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3/12

第3話 目の前で、人が死んだ

 狼が飛びかかってきた。


「うわっ!」


 俺は横へ転がった。


 牙が肩をかすめ、上着の布が裂ける。地面に倒れ込んだ身体に、硬い石が食い込んだ。


 痛い。


 ゲームのダメージ表示も、体力ゲージの減少もない。ただ痛みだけがある。


 俺は慌てて立ち上がり、村へ向かって走った。


 狼の唸り声が背後から迫る。


 走りながら振り返ると、赤い目がすぐそこにあった。


「なんなんだよ、こいつ!」


 ゲームなら敵の攻撃には予備動作がある。動きを見切り、回避のタイミングを合わせればいい。


 頭ではわかっている。


 だが、実際に自分の命が懸かっていると、考えたとおりには身体が動かない。


 足がもつれ、息が乱れ、視界が狭くなる。


 狼は追いついてこなかった。


 その代わり、俺の前を横切ると、森の中へと走り去った。


「……助かった?」


 いや、違う。


 狼の進んだ先に、村があった。


 俺は嫌な予感に駆られ、全力で走った。


◇◆◇


 村の入り口にたどり着いたとき、そこはすでに戦場になっていた。


「逃げろ! 家の中に入れ!」


「子供を先に! 早く!」


 村人たちが叫びながら走り回っている。


 荷車が横倒しになり、積まれていた木箱が道に散乱していた。家の壁には爪で引っかいたような傷が残り、地面には赤黒い染みが広がっている。


 狼だけではなかった。


 犬ほどの大きさの魔物が何匹も村へ侵入していた。四本脚のものもいれば、前脚が異様に長いものもいる。どれも獣の形をしているのに、動きには人間を襲うための悪意があるように感じられた。


「おい、あんた! ぼさっとするな!」


 村人の男が俺の腕をつかんだ。


「武器を持っていないのか? 裏の道から逃げろ!」


「魔物は何匹いるんだ?」


「数えている暇があるか!」


 男は俺を突き飛ばすようにして走り去った。


 俺は歯を食いしばった。


 何かできるはずだ。


 ネクロマンサーという職業を得た。ゲームの知識だってある。ここが本当にエルディアなら、魔物の特徴も、行動パターンも、ある程度は知っている。


 まずは敵の位置を確認する。


 俺は倒れた荷車の陰から、村の広場を覗いた。


 魔物は大きな音に引き寄せられているらしい。鐘の音が鳴るたびに、数匹がそちらへ向きを変える。


 ならば、音で誘導できるかもしれない。


 そう考えた瞬間、視界の端で小さな影が動いた。


 少女だった。


 十歳くらいだろうか。少女は倒れた木箱のそばで転んでいた。すぐ近くに、赤い目をした魔物がいる。


「危ない!」


 俺は駆け出した。


 間に合う。


 そう思った。


 少女の腕をつかみ、抱きかかえて逃げればいい。魔物がこちらへ向き直る前に、距離を詰める。


 だが、俺の足は思ったより遅かった。


 魔物が振り返る。


 その口が開いた。


「いや……!」


 少女の声が聞こえた。


 次の瞬間、魔物が少女へ飛びかかった。


「やめろおおおっ!」


 俺は手を伸ばした。


 届かなかった。


 少女の身体が地面に倒れる。


 短い悲鳴。


 そして、動かなくなった。


 頭の中が真っ白になった。


 何が起きたのか、理解できない。


 ゲームなら、ここでイベント演出が入るのだろう。救出失敗の表示が出て、プレイヤーに次の行動を促すのかもしれない。


 だが、画面には何も表示されない。


 少女は動かない。


 血の匂いがする。


「……嘘だろ」


 魔物がこちらを向いた。


 俺は後ずさった。


 逃げろ。


 頭の中で誰かが叫んでいる。


 少女を助けろという声も、同じ場所から聞こえていた。


 けれど、身体が動かなかった。


 魔物が一歩近づく。


 俺はようやく踵を返した。


 走った。


 走って、走って、何度も転びそうになりながら、村の奥へと逃げた。


 背後で誰かが助けを求めている。


「こっちだ! 誰か、手を貸してくれ!」


「お願い、子供だけでも……!」


 俺は振り返った。


 振り返ってしまった。


 倒れた男。血に染まった地面。泣き叫ぶ女性。魔物に追われ、足を引きずりながら逃げる老人。


 誰かを助けなければ。


 そう思うのに、どうすればいいのかわからない。


 武器がない。


 戦う技術もない。


 能力の使い方さえ知らない。


 俺は、何もできない。


「くそっ……!」


 道の脇にあった柵を乗り越え、建物の隙間を抜ける。


 魔物が追ってくる。


 足音が近づく。


 そのとき、誰かが俺の肩をつかんだ。


「こっちへ来い!」


 村人の男だった。


 男は俺を物置の陰へ押し込み、自分も飛び込んだ。直後、魔物が通り過ぎていく。


 俺たちは息を殺した。


 男の腕から血が流れていた。


「……あんた、戦えるんじゃなかったのか」


 男が小さな声で尋ねた。


「違う。俺は……」


「なら、逃げろ。生きているなら、逃げて誰かに知らせろ」


「でも、あんたは」


「いいから行け!」


 男は俺を突き飛ばした。


 その顔には恐怖があった。


 それでも、男は物置から出ていった。


 魔物を引きつけるためだと、すぐにわかった。


 俺は追いかけようとした。


 しかし、物置の外から聞こえた音に、足が止まった。


 何かがぶつかる音。


 短い叫び声。


 そして、沈黙。


 俺は口を押さえた。


 吐き気が込み上げる。


 逃げなければ。


 ここにいたら、自分も死ぬ。


 そう考えている自分が、ひどく卑怯に思えた。


 それでも、俺は走った。


◇◆◇


 村を抜け、森へ飛び込んだ。


 枝が頬を引っかき、足元の根につまずく。何度も転び、泥だらけになりながら、俺は走り続けた。


 どれくらい走ったのかわからない。


 ようやく足を止めたとき、肺が焼けるように痛んだ。


 振り返る。


 森の向こうに、煙が上がっている。


 村の鐘は、もう鳴っていなかった。


 俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。


 助けられなかった。


 少女も、男も。


 ほかにも、何人もの人がいた。


 俺は見捨てた。


 助けを求める声を聞きながら、逃げた。


「……違う」


 自分に言い聞かせる。


「俺には、何もできなかったんだ」


 そうだ。


 何もできなかった。


 だから逃げるしかなかった。


 だが、その言葉を繰り返すほど、胸の奥が重くなる。


 そのとき、背後の茂みから枝の折れる音がした。


 俺は弾かれたように振り向いた。


 赤い目が二つ、暗がりに浮かんでいた。


 さっきの狼だ。


 狼は血のついた牙を見せ、ゆっくりと近づいてくる。


 逃げ道はない。


 武器もない。


 助けてくれる人間もいない。


 俺は震える手を握り締めた。


 狼が身を低くする。


 そして、その視線が、俺の足元に転がっているものへ向いた。


 そこには、別の狼の死体があった。


 腹を裂かれ、すでに息絶えている。


 俺は死体を見た。


 そして、自分の手を見た。


 ネクロマンサー。


 今まで忌み嫌っていた職業の名前が、頭の中に浮かび上がる。


 死体を操る力。


 それが本当に使えるのなら。


 俺は唇を噛み、死体へ手を伸ばした。


 もう、逃げるだけでは生き残れない。

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