鼻の利かない侍女
ヴィオラ様の世話係になって、五日が過ぎた。
「下げなさい」
朝の紅茶を差し出した途端、冷たい声が降ってきた。
ヴィオラ様は茶器に鼻を近づけることもなく、受け皿ごと私の手から払いのける。
陶器が床で砕ける音が響いた。熱い紅茶が、私のスカートの裾に染みていく。
「香りが死んでいるわ。茶葉を蒸らしすぎたのね」
「申し訳ございません。すぐに淹れ直します」
「無駄よ」
ヴィオラ様は、くすりと笑った。
「人間には、香りなんてわからないのでしょう? わからない者が何度淹れたって、同じことだわ」
後ろに控えた猫獣人の侍女たちが、くすくすと笑う。
(……香りなら、わかります)
母に教わった茶葉の扱いには、自信があった。ロッタさんも、料理長も、美味しいと言ってくれた。
けれど、獣人の鼻に比べれば、私の感じている香りなんて、きっと何もないのと同じなのだろう。
私は黙って膝をつき、砕けた陶器の破片を拾い集めた。
嫌がらせは、それからも毎日続いた。
着替えを手伝えば、ヴィオラ様は私の手が肌に触れた瞬間に身を引いた。
「冷たい。人間の手は、体温が低くて不快だわ」
そう言って肩で押しのけられ、私は衣装棚に背中を打ちつけた。
髪を結えば「毛並みの扱いを知らない」と、何度もやり直しを命じられる。部屋の掃除をすれば「人間の匂いが残っている」と、窓をすべて開け放たれる。
(大丈夫。これくらい、あのお屋敷にいた頃に比べれば)
ダルクの屋敷では、「連れ子」として使用人たちに陰口を叩かれるのが当たり前だった。慣れている。慣れているはずだった。
けれど、ヴィオラ様の言葉は、いつも私のいちばん弱いところを正確に突いてきた。
その日の午後、洗濯物を抱えて廊下を歩いていると、角の向こうから笑い声が聞こえた。
「番だなんて、笑わせるわよね」
ヴィオラ様の声だった。足が、勝手に止まる。
「獣人の番はね、互いの匂いで惹かれ合うものなの。旦那様があの娘の匂いに気づいたって、あの娘のほうは旦那様の匂いがわからない。片方だけが焦がれるなんて、そんなの番じゃないわ。ただの病よ」
「お気の毒ですわね、辺境伯様」
「それにね」
ヴィオラ様の声が、楽しげに弾んだ。
「人間は、獣人の半分も生きられないのよ。旦那様がまだお若いうちに、あの娘は皺だらけのお婆さんになって、さっさと死んでしまうの」
くすくすと、侍女たちの笑い声が重なる。
「そんなものを番だなんて、旦那様がお可哀想。私が目を覚まして差し上げなくちゃ」
洗濯物を抱えた腕が、小さく震えた。
(……知ってる)
獣人が人間よりずっと長く生きることは、子どもの頃から知っていた。母も、ダルクより先に老いていくことを、どこか諦めたような顔で受け入れていた。
知っていたのに。
なぜ今、こんなにも胸が痛いのだろう。
私は足音を立てないように引き返して、別の廊下へ回った。
裏庭の物干し場で、ひとりシーツを広げていると、背後から声をかけられた。
「大丈夫ですか」
振り返ると、ヴィオラ様の護衛の青年が立っていた。山猫獣人で、名はレオンといったはずだ。精悍な顔立ちに、気遣わしげな表情を浮かべている。
「お嬢様のなさりようは、少し度を越しています。お辛いでしょう」
「い、いえ。お仕事ですから」
「無理をなさらないでください。よろしければ、僕がお嬢様にそれとなく——」
レオンさんが一歩近づいて、私の手からシーツの端を取ろうとした。
その瞬間、背筋を冷たいものが撫でた。
「客人の護衛が、なぜ裏庭にいる」
低く、静かな声。
回廊の柱の前に、ゼルキウス様が立っていた。
金色の瞳は、レオンさんだけを映している。表情はいつもと変わらない。それなのに、裏庭の空気がみるみる凍りついていく。
「へ、辺境伯様。私はただ、こちらの方が困っていらっしゃるようでしたので」
「護衛の務めは、主の傍にいることだ」
淡々とした声が、レオンさんの言葉を断ち切る。
「持ち場を離れる護衛は、当家では不要だ。ラグナ公爵に、そう伝えようか」
レオンさんの顔から、さっと血の気が引いた。
「し、失礼いたしました!」
逃げるように去っていく背中を見送って、遅れて駆けつけてきたガルドさんが、天を仰いだ。
「旦那様……相手は公爵家の護衛です。お客人ですよ」
「客人なら、客人らしくしていればいい」
ガルドさんは深いため息をついて、こめかみを押さえた。
ゼルキウス様の視線が、ゆっくりと私に移る。
その目が、紅茶の染みが残るスカートの裾で止まった。
「……何かあったのか」
心臓が、どくんと跳ねた。
「い、いいえ。何もございません」
私は慌てて首を横に振った。
(言えない。言ったら、私はやっぱり「守られるだけの番」になってしまう)
ゼルキウス様は、しばらく黙って私を見つめていた。やがて、短く「そうか」とだけ言って、執務室へ戻っていった。
その夜、ひとりきりの部屋で、私は鏡台の前に座った。
鏡に映るのは、栗色の髪をひっつめた、地味な人間の娘。
頭の上に、ぴんと立つ耳はない。ドレスの裾から覗く、しなやかな尾もない。
両手を見つめる。ヴィオラ様に「冷たい」と言われた手。
(耳も尾もない。番の匂いもわからない。身分もない。あの方より、ずっと早く老いていく)
ひとつずつ数えるたびに、胸の奥が冷えていく。
(……あの方にふさわしいものなんて、私には一つもない)
おかしな話だった。
番なんていらない、と拒み続けてきたのは私のほうなのに。いざ「お前は番にふさわしくない」と突きつけられた途端、こんなにも苦しくなるなんて。
窓の外には、月明かりに照らされた中庭が見える。
あの方は、今夜もあそこで夜空を見上げているのだろうか。
(行っちゃだめ。……あの方の隣は、私の場所じゃない)
私はカーテンを固く閉めて、ひとりで寝台に潜り込んだ。




