第16話 今度は、見捨てない
三体の魔物が、道を塞いでいた。
湿った土を踏みしめる音。枝の隙間から覗く、黄色く濁った眼。背中には骨のような突起が並び、口元からは粘ついた唾液が垂れている。
ノアは、荷車の残骸から見つけた男の遺体を背に庇った。
隣ではフィアが息を呑んでいる。
「ノア……あれ、さっきの護衛依頼で見た魔物と同じ?」
「似てる。でも、少し大きい。別の個体かもしれない」
「逃げられる?」
「……逃げ道があればな」
前方には三体。後方は、遺体を引きずってきた狭い獣道だ。道の両側には湿地が広がり、足を取られれば動きが鈍る。
ノアの腰には短いナイフ。袋には残り少ない縄と杭が数本。傷は完全には塞がっておらず、毒草を扱った右手もまだ思うように動かない。
以前なら、ここで逃げる方法だけを考えただろう。
しかし、背後には帰りを待つ家族がいるかもしれない男の遺体があった。
名前も知らない。声も聞いたことがない。生きている間に何をしていたのかさえ、ノアは知らない。
それでも、この人をもう一度置き去りにすることだけは、したくなかった。
「フィア。俺が合図したら、右の木まで走れ」
「ノアは?」
「こいつらを引きつける」
「駄目よ。三体もいるのに!」
「二人で一緒に逃げたら、追いつかれる。片方が引きつければ、もう片方は遺体を運べる」
「だったら、私が引きつける!」
フィアは震える手で小さなナイフを握った。
「私は墓地の手伝いをしてるだけ。でも、あなた一人を囮にするために一緒に来たんじゃない!」
その言葉に、ノアは一瞬だけ返事を失った。
彼女は戦士ではない。魔術師でもない。普通の人間だ。魔物と正面から戦えば、ひとたまりもないだろう。
それでも彼女は逃げなかった。
「……分かった。二人でやる。ただし、俺が合図したら絶対に走れ」
ノアは足元の泥を確かめた。数歩先は深く沈み込む湿地だ。魔物の背中の突起は鋭いが、足は太く、体重もありそうだった。
ならば、正面から倒す必要はない。
ノアは縄の端を杭に結び、二本目の杭を少し離れた木の根元へ打ち込んだ。縄は地面に近い高さで張られ、落ち葉を被せられる。
罠というには単純すぎる。だが、魔物が走ってくれば足を取る程度の役には立つはずだった。
「来いよ」
ノアは石を拾い、一番前の魔物に投げつけた。
石は頭ではなく、骨の突起に当たった。乾いた音が森に響く。
魔物が唸った。
一体が突進してくる。ノアはぎりぎりまで待ち、横へ飛んだ。
魔物の前脚が縄に引っかかる。
体勢を崩した巨体が泥の中へ突っ込み、盛大な水音を立てた。
「今だ!」
フィアが走る。ノアも反対方向へ駆け出した。
しかし、残りの二体は罠を避けた。片方がノアを追い、もう片方がフィアの背後へ回り込む。
「フィア!」
ノアは足を止めた。
ここで自分が逃げれば、彼女は追いつかれる。迷う時間はなかった。
ノアは短いナイフを投げた。刃は魔物の肩に浅く刺さっただけだったが、敵の注意を引くには十分だった。
魔物が方向を変え、ノアへ突進する。
ノアは木の幹を回り込んだ。巨体が木にぶつかり、鈍い衝撃が響く。
その隙にフィアが戻ってきた。
「何で戻ってくるんだ!」
「あなたが戻ったからよ!」
「そういう問題じゃ――」
言いかけたノアの足元が崩れた。
傷ついた足が泥に沈み、体勢を立て直せない。魔物が迫る。
そのとき、フィアが地面に落ちていた枝を投げつけた。魔物の顔に当たり、敵が一瞬だけ怯む。
ノアはその隙に、最後の杭を魔物の前脚へ突き出した。杭は肉に深く刺さらなかったが、進路をわずかに変えた。
魔物はぬかるみに踏み込み、膝まで沈んだ。
「走れ!」
二人は森の斜面を駆け上がった。
背後で魔物が吠える。泥から抜け出そうともがく音が、徐々に遠ざかっていった。
どれほど走ったのか分からない。
やがて木々が途切れ、崩れかけた石造りの建物が姿を現した。
入口らしい穴の周囲には、古い石柱が並んでいる。壁面には、見覚えのない文字が刻まれていた。
「ここは……?」
フィアが息を整えながら尋ねた。
ノアは石柱を見上げた。
ゲームの記憶が、頭の奥でかすかに動く。
エンド・オブ・エルディア。かつて画面越しに見ていた世界。そこに存在した、初心者向けの探索区域。
だが、記憶の中の地形とは少し違う。
「たぶん、古いダンジョンだ」
「ダンジョン?」
「村の近くにあるって聞いたことがある。魔物が集まるから、近づくなって」
背後から、再び魔物の唸り声が聞こえた。
森から逃げ切れたわけではない。
ここで立ち止まれば、いずれ追いつかれる。
ノアは崩れた入口を見た。暗闇の向こうから、冷たい風が吹いてくる。
「入るしかないな」
「中に何がいるか、分からないのよ?」
「外にいるものなら、もう分かってる」
ノアは男の遺体を背負い直した。傷が痛み、肩に重みが食い込む。
それでも、足は止めなかった。
入口をくぐった瞬間、石壁に埋め込まれた青白い光が一つ、また一つと灯った。
頭の中に、聞き覚えのある無機質な声が響く。
『探索区域を確認』
『侵入者情報を照合しています』
ノアは立ち止まった。
この世界に来てから何度か見た、あの不自然な感覚。夢とも記憶ともつかない、何かが自分の内側を覗いてくるような感覚。
『職業情報――ネクロマンサー』
『特殊条件を確認』
声が途切れた。
しばらくの沈黙の後、壁の奥で何かが動く音がした。
フィアがノアの袖をつかむ。
「今、何か聞こえなかった?」
「……ああ」
ノアは暗闇の奥を見つめた。
ダンジョンは、ただの廃墟ではない。
そして、自分のことを知っている。
男の遺体を守るために入った場所で、ノアは初めて、この世界そのものに隠された謎へ足を踏み入れた。




