8 オニグマ、奇跡、唯一神
背の高い針葉樹の葉が日の光をさえぎり、薄暗くひんやりとした森のなかをすすむ一行があった。修道騎士団の別働隊だ。先頭をいくクレメンタスは、この隊──クレメンタスを含め四人編制──の指揮を任されていた。
隊列の中ほどにいる二匹のトリトカゲ(全身を羽毛におおわれた二足歩行恐竜のような運搬用家畜。馬ほどの大きさで植物食)の背には、隊員たちの十日分の食料が積まれていた。
別働隊の使命は〝〈永遠の森〉の奥にいるという〈森の民〉に接触する〟ことだ。〈教会〉はこれまでも幾度となく探索隊の派遣をこころみているが、〈森の民〉にたどりつくどころか、〈永遠の森〉に呑みこまれて帰ってこられないものがほとんどだった。野獣や魔物が跋扈し、禁足地とされている〈永遠の森〉は、それほど危険だった。
そしてそれはクレメンタスも例外ではなかった。森にはいって二日目、クレメンタスの部隊は悪獣に遭遇した。
それは、なんの前触れもなく、雷でも落ちたかのような大音量で、なにか大きな物体が隊列のド真ん中に打ち下ろされた。クレメンタスが後ろをふりかえったときには、トリトカゲの胴体が真っ二つに切断され、修道士のひとりは身体の左半分がなくなっていた。
「オニグマだ!」
だれかが叫んだ。
オニグマ──百年以上生きた熊が妖力を得て邪悪になった悪獣。五、六メートルほどまで大型化した体格に、強靭な筋肉と運動能力をそなえ、性格は非常に凶暴。熊とちがい体毛がなく、皮膚は赤黒く爛れている。一部の人びとからは森のヌシと恐れられ神格化されていた。
クレメンタスたちが遭遇したオニグマは飢えていた。攻撃的になっていた。岩石のような分厚い前足を薙ぎ払う。黒光りする五本の爪が、もう一匹のトリトカゲとふたりの修道士を、肉片にした。
クレメンタスは盾をかまえ鎚鉾を振りあげると、無謀にもオニグマへ立ち向かっていった。
「うわおおおッ!」
雄叫びをあげ、渾身の力でオニグマの頭を撲りつけた。さすがのオニグマもその衝撃にひるんだが、すぐに立ちなおり、岩石のような前足を飛ばしてきた。クレメンタスは木製の盾をかまえてそれを受けようとした。ふつうなら、木盾ごときで悪獣の攻撃を防ぐことはできないとかんがえるだろう。木盾ごとクレメンタスの身体は引き裂かれてしまうだろうと──が、そうはならなかった。
盾の表面に黄金色の火の粉が散る。祝福だ。クレメンタスの盾には神の祝福がほどこされており、何人たりとも傷つけることができない。
祝福のおかげで、盾が粉々になることもクレメンタスが引き裂かれることもなかった。が、オニグマの打突の衝撃を吸収することはできなかった。クレメンタスの巨躯がおもちゃのように吹っ飛んでいく。
飛んだ先は、崖だった。
クレメンタスは空中を泳いで重力にあらがう。しかしそれもむなしく、修道騎士は奈落へと落ちていった──
子供のころの夢を見た。
大人たちの目のとどかない場所で、子供のクレメンタスは全裸で四つん這いにさせられている。
「おい、ワン公。片足あげろ。小便するんだ」
犬の真似を強要されているクレメンタスをほかの子供らが囲んで嘲笑している。クレメンタスは片足をあげて排尿した。
「オエエ、こいつほんとに小便してるぞ。気持ち悪りぃな」
クレメンタスは蹴り飛ばされた。すると、ほかの子たちもつぎつぎと蹴ってきた。クレメンタスは丸くなって身を守った。丸くなりながら泣いた。悔しくて情けなくて泣いた。クレメンタスが泣いている姿を見て、まわりの子供たちは笑っていた──
寝覚めの悪い夢だ──クレメンタスが意識をとりもどしたとき、知らない部屋の寝台のうえだった。身体を起こすと左脇に痛みが走った。どうやら肋骨が折れているようだ。あたりを見わたす。こじんまりとした素朴な造りの家屋だ。服も、着ていた法衣ではなく、洗い立ての麻の衣服に替えられていた。
クレメンタスは寝台からおりて立ち上がると身体の至るところが痛んだ。廊下に出るとひとの話し声がきこえてきた。そちらのほうへ行くと食卓がおかれた居間があり、ヒト族の老婆と少年少女、エルフ族の女──の四人がいた。
「おや、お目覚めかね。もう歩いて大丈夫なのかい。骨折してるようだったけど」と老婆が訊いた。
「は、はい、なんとか。手当をしてくださったのですか」
「たいしたことはしてないけどね。それより、このふたりが──」と老婆が顎をしゃくったのがヒト族の少年と少女だった。「──川辺で倒れてるお前さんをみつけてここまで運んでくれたんだ。礼を言うならこの子たちに言っとくれ」
少年は、黒い髪と黒い瞳をしており、肌も日に焼けて浅黒く、いかにも〝奴隷〟といった見た目の子供だった。いっぽう、少女のほうは、陶器のような白い肌と銀色にかがやく髪の毛が美しく、まるで〝お人形〟のようだった。
「きみたちが助けてくれたのですね。感謝いたします」
「ところで貴方は〈教会〉の修道士様ですよね」と女のエルフが言った。目隠しをしているところをみると盲目なのかもしれない。「ここは〈永遠の森〉と恐れられ、だれも近寄りたがらない場所です。〈教会〉の方がこんな僻地にどんなご用でいらしたのですか」
「申し遅れました。私の名はクレメンタスと申します。おっしゃる通り、私は〈教会〉の修道騎士です。私たちの目的は、この森の奥にいるといわれている〈森の民〉に会うことでしたが、森で魔物に襲われ……あっ、も、もしかして、あなた方が〈森の民〉ですか!」
老婆は首を横に振った。
「いいや。残念だが、儂らは〈森の民〉ではない。儂はただの呪い師だ。こっち(女エルフ)は魔術師で、このふたり(少年少女)は、まあ、孤児みたいなもんで、儂らが拾ってきた子だ」
「……そうですか。では、〈森の民〉の集落の場所を知りませんか」
「知らんな」老婆は即答した。「そもそも〈森の民〉なんて実在するのかい? 儂はこの森に住んで何十年も経つが、〈森の民〉なんぞ一度もお目にかかったことがないがの。ところでお前さんは、その〈森の民〉とやらに会ってどうするつもりなんだい」
クレメンタスは不安になった。この危険な森のなかにヒト族の集落があるという話はやはりただの噂でしかないのだろうか、と。クレメンタスは、胸にともった不安の火をかき消し、話をつづけた。
「話によると〈森の民〉とは、奴隷の身分や〈悪夢の地〉での苛酷な生活から逃げた者たちできずいた集落だということです。我らの神のまえでは、種族や身分や性別や貧富に関係なく、人は皆平等です。我ら〈教会〉は、奴隷の解放を謳っており、そしてそれはすくなからず成功しています。我々はいまでは〈悪夢の地〉の三分の一にまで勢力をひろげています。私は〈森の民〉を救いにきました。我々の力がおよぶ区域であればヒト族は安全です。居場所があります。奴隷になることもありません。もうこんな危険な森のなかに隠れて生きる必要はないのです」
クレメンタスは熱弁をふるった。が、老婆は冷めた態度だった。
「それはそれは、立派なことだ。もし〈森の民〉という連中がいたら大喜びするだろね。ま、とりあえず、あんたは傷を癒しなさい。だれかを救済するのはそれからだよ」
老婆の名は〝チャルゥ〟といい、エルフの女は〝ヴェネフィカ〟と名乗った。〝ロッカ〟という名の少年は奇形持ちで、脚が動物のようで、口も利けなかった。そしてもっとも驚愕したのは、人間だと思っていた少女が造られた人形だったことだ。しかもおぞましいことにみずから動き、話すこともできた。邪教の魔術や呪術の類いだろうか。クレメンタスはこの〝セアル〟という人形をもっとも警戒した。
「〈奇跡〉とは、いったいどういった原理と作用で、概念を顕現させているのですか」
呪い師の家で数日がすぎたころ、盲目の魔術師ヴェネフィカがそう尋ねてきた。
「申し訳ない。私にはそちらの才能がないもので、よくわからないのです。ただ唯一神〈エル〉に帰依したものだけがあつかえるそうです」
実際クレメンタスは〈奇跡〉をあつかえなかった。
「エル? それは〈悪夢の地〉の人びとにひろく信仰されている創造神エルのことでしょうか。〈教会〉の方々はよく〝唯一神〟という言葉をつかいますが、エルは神々の父であり、また、エル自身もあまたいる神々のうちの一柱です」
「いいえ、まったく違います」クレメンタスはきっぱりと否定した。そして憤りの色をふくんだ口調でつづけた。「神というのは唯一の存在でなければなりません。神々の父とよばれている存在は、〈エル〉の名を騙るにせものです。我々の〈エル〉以外に神はなく、あなた方が神とよぶ存在はたいがい悪霊か怪物といった類いで、あなた方は騙されているのです。ゆえに我々はあなた方を救うために日々戦っているのです」
「……そうですか。クレメンタス様もいつか〈奇跡〉がつかえるようになれたらいいですね」
そう言いのこして盲目の魔術師は去っていった。




