸の奥がわずかに軽くなった。
だが、その期待が外れたときのことを想像すると、足が重くなる。
俺は何をしに戻るのだろう。
戦う力はない。
治療の知識もない。
ネクロマンサーの能力を使えば、何かできるかもしれない。けれど、さっき狼を一体動かしただけで、立っているのもつらくなった。
それでも、確認しなければならなかった。
あの場所から逃げたままでは、何が起きたのかさえわからない。
村の外れにたどり着いたとき、俺は足を止めた。
柵が壊れている。
道には荷車の破片が散らばり、倒れた木箱の中身が泥にまみれていた。家の一つは屋根が崩れ、壁の一部が黒く焼け焦げている。
魔物の姿は見当たらなかった。
だからといって、安全だとは思えない。
「……誰か、いますか?」
声をかけてみた。
返事はない。
俺は壊れた柵を越え、村の中へ入った。
最初に見つけたのは、道端に倒れた男だった。
物置の陰で、俺を逃がしてくれた男ではない。
知らない顔だった。
男は仰向けに倒れ、片手を胸に当てていた。衣服には血が広がっている。
俺は近づき、膝をついた。
「おい……聞こえますか?」
肩に触れる。
反応はなかった。
息をしていない。
わかっていたはずなのに、手を離すことができなかった。
ゲームでは、倒れた人物の近くに行けばイベントが発生する。助けられる相手なら会話が始まり、手遅れなら短い演出が入る。
だが、この男は何も話さない。
ただ、そこに横たわっている。
俺はゆっくりと立ち上がった。
その先にも、遺体があった。
家の入り口で倒れた女性。
壊れた荷車のそばに横たわる老人。
そして、道の隅で互いに身を寄せるように倒れている二人の子供。
俺は目をそらした。
けれど、そらした先にも遺体がある。
「……やめてくれよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
村の中央へ向かう。
広場には、倒れた鐘楼の一部が転がっていた。鐘は地面に落ち、ひび割れている。
その近くに、小さな靴が片方だけ残されていた。
俺は立ち止まった。
少女が履いていたものと同じ色だった。
足元から力が抜ける。
あのとき、あと少し早く走れていたら。
武器が一本でもあったら。
せめて、魔物の動きを止める方法を知っていたら。
結果は変わっていたかもしれない。
考えても仕方がないとわかっている。
それでも、頭の中で何度も同じ場面が繰り返された。
少女が手を伸ばす。
俺が駆け寄る。
魔物が振り返る。
そして、届かない。
「……くそっ!」
拳を地面に叩きつけた。
痛みが走る。
その痛みが、かえって現実を突きつけてきた。
ここはゲームではない。
俺は主人公だから助かるわけではない。
攻略情報を知っているから、誰かを救えるわけでもない。
何もできなければ、人は死ぬ。
目の前で。
俺が逃げている間にも。
◇◆◇
村の外れから、人の声が聞こえた。
「そこの人……!」
俺は顔を上げた。
壊れた納屋の陰から、年配の女性が姿を現した。額に包帯を巻き、片腕を押さえている。
「生きていたんですか!」
思わず駆け寄った。
「あなたも……逃げていた人ね」
女性は俺の顔を見つめた。
責めるような口調ではなかった。
それが、かえってつらかった。
「ほかに、生き残った人は?」
「何人かは、村の外へ逃げたと思う。でも、どこまで行けたのか……」
女性は言葉を切った。
「魔物が来たとき、私は家の床下に隠れていたの。音がしなくなってから出てきたけれど……」
彼女は村の中央へ目を向けた。
「助けられなかった人が、たくさんいるわ」
俺は何も言えなかった。
「あなた、冒険者なの?」
「違います」
「そう……」
女性は俺の服装と、腰の袋を見た。
「それでも戻ってきてくれたのね。ありがとう」
その言葉に、胸が締めつけられた。
俺は礼を言われるようなことをしていない。
最初に逃げた。
助けを求める声を聞いても、何もできなかった。
それなのに、戻ってきただけで感謝される。
「……俺は、誰も助けられませんでした」
気がつけば、そう口にしていた。
女性はすぐには答えなかった。
「あなた一人で、何ができたというの?」
「でも……」
「戦える人でも、全員は守れなかったでしょう。魔物があれだけいたのだから」
女性の声は穏やかだった。
「あなたが何をしたのか、私は知らない。でも、今ここで生きている。それだけは確かなことよ」
俺はうつむいた。
慰めの言葉だとわかっていた。
それでも、否定することはできなかった。
俺は生きている。
少女は生きていない。
その違いは、何なのだろう。
◇◆◇
日が傾くころ、村の生存者たちが少しずつ集まり始めた。
家族を探す者。
負傷した人を支える者。
遺体に布をかけ、静かに祈る者。
誰もが疲れ切っていた。
俺も手伝おうとしたが、肩の傷を見た女性に止められた。
「その傷、放っておいたら悪くなるわ。今は座っていなさい」
傷口を布で押さえられる。
鋭い痛みに、思わず顔をしかめた。
「治療魔法はないんですか?」
「あるにはあるけれど、すぐに使える人はいないわ。それに、傷を塞げても失った血までは戻らない。薬も必要になるでしょうね」
ゲームなら、回復魔法を一度かければ体力が戻る。
だが、ここでは違う。
傷は残る。
痛みも残る。
治療には金がかかり、治せる範囲にも限界がある。
俺は肩の布を見つめた。
生き延びるためには、戦い方だけでなく、傷を負った後のことまで考えなければならない。
そんな当たり前のことさえ、今まで真剣に考えたことがなかった。
やがて、日が完全に沈んだ。
生存者たちは、比較的損傷の少ない建物へ集まった。俺もその隅に座り込み、壁にもたれた。
眠る気にはなれなかった。
目を閉じると、少女の顔が浮かぶ。
助けを求める声。
魔物の牙。
伸ばした手。
俺は両手で顔を覆った。
「……俺は、あの人たちを見捨てた」
誰にも聞こえないように呟いた。
その言葉を、忘れてはいけないと思った。
忘れてしまえば、次も同じことをする。
自分の弱さを認めず、運が悪かったと片づけてしまう。
そんな人間にはなりたくなかった。
◇◆◇
深夜。
ようやく眠りに落ちかけたころ、奇妙な夢を見た。
暗い部屋。
目の前に、白い光が浮かんでいる。
そこには、見慣れた文字があった。
『復帰処理を確認』
復帰?
何のことだ。
俺が問いかけようとすると、文字が歪んだ。
『記憶領域――一部欠損』
「……は?」
光の向こうに、誰かの姿が見えた。
顔はぼやけている。
誰だろう。
知っている人間のような気がする。
大切な人だったはずだ。
けれど、名前が出てこない。
声も思い出せない。
必死に手を伸ばす。
「待ってくれ……!」
光が消えた。
目が覚めた。
俺は息を切らし、暗闇の中で自分の手を見つめていた。
夢だ。
ただの夢に違いない。
そう思おうとした。
だが、何かが引っかかっている。
俺は現実世界で、誰かを大切に思っていたはずだ。
家族か。
友人か。
それとも、別の誰かか。
思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。
「……なんだよ、これ」
記憶が曖昧になることなど、普通にある。
疲れているのだ。
今日は異常なことばかり起きた。
ゲームのような世界に転移し、職業を選ばされ、魔物に襲われ、人が死ぬところを見た。
混乱しているだけだ。
そう自分に言い聞かせた。
それでも、胸の奥には不安が残った。
夢の中で見た文字が、脳裏から離れない。
『記憶領域――一部欠損』
あれが何を意味するのか、今はわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
ここでは、死んでも簡単にやり直せるわけではない。
目の前で死んだ人たちは、戻ってこなかった。
そして、俺自身にも何か異常が起きている。
◇◆◇
夜明け前、俺は建物の外へ出た。
冷たい空気を吸い込む。
村は静まり返っていた。
生存者たちは、まだ休んでいる。
俺は壊れた鐘楼を見つめた。
昨日まで、ここには普通の生活があったのだろう。
朝になれば人々が起き、食事を作り、仕事へ出かける。
子供たちは道を走り回り、鐘が時刻を告げる。
そんな日常が、たった一度の襲撃で失われた。
俺は拳を握った。
次に同じことが起きたとき、ただ逃げるだけの人間ではいたくない。
しかし、気合いだけで強くなれるわけでもない。
俺には、知識が必要だ。
能力の仕組みを理解し、魔物の習性を調べ、勝てる状況を作らなければならない。
正面から戦って勝てないなら、別の方法を探す。
それが、俺の知っている攻略だった。
生き残るために、今度こそ本気で考える。
そのとき、背後から声がした。
「あなた、ネクロマンサーなの?」
振り返ると、先ほどの年配の女性が立っていた。
彼女の視線は、俺の手元に向けられている。
いつの間にか、俺は腰の袋から取り出した小さな骨片を握っていた。森で拾ったものだ。なぜ持ってきたのか、自分でもわからない。
「……そうです」
女性の表情が強張った。
「死体を操る職業……」
彼女は一歩、距離を取った。
その反応を見て、俺は理解した。
この世界では、ネクロマンサーという職業そのものが恐れられているのだ。
生き残るための力を手に入れたつもりだった。
だが、その力を使うこと自体が、これから先の障害になるのかもしれない。
「村の墓地に、管理を手伝っている人がいるわ」
女性は少し迷ってから言った。
「死体の扱いについて詳しいはずよ。あなたの力についても、何か知っているかもしれない」
「墓地……」
「ただし、勝手に死者へ手を出してはいけない。ここでは、死体が魔物になることもあるから」
女性の声は真剣だった。
「死者を扱うなら、それ相応の責任を負わなければならないの」
俺は手の中の骨片を見つめた。
死体は、俺にとって生き残るための手段になるかもしれない。
だが、それは誰かが生きていた証でもある。
昨日、俺が救えなかった人たちのように。
俺は骨片を袋へ戻した。
「……わかりました。墓地へ行ってみます」
まだ、何も解決していない。
失った命は戻らない。
俺の記憶に起きた異常も、理由がわからないままだ。
そして、この世界で生きていくための金も、武器も、知識もない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
俺は村の外へ続く道を見た。
ネクロマンサーとして、何をすべきなのか。
その答えを探すために。
今度は、逃げるためだけではなく、生きている誰かを守るために。
俺は一歩を踏み出した。




