第18話 死者の目
階段の下から聞こえてくる唸り声は、いつまでも途切れなかった。
ノアは壁に背をつけ、耳を澄ませる。
獣の声に似ている。だが、森で遭遇した魔物とは違った。もっと低く、重い。喉から出る声というより、石の奥から響いてくる音のようだった。
「引き返そう」
フィアが小声で言った。
「戻れるなら、そうしたい」
ノアは背後を振り返る。
転がってきた石が通路を塞いでいる。押しても動きそうにない。別の道を探すにしても、さっきの広間へ戻るには、あの小型魔物がいる場所を通らなければならない。
選択肢は少なかった。
「ここで待つのも危険だ。音が近づいてきたら、挟み撃ちになるかもしれない」
「じゃあ、下へ行くの?」
「ああ。でも、すぐには進まない」
ノアは階段の一段目に小石を置いた。しばらく待つ。何も起きない。
二段目にも小石を置く。今度は、石がかすかに震えた。
「……何かある」
ノアが小石を拾い上げると、階段の下から冷たい風が吹き上がってきた。
風には、かすかな腐臭が混じっている。
死体の匂いだ。
ノアはその匂いを知っていた。村が襲われた後、地面に倒れていた人々。墓地で見た、土に埋められた遺体。どれも、忘れたくても忘れられない匂いだった。
「ノア?」
「この下に、死体があるかもしれない」
フィアの顔が強張った。
「……あなたの力で、分かるの?」
「いや。匂いだけだ」
ネクロマンサーになったからといって、死者のすべてが分かるわけではない。死体の位置を自由に感知できるわけでも、亡くなった人間の記憶を読み取れるわけでもない。
ただ、ノアの中には奇妙な感覚があった。
階段の下に、何かがある。
それは恐怖に近いのに、どこか懐かしいようでもあった。
ノアは小さく息を吐いた。
「一つ、試したいことがある」
「何を?」
「俺の能力だ。今まで、死体を動かすことしか考えてなかった。でも、別の使い方があるかもしれない」
彼は腰袋から、以前に倒した小動物の骨を取り出した。森で拾い、何かに使えるかもしれないと残していたものだ。大した力は宿っていないはずだが、練習にはなる。
ノアは骨を床に置き、意識を集中した。
以前、死んだ狼を動かしたときの感覚を思い出す。
体の奥に、冷たい水が流れるような感触があった。自分の意思を骨へ押し込むのではない。骨に残された、動くための仕組みを見つけ、そこへ意識をつなぐ。
そう考えた瞬間、指先がじんわりと冷えた。
骨が、かすかに跳ねた。
フィアが目を見開く。
「動いた……?」
「ほんの少しだ。まだ、うまくいかない」
ノアはもう一度、意識を集中した。
骨が床を転がる。
右へ。左へ。
まるで、見えない指に押されているかのようだった。
ノアは骨を階段の下へ向けた。自分たちが進むより先に、何があるのか確かめられるかもしれない。
骨は一段、また一段と階段を下っていった。
その途中で、突然止まった。
ノアの意識が、何かに触れた。
冷たい。暗い。重い。
骨の先にあるものが、わずかに伝わってくる。
石の床。湿った空気。そして、複数の死体。
ノアは息を呑んだ。
見えたわけではない。声が聞こえたわけでもない。だが、骨を通じて、そこにあるものの輪郭だけが感じられた。
さらに意識を伸ばそうとした瞬間、何かが弾き返してきた。
激しい頭痛が走る。
「ぐっ……!」
ノアは膝をついた。
「ノア! 大丈夫!?」
「……ああ。少し、無理をした」
額から汗が流れている。鼻の奥に鉄の味が広がった。
骨は階段の途中で止まったままだった。
ノアは深呼吸を繰り返し、頭痛が引くのを待つ。
能力には限界がある。
死体を動かせば疲れる。離れた場所のものを探ろうとすれば、もっと大きな負担がかかるらしい。
だが、何も得られなかったわけではない。
「下には、死体がある。たぶん何体も。それと……」
「それと?」
「何かが、その死体のそばにいる」
フィアは階段の下を見た。
「魔物?」
「分からない。でも、死体の一つに触れた瞬間、何かに押し返された」
ノアは骨を回収しようとした。
そのとき、階段の下から、コツン、と音がした。
止まっていた骨が、ひとりでに動き始めた。
一段。
もう一段。
まるで、誰かが下から引っ張っているかのように、骨は暗闇へと転がっていく。
「そんな……」
ノアが意識をつなぎ直そうとしても、骨は反応しなかった。
自分の力で動かしているのではない。
何者かが、骨を呼び寄せている。
次の瞬間、階段の下から声が聞こえた。
「……返せ」
かすれた、男の声だった。
「それは……俺の……」
フィアが口元を押さえた。
ノアの背筋に冷たいものが走る。
死体がある。
その死体に、何かが宿っている。
そして、それは自分の能力に反応している。
ノアは小刀を握り直した。戦うためではない。せめて、自分の手元に武器があると思うためだった。
「戻る道は塞がってる。先へ行くしかない」
「本当に行くの?」
「ここで立ち止まっても、状況は変わらない」
ノアは一段ずつ、慎重に階段を下りた。
フィアも後に続く。
階段の終わりには、広い地下室があった。壁際には古い木箱が積まれ、床には割れた武器や錆びた鎧が散乱している。
そして、部屋の中央には、五体の人間の遺体が横たわっていた。
冒険者のような服装をしている。どれも長い時間を経て傷んでいたが、完全に白骨化しているわけではない。
その中の一体が、ゆっくりと顔を上げた。
空洞になった眼窩の奥に、黒い光が灯っている。
「……ネクロマンサー」
死体の口が動いた。
「お前……なぜ、ここに来た」
ノアは答えられなかった。
死体は、ゆっくりと立ち上がる。
「ここは……まだ、開いてはならない」
その声と同時に、地下室の壁に刻まれた紋様が赤く光り始めた。
ノアの頭の中で、あの無機質な声が響く。
『第一層・守護個体を確認』
『警告。通常の探索手順と一致しません』
死体の口元が歪んだ。
「お前も……選ばれたのか」
その瞬間、床に横たわっていた残りの四体も、一斉に動き始めた。




