第3話 目の前で、人が死んだ
狼が飛びかかってきた。
「うわっ!」
俺は横へ転がった。
牙が肩をかすめ、上着の布が裂ける。地面に倒れ込んだ身体に、硬い石が食い込んだ。
痛い。
ゲームのダメージ表示も、体力ゲージの減少もない。ただ痛みだけがある。
俺は慌てて立ち上がり、村へ向かって走った。
狼の唸り声が背後から迫る。
走りながら振り返ると、赤い目がすぐそこにあった。
「なんなんだよ、こいつ!」
ゲームなら敵の攻撃には予備動作がある。動きを見切り、回避のタイミングを合わせればいい。
頭ではわかっている。
だが、実際に自分の命が懸かっていると、考えたとおりには身体が動かない。
足がもつれ、息が乱れ、視界が狭くなる。
狼は追いついてこなかった。
その代わり、俺の前を横切ると、森の中へと走り去った。
「……助かった?」
いや、違う。
狼の進んだ先に、村があった。
俺は嫌な予感に駆られ、全力で走った。
◇◆◇
村の入り口にたどり着いたとき、そこはすでに戦場になっていた。
「逃げろ! 家の中に入れ!」
「子供を先に! 早く!」
村人たちが叫びながら走り回っている。
荷車が横倒しになり、積まれていた木箱が道に散乱していた。家の壁には爪で引っかいたような傷が残り、地面には赤黒い染みが広がっている。
狼だけではなかった。
犬ほどの大きさの魔物が何匹も村へ侵入していた。四本脚のものもいれば、前脚が異様に長いものもいる。どれも獣の形をしているのに、動きには人間を襲うための悪意があるように感じられた。
「おい、あんた! ぼさっとするな!」
村人の男が俺の腕をつかんだ。
「武器を持っていないのか? 裏の道から逃げろ!」
「魔物は何匹いるんだ?」
「数えている暇があるか!」
男は俺を突き飛ばすようにして走り去った。
俺は歯を食いしばった。
何かできるはずだ。
ネクロマンサーという職業を得た。ゲームの知識だってある。ここが本当にエルディアなら、魔物の特徴も、行動パターンも、ある程度は知っている。
まずは敵の位置を確認する。
俺は倒れた荷車の陰から、村の広場を覗いた。
魔物は大きな音に引き寄せられているらしい。鐘の音が鳴るたびに、数匹がそちらへ向きを変える。
ならば、音で誘導できるかもしれない。
そう考えた瞬間、視界の端で小さな影が動いた。
少女だった。
十歳くらいだろうか。少女は倒れた木箱のそばで転んでいた。すぐ近くに、赤い目をした魔物がいる。
「危ない!」
俺は駆け出した。
間に合う。
そう思った。
少女の腕をつかみ、抱きかかえて逃げればいい。魔物がこちらへ向き直る前に、距離を詰める。
だが、俺の足は思ったより遅かった。
魔物が振り返る。
その口が開いた。
「いや……!」
少女の声が聞こえた。
次の瞬間、魔物が少女へ飛びかかった。
「やめろおおおっ!」
俺は手を伸ばした。
届かなかった。
少女の身体が地面に倒れる。
短い悲鳴。
そして、動かなくなった。
頭の中が真っ白になった。
何が起きたのか、理解できない。
ゲームなら、ここでイベント演出が入るのだろう。救出失敗の表示が出て、プレイヤーに次の行動を促すのかもしれない。
だが、画面には何も表示されない。
少女は動かない。
血の匂いがする。
「……嘘だろ」
魔物がこちらを向いた。
俺は後ずさった。
逃げろ。
頭の中で誰かが叫んでいる。
少女を助けろという声も、同じ場所から聞こえていた。
けれど、身体が動かなかった。
魔物が一歩近づく。
俺はようやく踵を返した。
走った。
走って、走って、何度も転びそうになりながら、村の奥へと逃げた。
背後で誰かが助けを求めている。
「こっちだ! 誰か、手を貸してくれ!」
「お願い、子供だけでも……!」
俺は振り返った。
振り返ってしまった。
倒れた男。血に染まった地面。泣き叫ぶ女性。魔物に追われ、足を引きずりながら逃げる老人。
誰かを助けなければ。
そう思うのに、どうすればいいのかわからない。
武器がない。
戦う技術もない。
能力の使い方さえ知らない。
俺は、何もできない。
「くそっ……!」
道の脇にあった柵を乗り越え、建物の隙間を抜ける。
魔物が追ってくる。
足音が近づく。
そのとき、誰かが俺の肩をつかんだ。
「こっちへ来い!」
村人の男だった。
男は俺を物置の陰へ押し込み、自分も飛び込んだ。直後、魔物が通り過ぎていく。
俺たちは息を殺した。
男の腕から血が流れていた。
「……あんた、戦えるんじゃなかったのか」
男が小さな声で尋ねた。
「違う。俺は……」
「なら、逃げろ。生きているなら、逃げて誰かに知らせろ」
「でも、あんたは」
「いいから行け!」
男は俺を突き飛ばした。
その顔には恐怖があった。
それでも、男は物置から出ていった。
魔物を引きつけるためだと、すぐにわかった。
俺は追いかけようとした。
しかし、物置の外から聞こえた音に、足が止まった。
何かがぶつかる音。
短い叫び声。
そして、沈黙。
俺は口を押さえた。
吐き気が込み上げる。
逃げなければ。
ここにいたら、自分も死ぬ。
そう考えている自分が、ひどく卑怯に思えた。
それでも、俺は走った。
◇◆◇
村を抜け、森へ飛び込んだ。
枝が頬を引っかき、足元の根につまずく。何度も転び、泥だらけになりながら、俺は走り続けた。
どれくらい走ったのかわからない。
ようやく足を止めたとき、肺が焼けるように痛んだ。
振り返る。
森の向こうに、煙が上がっている。
村の鐘は、もう鳴っていなかった。
俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
助けられなかった。
少女も、男も。
ほかにも、何人もの人がいた。
俺は見捨てた。
助けを求める声を聞きながら、逃げた。
「……違う」
自分に言い聞かせる。
「俺には、何もできなかったんだ」
そうだ。
何もできなかった。
だから逃げるしかなかった。
だが、その言葉を繰り返すほど、胸の奥が重くなる。
そのとき、背後の茂みから枝の折れる音がした。
俺は弾かれたように振り向いた。
赤い目が二つ、暗がりに浮かんでいた。
さっきの狼だ。
狼は血のついた牙を見せ、ゆっくりと近づいてくる。
逃げ道はない。
武器もない。
助けてくれる人間もいない。
俺は震える手を握り締めた。
狼が身を低くする。
そして、その視線が、俺の足元に転がっているものへ向いた。
そこには、別の狼の死体があった。
腹を裂かれ、すでに息絶えている。
俺は死体を見た。
そして、自分の手を見た。
ネクロマンサー。
今まで忌み嫌っていた職業の名前が、頭の中に浮かび上がる。
死体を操る力。
それが本当に使えるのなら。
俺は唇を噛み、死体へ手を伸ばした。
もう、逃げるだけでは生き残れない。




