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悪夢の王 KING OF NIGHTMARE   作者: 葛飾ゴラス
第二章 上層世界
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19/28

19 開花

 フェッリア川の支流──川の名前は不明──は、ながれがゆるやかで洗濯をするにはちょうどよかった。フェンはひとり、浅瀬に膝まではいり、平板な岩に衣類を叩きつけていた。そのあと、水流で衣類をよくすすぎ、かたく絞ると、岸にある洗濯籠に投げいれた。籠には仲間たちの洗濯物が山と積まれている。

 遠くの草原に、杖をついたヴェネフィカが見えた。どうやら、こちらにむかって歩いてくるようだ。

「ヴェネフィカさぁぁん」

 フェンは、ヴェネフィカが盲目なのをわすれて、両手をふって呼んでいた。


 フェンは、洗いおわった衣類を両手で勢いよくふって皺をのばすと、木と木のあいだに張った縄に干した。木陰には、腰を下ろして休むヴェネフィカの姿があった。心地よい風がふたりのあいだを通り過ぎる。

「洗濯日和ですね」とヴェネフィカ。

「はい、ほんとに。ヴェネフィカさんは、予後は順調ですか」フェンが訊く。

「ええ、おかげさまで。しかし体力は落ちてしまってますね。ちょっと歩いただけで疲れてしまいます」

「病み上がりは無理をしないで、ゆっくり静養してください」

「お気遣いありがとうございます。あ、そういえば今日はクレメンタスさんとは一緒ではないんですね」

「はい。いまごろ兄と修行をしてると思います」

「祈祷、ですか?」

 クレメンタスは最近、この双子の兄妹にイコン派の加持祈祷を習っているのだ。

「はい」フェンは頷く。

「クレメンタスさんの成長具合が目まぐるしいのだそうで」

「ええ、ほんとにすごいんですよ」整ったフェンの顔に向日葵のような笑顔が咲いた。「いままで祈祷が苦手だったなんて信じられないくらいです。もともと、ヒト族はわれわれエルフやほかの種族たちより信仰心が篤い傾向にあります。だから祈祷や呪術と相性がいいんです──って、ヴェネフィカさんにむかって講釈を垂れるなんて! すいません!」

「いやいや、興味深いです。つづけてください」とヴェネフィカが言ってもフェンは恥ずかしがった。「では、ふたりで議論をしましょう。わたくしからいきますね——いまフェンさんのおっしゃった通り、ヒト族の信仰心は篤く、それは神性や霊性と接続して概念具現化させる術式──呪術や精霊術や祈祷など──との親和性がたかいのはたしかです。クレメンタスさんの信仰心はいかがですか」

「それがすごいんです」フェンも議論に乗ってきた。「クレメンタスさんはヒト族のなかでも信仰心がずば抜けてます。これまでどれだけ献身的に神に仕えてきたのか、想像に難(かた)くありません。クレメンタスさんが祈祷をはじめて修得したときのことです——」


 ——クレメンタスは、神の姿が描かれた〈聖像画〉を見つめ、祈りを捧げた。まるで神が目のまえに存在するかのような生々しさをもって。

 イコン派の祈祷──正式には〈加持祈祷〉──では、手印・真言・観想という三つの要素をつかって神々とつながる。

〝手印〟は、両手でつくる宗教的サインで、神々や精霊と交信したり、精神統一や精神覚醒につかわれる。〈教会〉の、祈りにつかう両手指を交互にして握りあわせるハンドサインも、手印のひとつだ。

〝真言〟は呪文と同義であり、言葉に宿る力をつかって構造や法則を操作する。

〝観想〟という概念はイコン派独特の考え方であり、〈教会〉では禁止されている偶像崇拝をイコン派では積極的に取り入れている。偶像を用いるほうが心のなかに神を想像しやすく交信が容易いなどの利点があるからだ。

 しかし、〈教会〉では偶像崇拝は禁止されている。ゆえにイコン派は〈教会〉から異端視され、迫害・弾圧される対象になっていた。

 話をもどす。

 クレメンタスは〈聖像画〉のエル神に祈りを捧げた。すると、白銀に輝く聖印が浮かび上がり、クレメンタスの身体を包みこんだ。

 ラファエル戦のときに負った右肩の傷の痛みがみるみるうちに消えていく。

 クレメンタスは袖口をめくり上げて、自分の右肩を見た。傷がない。跡形もなく消えていた。

「私にも〈奇跡〉が——」

 思わず天を仰いだ。

「すごいすごい。クレメンタスさん、おめでとう」

 フェンの瞳から涙が溢れて、零れた。

 それを見たクレメンタスは、

「フェン、なぜ泣いてるのですか。もしかして私がなにかしてしまいましたか」

 と慌てた。

「ちがうちがう。感動してるんです」

「なぜ」

「嬉しくて」

(出会って数日しか経っていない私のことに、嬉し泣きしてくれるのか)

 クレメンタスは驚いていた。

「——美しい」

「えっ」

 フェンは頬を赤らめた。

 そこで心の声が思わず口から出ていたことに、クレメンタスは気づいた。

「え、いや、あの、これは」

「もうっ、からかわないで。本当に嬉しかったんだから」

 と頬をふくらませるフェンの可愛らしい仕草を目にして、クレメンタスの胸にしめつけられるような痛みが走ったのは、仕方のないことだ。

 兄のファルは、ふたりからすこし離れた場所でその光景をほほえましく眺めていた。クレメンタスの実直さと誠実さは知っている。ファルにとってもクレメンタスは無二の親友だ。

(それが〝弟〟になったとしても、ぼくたちの友情は変わらない。いや、より深いものになるだろう。だって、家族になるんだから)

 とファルは思った。

 ファルはふたりのそばへと歩み寄った——


「ふむ、すごい成長速度ですね」

 ヴェネフィカも驚いた。

「いまでは、傷を癒やす〈神の加護〉と解毒の〈慈悲の涙〉、それにクレメンタスさんが熱望していた〈聖なる鎧〉を修得しています。まちがいなく旅路のなかでヴェネフィカさんたちの力となることでしょう」

 と、フェンは洗濯物を干しながら、嬉しそうにヴェネフィカに語った。

「それは素晴らしい。ところで、クレメンタスさんがいままで術をつかえなかったのは何故だと思いますか。おなじ〈エル神〉を崇拝する者として感じるところがあれば教えてください」とヴェネフィカが訊いた。

〈奇跡〉をまったくつかえなかった者が、ここにきて突然祈祷を修得できたのには、なにか理由があるはずだ。しかし、クレメンタスが〈教会〉の人間だと明かしてはならない。クレメンタス自身が〈教会〉のことを告白していないのだから。

 クレメンタスが告白できないのも無理はないといえる。それもそうだろう。なぜなら〈教会〉はイコン派を異端扱いしてさんざん迫害をしてきたのだから。クレメンタス自身も、はじめは彼らイコン派のことを蔑視していたのは自明だ。

 フェンはヴェネフィカの質問に答えた。

「そうですね。わたしは〈教会〉のやり方をあまり知らないのでなんとも言えませんが──」

「ちょ、ちょっと待ってください、フェンさん。貴方、クレメンタスさんが〈教会〉の人間だと気がついていたのですか」

「え……」フェンはきょとんとした顔をして、「そりゃ、わかりますよ」と言った。「クレメンタスさんの立ち振る舞いを見てれば〈教会〉の人なんだなって。でも、クレメンタスさんが知られたくないと望んでらっしゃるので、わたしも兄も気がついてないフリをしています」

「……そうなんですね」

 ヴェネフィカは拍子抜けしてしまった。なにもかもすっかりバレていたとは。

「しかし、それならば何故、〈教会〉の修道士であるクレメンタスさんや彼と一緒にいるわれわれによくしてくださるのですか。〈教会〉は貴方がたを散々迫害してきたのに、何故クレメンタスさんを許すのですか」

「許すもなにも、わたしたちを迫害してきたのは、クレメンタスさんではないからです。それに、クレメンタスさんはいい人です」

「なるほど、素晴らしい回答です。それでは話をもどしましょう。クレメンタスさんがいままで〈奇跡〉を修得できなかった訳と、祈祷を修得できた理由を、フェンさんの考えをおきかせください」

 フェンは考えをまとめた。

「やり方ではないでしょうか」

「やり方?」

「はい。〈聖像画〉をつかったやり方がクレメンタスさんに合っていたのでは」

「それは一因ではありそうですね。そのほかには?」

「うーん、むずかしいです。ヴェネフィカさんはどうですか」

「ええ、仮説がひとつあります。すこし過激な仮説ですが」

「へえ、おもしろそう。きかせてください。過激でもかまいません」

「そうですか。それでは」とヴェネフィカはつづけた。「さきほどフェンさんがおっしゃった〈聖像画〉にヒントがあるような気がします。それは〈エル神〉の姿を真似て描かれた絵画ですよね。クレメンタスさんが〈聖像画〉によって、正(﹅)し(﹅)く(﹅)エル神とつながれたことはまちがいないでしょう。つまり、いままでが正しくなかったのです」

「なるほど。つまり、やり方がまちがっていたと?」

「いえ、わたくしの仮説では、まちがっていたのは〝やり方〟ではなく、〝崇める神〟のほうではないかと考えています」

「え? ちょっとわからなくなってきました。エル神が正しくないということですか」

「いえいえ、ちがいます。わたくしが言いたいのは、〈教会〉のエル神は偽物なのではないか、ということです」

 これにはフェンもさすがに驚いた。

「たしかに過激ですね」

「しかしそう考えるといろいろなことが一本の糸でつながるような気がするのです。たとえば〈奇跡〉について、ほかの信者たちは扱えたのに、クレメンタスさんだけ扱えなかった理由としては、信者たちの祈りが偽神にたいする祈りに改竄されているからではないでしょうか。〈奇跡〉は、実際には偽神との契約によって行使されている。クレメンタスさんの場合は、本物のエル神への信仰心がつよすぎたため、偽神への祈りに改竄できなかったと推察します。結果、彼はエル神とも偽神とも交信できなかったのです」

「たしかにそれなら理屈が通りますね。〈聖像画〉によって本物のエル神と交信して、エル神の祈祷をつかえるようになったと。偽神の〈奇跡〉ではなく」

「その通りです。それともうひとつ、偽神だとする根拠としては、〈教会〉のエル神はわたくしたちが知るエル神像とはだいぶかけ離れている印象がある、ということです。本来のエルは、数多の神々を生みだした〝神々の父〟として、とても温厚で老成している印象があります」

「そうですね」

「しかし〈教会〉の神は、おのれを〝唯一神〟と呼び、ほかの神々の存在を否定します。そして、そのやり方も強引です。信者たちを脅迫し、異教徒は皆殺しにする。そんなことを創造神がするとは思えないのです」

「たしかに……」

 フェンは思考の深淵へと沈みこんだ。

「まあ、これはあくまで仮説──」

 そのときだった。

「おーい!」

 遠くにファルの姿が見える。なにかひどく焦ったようすで、こちらに駆け寄ってくる。

「どうしたの、兄さん」

 ファルは息を切らしながら、こう言ったのだ。

「はあはあ、ワイバーンだ。はあはあ、ワイバーンがもどってきた」

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