27 深淵
ブランコの座板に腰かけたロッカは、虚空のなかで足をぶらぶらさせながら、セアルたちに手を振った。その姿はほんとうに、遊具で遊ぶ子供のままだ。
セアルは厳しい表情をしていた。まるで怒っているかのように。もしかしたら、危険な仕事をロッカにゆずってしまった自分に、怒っているのかもしれない。
クレメンタスは顔を引き攣らせて、ぎこちなく笑っていた。子供とはいえロッカは不死であり、本気を出せばウリエルとの戦いで見せた悪魔的な姿にも変身できるのだ。なにも心配することはない。ないはずなのに、なぜ心配してしまうのだろう。クレメンタスは自分のなかに見つけた未知の感情に驚いていた。これは、兄が弟に抱くような、または父親が息子に抱くような類いの愛情ではないだろうか。本来クレメンタス自身はヴェネフィカの捕虜という立場なのだが、いつのまにかロッカだけでなくセアルやヴェネフィカにも、親愛の情をもつようになっていた。クレメンタスの人生ではじめての体験だった。
人夫たちが固定していた縄をはずし準備をはじめる。ロッカが乗るブランコがすこし揺れた。
「それじゃ、はじめるぞ! 行けるか、ロッカ!」
この場を仕切るのは、ギガンス・フェッリウス団頭領のマレフだ。ロッカはマレフにむかって親指を立てた。それを見たマレフは、ニカッと笑ってから、ロッカに親指を立てて見せた。
「よおしッ、ゆっくりと降ろすぞ! 振れ回り(吊った荷物がくるくる回る現象)を起こすなよ!」
マレフは人夫たちに気合を入れた。
ロッカを乗せたブランコが深淵の暗闇のなかへゆっくりと降りていく。
ロッカの腰のベルトにはヴェネフィカから借りたランタンがぶら下がっていた。ランタンの心許ない光では手元が見えるくらいで、周囲の暗闇にいたっては闇がより強調されるだけだった。
だいぶ下っただろうか、上を見ればかすかな灯りが小さく見えるだけだ。闇のなかにいると感覚が狂って、ほんとうに下へ降りているのかわからなくなり、ひょっとして同じところにずっといるのではないか、と勘ぐってしまう。
そして、これは感覚の動作不良のせいなのか、ロッカはこの深淵の先に〝だれかがぼくを待っている〟と感じていた。なぜだかわからないがそう確信していた。
ロッカが異変に気づいたのは、用意していた降下用の縄が半分ほどつかわれたときのことだった。
——暗闇が蠢いた。
そう思ったときには、大きな手がロッカの身体を鷲掴みにし、ブランコから剥がすと、闇のなかへと引きこんだ。
騒然となったのは、大穴のふちで作業をしていた者たちだ。縄を引いていた人夫たちは、いきなり強い力で引っ張られた直後、今度は縄に重みを感じられなくなり、勢いあまって後方にひっくり返ってしまった。
だれもが、ロッカが落ちた、と思った。
マレフは冷静に努めながら指示を出した。
「焦るな! ゆっくりだ! ゆっくり上げろ! ゆっくりと急げ!」
案の定、ブランコは空だった。
「だからアタシが乗るって言ったんだッ」セアルは怒っていた。「アタシが乗る。ロッカを助けにいく。はやく!」
それは最初、柱のように見えた。三本の柱が、大穴の闇から突然突き出てきたのかと思った。しかし柱ではなかった。それは腕だった。巨大な三本の腕。
「なんじゃ、あれは!」と声が上がった。逃げ惑う者もあった。
三本の腕はなにかを探しているように曲がり、捻れた。そして、それぞれの腕が、セアル、クレメンタス、ヴェネフィカを捕まえると、深淵の闇のなかへと引きずりこんだ。
大穴の周辺は恐慌状態に陥った。
深淵に引きずりこまれた三人は石畳の上に乱暴に降ろされた。
「痛ッ」
クレメンタスは腰をさすっていた。
「ロッカ!」
セアルはロッカの姿を見つけた。
「無事だったのか」
ロッカは頷く。
「石畳……ここは、建築物のなかですか」とヴェネフィカ。
薄暗くてよく見えなかったが、たしかに石造りの遺跡のような場所だった。ロッカはヴェネフィカの手をとると、遺跡の奥へと案内した。まるで行き先を知っているかのように——
案内された先は広間のような空間になっていた。広間の中央から無数の鎖が放射状にのびて、壁や天井の至るところに固定されていた。鎖の先は暗くて見えない。中央に一体なにがあるというのか——
先に進むにつれて徐々に見えてきたのは、巨人の影だった。
「巨人だ。身体じゅう鎖でぐるぐる巻きにされている巨人……」とクレメンタス。
「セアルさん、巨人の外見をくわしくおしえてくれますか」
盲目のヴェネフィカの要望にセアルがこたえる。
「……あ、ああ……頭に山羊のような角が二、四……六本生えていて。顔は口がすこし突き出ていて獣っぽい。脚も山羊のそれとおなじだ」
セアルの説明をきいたヴェネフィカは、
「それって——ロッカ少年とおなじなのでは」
と言った。
クレメンタスが口をひらく。
「まさに、ウリエルとの戦いでロッカ少年が変身した姿とおなじ。それを十倍大きくした感じです」
十倍は大げさで、実際は体長八メートルほどだった。
「つまり、竜人族……」とヴェネフィカ。
無数の鎖に拘束されている竜人族の巨人は、床に胡坐をかいて座り、目を閉じて眠っているようだった。
竜人族の巨人が身じろぐ。すこしだけ瞼を開き、ロッカたちを一瞥すると、また目を閉じ眠ってしまった。
「これはなんだ」
クレメンタスが戸惑っている。だが、その理由はほかの三人にもすぐにわかった。頭のなかに心象が流れこんでくるのだ。
「これは、この竜人族が見ている夢?」とヴェネフィカ。
——時は遥か昔、現在とは悠久の隔たりがあるであろう太古の時代。
大勢の竜人族たちが武器をもって戦っている。戦っている敵は、よくわからない概念的な存在だ。その概念的存在は〝こちら側の世界〟に強引に侵入しようとしているようだ。竜人族たちはそれを阻止しようと戦っている。
竜人族たちは蝙蝠の翼をひろげて空を旋回する。概念的存在を守護しているのは天使の軍勢だ。小天使みたいな小物ではなく、ミカエルよりも高位の天使たちであり、概念的存在の眷属だ。
両者は激しく殺し合う。竜人族の仲間たちも次々と殺され、墜落していく。
しかしとうとう、竜人族は概念的存在を世界の外に追いやり、扉を閉ざすことに成功した。しかし生き残った竜人族は彼ひとり。しかもその彼も深い傷を負っていた。彼は傷を癒やすため、ひとりの人間と同化した。彼は王となり、この地を統べた——
——それから幾星霜の時を経て、卑小な神が禁断の扉を開けた。概念的存在を追いやった、あの扉だ——
——死体の山が見える。その頂きにひとりの少年が横たわっている。空洞になった胸腔に、彼はみずからの心臓を埋めこむ——
「いまのは、ロッカ……」
セアルはロッカを見る。ロッカは自分の胸を右手でそっと押さえた。
ガゴンッ——乾いた音が広間に響く。
気づくと、竜人族の巨人も、彼を拘束していた鎖も消えていて、代わりに両開きの大きな扉が出現していた。さきほどの乾いた音は、扉が開いた音のようだ。扉が開かれると暗い空間に光が差しこんできた。
それはまるで、ロッカたち四人をいざなうかのような光だった。




