第17話 地下への入口
ダンジョンの入口を越えたところで、ノアは一度立ち止まった。
外の森から聞こえていた魔物の唸り声は、石壁に遮られて聞こえなくなっている。代わりに耳に届くのは、水滴が落ちる音と、どこか遠くで石が擦れるような音だけだった。
入口付近の壁には、青白い光を放つ石が埋め込まれていた。光は弱いが、足元を確かめるには十分だ。
「本当に、ダンジョンなのね……」
フィアは壁に手を触れかけて、慌てて引っ込めた。
「触らないほうがいい。何が仕掛けられてるか分からない」
「あなた、こういう場所に来たことがあるの?」
「ない。……ただ、似た場所を知ってる気がするんだ」
ノア自身にも、なぜそう感じるのか説明できなかった。
ゲームの知識は残っている。しかし、記憶はところどころ曖昧だ。地形も、魔物の配置も、画面で見ていたものと完全には一致しない。
ここを初心者向けの探索区域だと思ったのは、入口の石柱に刻まれた紋章に見覚えがあったからだ。
だが、現実のダンジョンはゲームのように、失敗すれば最初からやり直せる場所ではない。
「まず、遺体を下ろそう」
ノアは壁際の比較的乾いた場所を選び、男を静かに横たえた。フィアが外套を畳み、頭の下へ差し入れる。
「こんな場所に置いておくのは、よくないわね」
「分かってる。けど、背負ったままじゃ戦えない。出口が安全だと分かれば、すぐに戻ってくる」
ノアは男の衣服を確かめた。身元を示すものは見当たらない。首元には、妻らしき人物が縫ったと思われる布が残っていた。
それを傷つけないように整え、ノアは小さく頭を下げた。
「少し待っていてください。必ず戻ります」
返事はない。
それでも、言葉にしておきたかった。
ノアは腰袋を開き、残りの道具を確認した。縄は短くなり、杭は二本。ナイフも投げてしまったため、手元には予備の小刀しかない。食料はわずかな干し肉と硬いパンが少しだけ。
長時間の探索には足りない。
「フィア、戻るなら今だ。出口まで引き返して、村に助けを呼ぶ方法もある」
フィアは首を横に振った。
「外に魔物がいる。私一人では戻れない。それに、あなたを置いていけないわ」
「危険だぞ」
「分かってる。だから、危険じゃない場所を見つけるまでは一緒にいる」
ノアは反論を諦めた。
彼女は怖がっている。声にも、手にも、その震えが残っている。それでも、ここまで自分についてきたのだ。
ならば、自分にできることは一つだった。
「何かあったら、俺の指示に従ってくれ。無理に戦わなくていい。走るときは走る。隠れるときは隠れる」
「分かった」
二人は通路を進み始めた。
床には薄く砂が積もり、ところどころに古い足跡らしき窪みがある。壁の下部には、何かを引きずったような黒い筋が伸びていた。
ノアは足を止め、しゃがみ込む。
「新しい跡?」
「分からない。でも、ここに何かがいたのは確かね」
彼は砂を指先でこすった。乾いている。少なくとも、直前に誰かが通った跡ではなさそうだ。
そのとき、通路の奥で金属音がした。
カン。
カン。
一定の間隔で、何かが床を叩いている。
フィアが息を潜める。
「魔物?」
「……たぶん」
ノアは壁に身を寄せ、角の向こうを覗いた。
そこには、小さな広間があった。中央に石の台座があり、その上には壊れた鎧が転がっている。鎧の脇では、骨ばった小型の魔物が二体、床を引っかいていた。
犬ほどの大きさだが、口は大きく、前脚の爪は鋭い。
片方が顔を上げた。
ノアはすぐに身を引いた。
「見つかった?」
「まだだ。けど、時間の問題だな」
「戦うの?」
「できれば避けたい。数が多いし、ここで傷を増やしたくない」
ノアは通路の床を見た。砂が積もり、石の継ぎ目がところどころ割れている。壁には古い鎖が垂れ、天井には亀裂が走っていた。
使えるものはある。
彼は短い縄を取り出し、通路の端にある石柱へ結びつけた。反対側は、床に転がっていた鎖の輪に通す。
「何をするの?」
「通り道を狭くする。あいつらが追ってきたら、足を取れるかもしれない」
「それで止まる?」
「止まらなかったら、別の手を考える」
完璧な作戦ではない。そもそも、敵の動きが分からない以上、成功する保証もない。
だが、何もせずに突っ込むよりはましだった。
ノアは床の小石を拾い、広間の反対側へ投げた。
カラン、と音が響く。
二体の魔物が同時に振り向いた。しばらく周囲を見回した後、一体が音のした方向へ駆けていく。
もう一体も、少し遅れて後を追った。
「今だ」
二人は壁沿いに広間を横切り、反対側の通路へ滑り込んだ。
ところが、ノアの靴が床の石板を踏んだ瞬間、乾いた音が鳴った。
カチリ。
次の瞬間、背後の壁が震えた。
「ノア、何の音!?」
「罠だ!」
天井から砂が落ち、通路の奥で何かが動き始める。
ノアはフィアの腕をつかみ、走り出した。
背後から轟音が迫ってくる。
振り返ると、石の塊が通路を塞ぐように転がり始めていた。
「走れ! 止まるな!」
二人は暗い通路を駆け抜ける。足元は悪く、壁には鋭く突き出した石がある。何度も転びそうになりながら、必死に前へ進んだ。
ようやく脇道を見つけ、二人はそこへ飛び込んだ。
直後、巨大な石が通路を塞いだ。
轟音が響き、砂埃が舞い上がる。
ノアは咳き込みながら、壁にもたれた。
「……助かった、のか?」
フィアがうなずく。
しかし、安堵したのも束の間だった。
脇道の先には、下へ続く階段があった。
階段の壁に、青白い文字が浮かび上がる。
『第一層――侵入確認』
ノアはその表示を見つめた。
自分たちは入口の罠を抜けただけではない。
何かに、正式に認識されたのだ。
そして階段の下からは、先ほどまでとは違う、重く低い唸り声が響いていた。




