第4話 死体に命令する
狼が、じりじりと距離を詰めてくる。
俺の背後には木々が密集していた。左右へ逃げようにも、足元には太い根が張り出している。全力で走れば、すぐに転ぶだろう。
目の前の狼は、俺が逃げ疲れるのを待っているようだった。
その赤い目が、死体と俺の顔を交互に見ている。
狼は賢い。
少なくとも、俺を仕留める方法を理解している程度には。
「……頼むから、動いてくれよ」
俺は足元の狼の死体に触れた。
毛皮は冷たく、腹部から流れた血が土を濡らしている。生きていたときの温もりは、もう残っていなかった。
ゲームの知識を思い出す。
ネクロマンサーは死体を操る。基本的な命令は単純なものに限られるが、序盤から動物の死体を利用できるはずだ。
ただし、具体的な操作方法はゲーム内で説明されないことも多い。
プレイヤーなら、試行錯誤する時間を確保できる。
今の俺には、そんな余裕はなかった。
狼が唸った。
「くそっ、やるしかない!」
俺は死体に手を置き、頭の中で強く念じた。
動け。
起き上がれ。
目の前の敵を――。
その瞬間、頭蓋骨の内側を何かで引っかかれたような激痛が走った。
「ぐああっ!」
視界が揺れる。
胃の中身が逆流しそうになり、俺は地面へ手をついた。
身体の奥から、何かが抜け落ちていく感覚。
魔力。
そう理解したのは、ほとんど直感だった。
目の前の狼の死体が、びくりと震えた。
前脚が土を掻く。
首が持ち上がり、濁った目がゆっくりと開いた。
死んだはずの狼が、起き上がった。
「……動いた」
成功した。
本当に、死体を動かせた。
だが、喜ぶ暇はなかった。
俺は目の前の敵を指さした。
「そいつを……攻撃しろ!」
命令が届いたのか、死霊の狼が地面を蹴った。
二頭の狼がぶつかり合う。
死霊の狼は敵の首へ食らいついた。生前のような滑らかな動きではない。脚の動きはぎこちなく、噛みつく力も弱い。
それでも、一瞬だけ敵の動きを止めた。
俺はその隙に後ずさった。
しかし、死霊の狼はすぐに振り払われた。
生きている狼が牙を剥き、死霊の首へ噛みつく。骨が軋む音がした。
「おい、待て! 立て!」
俺は命令を重ねた。
死霊の狼が再び動こうとする。
頭に激痛が走った。
「ぐっ……!」
命令を出すたびに、何かが削られていく。
複雑な命令は無理だ。
そう判断した俺は、指示を変えた。
「走れ! そいつから離れろ!」
死霊の狼が飛び退いた。
敵の牙が空を切る。
その隙に、俺は近くに落ちていた太い枝を拾った。武器と呼ぶには心許ないが、素手よりはましだ。
狼がこちらを向いた。
今だ。
「こっちだ!」
俺は枝を振り回しながら、横手の斜面へ走った。
狼が追ってくる。
俺は斜面の手前で急停止し、横へ飛び退いた。
狼の前脚が、崩れかけた土を踏み抜いた。
身体が傾く。
その瞬間、死霊の狼が横から飛びついた。
二頭が斜面を転がり落ちる。
土煙が上がった。
俺は木の幹にしがみつき、息を止めた。
下から唸り声が聞こえる。
死霊の狼は敵の動きを止めていたが、長くは持たなかった。生きている狼が身体を起こし、死霊の首へ何度も牙を突き立てる。
骨が折れる音がした。
死霊の狼の動きが鈍くなる。
「まずい……!」
俺は周囲を見回した。
斜面の先には、倒木が何本も積み重なっている。あの下へ敵を誘導できれば、動きを封じられるかもしれない。
しかし、狼は倒木へ近づく前に死霊を振り払い、俺の方へ向き直った。
赤い目が、俺を捉える。
もう一度、突進してくる。
俺は逃げた。
死霊の狼に、最後の命令を送る。
「……追え!」
狼が動いた。
それは攻撃ではなかった。
死霊の狼は敵の進路へ飛び込み、身体ごとぶつかった。二頭がもつれ、倒木の間へ転がり込む。
積み重なっていた木材が崩れた。
鈍い音とともに、何本もの倒木が狼の上へ落ちる。
生きている狼が吠えた。
前脚で木材を押しのけようとするが、狭い隙間に身体が挟まっている。抜け出すには時間がかかりそうだった。
俺は立ち尽くした。
勝ったのか?
いや、倒したわけではない。
逃げる時間を作っただけだ。
「……行かなきゃ」
俺は森の奥へ走った。
◇◆◇
どれだけ進んだのか、わからなかった。
木々が途切れた場所で、俺はようやく足を止めた。
膝が震えている。
喉が渇いた。
頭が痛い。
肩から血が流れていた。最初に狼の牙がかすめた傷だ。走っている間に、上着の裂け目から血が滲み出していた。
俺は水袋を取り出し、少しだけ水を飲んだ。
死霊の狼は、ついてきていなかった。
当然だ。
あの状態で命令を維持できるはずがない。
俺は自分の手を見つめた。
震えが止まらない。
たった一体の狼を動かしただけで、これほど消耗するとは思わなかった。
それに、死体を操る感覚が、頭の中に残っている。
自分ではない何かを無理やり動かしたような、不快な感覚。
俺は吐き気をこらえながら、木の根元に座り込んだ。
「……ゲームとは違うな」
ゲームでは、魔力は数値で表示される。
足りなければ能力が使えない。それだけだ。
だが、今は違う。
魔力が減るということは、自分の身体が壊れていくような感覚を味わうことだった。
そして、狼の牙で受けた傷は、時間が経っても消えない。
回復アイテムも、リスポーン地点もない。
俺は唇を噛んだ。
それでも、生き残った。
正面から戦えば、間違いなく死んでいた。
死体を動かし、敵の注意を引きつけ、地形を利用して逃げた。
勝利と呼べるものではない。
だが、今の俺に必要なのは勝利ではなく、生存だ。
「次は……もう少し、うまくやる」
そう呟いたときだった。
風に乗って、焦げた匂いが届いた。
俺は顔を上げた。
森の向こうに、黒い煙が立ち上っている。
村の方向だ。
鐘の音は聞こえない。
人の声も聞こえない。
俺は立ち上がった。
戻るべきではない。
魔物がまだ残っているかもしれない。今の俺には、誰かを守れる力などない。
頭では理解していた。
それでも、足は村の方へ向いていた。
あの少女の顔が、脳裏に浮かんだからだ。
俺は走り出した。
今度こそ、何かできるかもしれない。
そんな根拠のない期待を抱きながら。




