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【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


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9/17

鼻の利かない侍女

 ヴィオラ様の世話係になって、五日が過ぎた。


「下げなさい」


 朝の紅茶を差し出した途端、冷たい声が降ってきた。


 ヴィオラ様は茶器に鼻を近づけることもなく、受け皿ごと私の手から払いのける。

 陶器が床で砕ける音が響いた。熱い紅茶が、私のスカートの裾に染みていく。


「香りが死んでいるわ。茶葉を蒸らしすぎたのね」

「申し訳ございません。すぐに淹れ直します」

「無駄よ」


 ヴィオラ様は、くすりと笑った。


「人間には、香りなんてわからないのでしょう? わからない者が何度淹れたって、同じことだわ」


 後ろに控えた猫獣人の侍女たちが、くすくすと笑う。


(……香りなら、わかります)


 母に教わった茶葉の扱いには、自信があった。ロッタさんも、料理長も、美味しいと言ってくれた。

 けれど、獣人の鼻に比べれば、私の感じている香りなんて、きっと何もないのと同じなのだろう。

 私は黙って膝をつき、砕けた陶器の破片を拾い集めた。

 

 

 

 嫌がらせは、それからも毎日続いた。


 着替えを手伝えば、ヴィオラ様は私の手が肌に触れた瞬間に身を引いた。


「冷たい。人間の手は、体温が低くて不快だわ」


 そう言って肩で押しのけられ、私は衣装棚に背中を打ちつけた。


 髪を結えば「毛並みの扱いを知らない」と、何度もやり直しを命じられる。部屋の掃除をすれば「人間の匂いが残っている」と、窓をすべて開け放たれる。


(大丈夫。これくらい、あのお屋敷にいた頃に比べれば)


 ダルクの屋敷では、「連れ子」として使用人たちに陰口を叩かれるのが当たり前だった。慣れている。慣れているはずだった。


 けれど、ヴィオラ様の言葉は、いつも私のいちばん弱いところを正確に突いてきた。

 

 

 

 その日の午後、洗濯物を抱えて廊下を歩いていると、角の向こうから笑い声が聞こえた。


「番だなんて、笑わせるわよね」


 ヴィオラ様の声だった。足が、勝手に止まる。


「獣人の番はね、互いの匂いで惹かれ合うものなの。旦那様があの娘の匂いに気づいたって、あの娘のほうは旦那様の匂いがわからない。片方だけが焦がれるなんて、そんなの番じゃないわ。ただの病よ」

「お気の毒ですわね、辺境伯様」

「それにね」


 ヴィオラ様の声が、楽しげに弾んだ。


「人間は、獣人の半分も生きられないのよ。旦那様がまだお若いうちに、あの娘は皺だらけのお婆さんになって、さっさと死んでしまうの」


 くすくすと、侍女たちの笑い声が重なる。


「そんなものを番だなんて、旦那様がお可哀想。私が目を覚まして差し上げなくちゃ」


 洗濯物を抱えた腕が、小さく震えた。


(……知ってる)


 獣人が人間よりずっと長く生きることは、子どもの頃から知っていた。母も、ダルクより先に老いていくことを、どこか諦めたような顔で受け入れていた。


 知っていたのに。

 なぜ今、こんなにも胸が痛いのだろう。

 私は足音を立てないように引き返して、別の廊下へ回った。

 

 

 

 裏庭の物干し場で、ひとりシーツを広げていると、背後から声をかけられた。


「大丈夫ですか」


 振り返ると、ヴィオラ様の護衛の青年が立っていた。山猫獣人で、名はレオンといったはずだ。精悍な顔立ちに、気遣わしげな表情を浮かべている。


「お嬢様のなさりようは、少し度を越しています。お辛いでしょう」

「い、いえ。お仕事ですから」

「無理をなさらないでください。よろしければ、僕がお嬢様にそれとなく——」


 レオンさんが一歩近づいて、私の手からシーツの端を取ろうとした。


 その瞬間、背筋を冷たいものが撫でた。


「客人の護衛が、なぜ裏庭にいる」


 低く、静かな声。

 回廊の柱の前に、ゼルキウス様が立っていた。


 金色の瞳は、レオンさんだけを映している。表情はいつもと変わらない。それなのに、裏庭の空気がみるみる凍りついていく。


「へ、辺境伯様。私はただ、こちらの方が困っていらっしゃるようでしたので」

「護衛の務めは、主の傍にいることだ」


 淡々とした声が、レオンさんの言葉を断ち切る。


「持ち場を離れる護衛は、当家では不要だ。ラグナ公爵に、そう伝えようか」


 レオンさんの顔から、さっと血の気が引いた。


「し、失礼いたしました!」


 逃げるように去っていく背中を見送って、遅れて駆けつけてきたガルドさんが、天を仰いだ。


「旦那様……相手は公爵家の護衛です。お客人ですよ」

「客人なら、客人らしくしていればいい」


 ガルドさんは深いため息をついて、こめかみを押さえた。


 ゼルキウス様の視線が、ゆっくりと私に移る。

 その目が、紅茶の染みが残るスカートの裾で止まった。


「……何かあったのか」


 心臓が、どくんと跳ねた。


「い、いいえ。何もございません」


 私は慌てて首を横に振った。


(言えない。言ったら、私はやっぱり「守られるだけの番」になってしまう)


 ゼルキウス様は、しばらく黙って私を見つめていた。やがて、短く「そうか」とだけ言って、執務室へ戻っていった。

 

 

 

 その夜、ひとりきりの部屋で、私は鏡台の前に座った。

 鏡に映るのは、栗色の髪をひっつめた、地味な人間の娘。

 頭の上に、ぴんと立つ耳はない。ドレスの裾から覗く、しなやかな尾もない。


 両手を見つめる。ヴィオラ様に「冷たい」と言われた手。


(耳も尾もない。番の匂いもわからない。身分もない。あの方より、ずっと早く老いていく)


 ひとつずつ数えるたびに、胸の奥が冷えていく。


(……あの方にふさわしいものなんて、私には一つもない)


 おかしな話だった。

 番なんていらない、と拒み続けてきたのは私のほうなのに。いざ「お前は番にふさわしくない」と突きつけられた途端、こんなにも苦しくなるなんて。


 窓の外には、月明かりに照らされた中庭が見える。

 あの方は、今夜もあそこで夜空を見上げているのだろうか。


(行っちゃだめ。……あの方の隣は、私の場所じゃない)


 私はカーテンを固く閉めて、ひとりで寝台に潜り込んだ。

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