7 バアル王伝説と竜人族神話
かつて〈旧世界〉という時代があった。〈旧世界〉の人びとは、空に舟をうかべ、星々のあいだを行き来できるほど、高度に発達した文明をもっていた。しかし、太古に起きた古竜と巨人の戦争に巻きこまれ、彼らの文明はあっけなく滅亡してしまう。
そののち、戦災を生き延びた人びとのまえに突如、王を名乗る者があらわれ、この地を支配した。王の名はバアル──
バアルは異形の者だった。頭に角、脚には山羊のような蹄をもち、腕は四本あった。腕はさまざまなかたちに自由に変形し、虎のような鉤爪や蝙蝠のような翼になった。
しかし、この王が恐れられたのはその異形さだけではない。もっとも恐れられたのは、人の精神を汚染する能力だった。
王があらわれてから、この地に住む人びとは悪夢に悩まされるようになった。人びとは恐怖し、反抗心をそがれ、隷属することで悪夢から逃れようとした。
人びとは、異形の支配者を〝悪夢王〟とおそれ、その支配地を〝悪夢の国〟または〝悪夢の地〟とよんだ。バアルの支配は七千年つづいた。
七千年後、はじまりと同様、終わりも唐突だった。バアル王がある日こつぜんと姿を消し、王朝はその日をもって終焉をむかえることとなった。
──これが、この地では子供でも知っている〝悪夢王〟の伝説である。二千年前の大厄災によって文献のほとんどが消失してしまったため、この伝説が史実なのかどうかを検証する方法はない。
× × ×
ヴェネフィカとセアルが、呪い師チャルゥのところに来てから二ヶ月がすぎていた。
セアルはいま、チャルゥの家にいた〝ロッカ〟という少年といっしょに森に入って、木の実や野草の採集をしていた。ロッカは、チャルゥから借りた鉈──重厚で粗雑な造りの山刀──で枝や蔓を打ち払い、道を切り拓いていく。
チャルゥの話では、虐殺がおこなわれた集落で唯一の生き残りだったロッカを保護したというが、目覚めたときには記憶も言葉も失っていたという。セアルがはじめてロッカと会ったとき、無表情で無反応、まるで魂が抜けたように見えたのは、そういう理由があったのだ。
〝ロッカ〟という名前もチャルゥがつけたもので、本当の名前は本人もわからない。
ロッカは、この二ヶ月でずいぶん身体をうごかせるようになり、表情も見られるようになったが、記憶喪失と言語障害はまだ残っていた。
「おい、ロッカ。どこまで行くんだよ。もうじゅうぶん採ったろ」
セアルの背中の籠は収穫物で満杯だった。
ロッカは口角をあげて笑顔のような表情をつくると、指を差し、
「く、く、くぁッチ」
と吃音のある声でセアルをうながした。
「……はあ」
セアルはあきらめて、ロッカが切り拓いた道へ入った。道をぬけてひらけた場所へ出ると、そこには野苺とツクシとフキが手つかずのまま自生していた。
セアルは不審そうにロッカに訊いた。
「ロッカ。オマエ、ここ来るのはじめてだよな」
ロッカは頷く。
「なんでここに野草があるって知ってんだよ」
ロッカはしばらく思案したあと首をかしげた。わからないらしい。
「勘か?」
ロッカはふたたび首をかしげた。
「……ま、いいや。ここのを採ったらもう帰るぞ」
× × ×
おなじころチャルゥの家では、ヴェネフィカが霊薬づくりを手伝っていた。朝露をあつめて溜めた水に、マンドラゴラの根、黒蜥蜴の尻尾、毒蛙の干物などを入れた鍋を火にかけ、ヴェネフィカがゆっくりと木べらでかきまぜている。
ヴェネフィカは手をうごかしながら訊いた。
「チャルゥ様、あの少年についてどう思われますか」
チャルゥは、乾燥させた薬草をすり鉢に入れ、ローラーですり潰して粉末にしていた。
「どうとは?」
「ロッカ少年の〝呪い〟についてです」
「ああ、そのことかい」
「彼の身体──下半身は黒くて硬い毛に覆われていて、足先は山羊の蹄のようになっているそうですね」
「そうだが」
「それに、側頭部にある突起は日に日に大きくなっているようです。まるで伝説に出てくる悪夢王──バアルの姿に似ていると思いませんか。なにか関係があるのでしょうか」
「そうかもしれん。だが正直儂にもわからん」
「ロッカ少年はチャルゥ様がおとずれた村で出会ったのですよね」
「ふむ。儂が昔から取引していた集落だった。ドワーフの領主が統治する村で、そこにいるヒト族は当然、全員奴隷だ。儂が森のなかでしか手に入らない希少な物や霊薬をもってくるから、領主もヒト族同士の取引に目をつむっていた」
チャルゥは、森の奥にいる〈森の民〉たちの守護者であり仲介者でもあった。
〈森の民〉はほとんどがヒト族であり、元奴隷のものも多い。そして森にこもる生活ではどうしても不足する物が出てくる。とくに日々のエネルギー源となる穀物類が慢性的に不足した。そうなると広い耕地をもつ外の集落と取引をして穀物を手に入れるしかない。〈森の民〉は、森で採れた獣肉や魚を加工したり、質のいい織物を生産して、外界との取引物にした。
チャルゥは、〈森の民〉たちが外界と接触しないように自分が窓口となって、森の生産物を持って外界の集落をまわり、取引をおこなってきたのだ。
「あの日、集落をたずねると奴隷たちが皆殺しにされていた。領主の姿はなかった。おそらく、〈教会〉の侵攻をおそれたドワーフたちが村を捨てたのだろう。〈教会〉への恐怖がヒト族への憎悪に変わって、ドワーフたちは奴隷だったヒト族を虐殺した。その光景は酷いものだった。見せつけるように遺体を辱めていたのは、〈教会〉への挑発だ。
あの子も──ロッカも、あの村の奴隷だったんだろうな。ロッカはあの日、どれほど残酷なものを見たんだろうか。自分が殺されるそのとき、どれほど怖かっただろうか。そう思うと、記憶がないのはむしろ救いなのかもしれんな」
ヴェネフィカはその言葉に引っかかった。
「〝殺される〟とは、どういうことですか? まるでロッカ少年が一度死んでいるかのような言い方ですが」
「その通りだよ。ロッカは人として死に、別の何者かになって生き返ったんだ。それに、いまのロッカは〝不死〟だよ」
「不死!」
めずらしくヴェネフィカは大きな声を出してしまった。長寿といわれるエルフでさえ寿命があり、不死ではない。
「なぜ不死だと言えるのですか」
「見たからだよ、ロッカの不死を」チャルゥはつづけた。「ロッカをここにつれてきてすぐに、夢遊病の症状があってね、夜中にひとりで森へ行ってしまったことがあった。儂が気づいて追いついたときには、飢えた大猪にはらわたを喰われていた。完全に息絶えているはずだった。しかしロッカは息を吹きかえした。獣みたいな獰猛さで大猪に襲いかかり、殺して、喰らった。腹の傷は跡形もなく消えていた。それを見て儂は、何故あの虐殺からロッカだけ生き残れたのかを理解した。これは〝不死の呪い〟だと確信したんだ」
「呪い、ですか? 祝福ではなく?」
「不死は幸福ではなく、不幸でしかないよ、ヴェネフィカ」
「なるほど。では、チャルゥ様はロッカ少年の不死の呪いを解呪したいと」
「できればね。しかし、儂はその方法を知らん。もし方法があったとしても、それは蜘蛛の糸をつかむようなものだろうな。だが、糸口があるとすればひとつだけ心当たりがある」
チャルゥのその言葉はヴェネフィカの知的好奇心を刺激した。
「ほほう、それはなんですか」
「ヴェネフィカはさっき、ロッカがバアル王の特徴に似ていると言ったが、ヴェネフィカは〈竜人族神話〉を知っているか」
「竜人族? いえ、知りません」
「〈竜人族神話〉は、ヒト族のあいだで伝承されてきた神話でな、簡単にいうと、〝宇宙蛇オルムル〟という名の途方もなくデカい蛇が世界をまるごと呑みこもうとしたとき竜人族の戦士たちがあらわれて宇宙蛇を退治する、という話なんだが、その竜人族の容姿が、頭に角、背中に翼、脚には山羊のような蹄があったと描写されとる」
「バアルの特徴と似ていますね」
「そうだ。それで肝心なのは、その竜人族たちが〝不死〟だった点だ」
「なるほど。バアル王も——嘘か本当か——七千年は生きつづけていますから、彼も〝不死〟だったと考えるのが妥当ですね。となると」
「ふむ。バアル王は竜人族のひとり、または末裔なのかもしれん」
「つまりロッカ少年の〝不死の呪い〟の秘密はそこにあると」
「ああ、儂はそう考えとる。だがそうだったとして、伝説や神話のたぐいをしらべる方法がこの上層世界には残されていない。結局、〈旧世界〉の遺産があるとされる下層にしか、秘密を解明する糸口はないだろう」
「ますます下層へのおもいが募ってしまいますね」
玄関の扉が開いた音がした。ロッカたちが帰ってきたようだ。ふたりが玄関に迎えにいくと、野草が満杯になった籠をふたつ背負ったロッカがいた。
「ロッカ、セアルちゃんはどうしたんだい」
チャルゥが訊いた。すると遅れてセアルがあらわれた。が、背中に見ず知らずの大男を担いでいる。男は意識がなく、その服は水に濡れていた。
「どうしたんだい、そいつは。いや、ちょっと待った。その男──」
「どうしたのですか、チャルゥ様」
盲目のヴェネフィカには状況が見えない。
「ああ、えっと……セアルちゃんが気絶した男をおぶってる。溺れたのか、服がびしょ濡れだ。ただ、その服が〈教会〉の法衣なんだ」
「おやまあ、それは」とヴェネフィカ。
「この男、〈教会〉の人間だ」
三分の一くらいしかない小柄な少女の背中で脱力している大男は、クレメンタスだった。




