【第三章】招かれざる番候補
その朝、屋敷中がざわめいていた。
「公爵令嬢がお越しになるなんて、何年ぶりかしら」
「番候補ですって。旦那様、とうとうご結婚なさるのかしら」
廊下を磨きながら、侍女たちのひそひそ声が耳に入ってくる。
(番候補……)
雑巾を握る手に、思わず力がこもった。
ラグナ公爵家のご令嬢、ヴィオラ様。王都でも指折りの名家の姫君で、ゼルキウス様の番候補として名乗りを上げているのだと、ロッタさんが教えてくれた。
(よかったじゃない。身分の釣り合ったご令嬢が来てくださるなら、あの方も私のことなんて忘れるはず)
そう思ったのに、胸の奥が、なぜか少しだけざわついた。
昼過ぎ、黒塗りの立派な馬車が、屋敷の正面に停まった。
使用人一同が玄関前に並ぶ。私も列の端で、深く頭を下げた。
「まあ。ずいぶんと寂れたところね」
鈴を転がすような声だった。
顔を上げて、私は息を呑んだ。
馬車から降りてきたのは、銀灰色の髪の令嬢だった。頭の上でぴんと立った猫の耳。ドレスの裾から覗く、しなやかで長い尾。艶やかな毛並みが、陽の光を受けて真珠のように輝いている。
宝石のような翠の瞳が、ゆっくりと使用人たちを見渡した。
(なんて、綺麗な人……)
周りの侍女たちからも、ほうっとため息がこぼれる。
同じ女として、比べることさえおこがましいほどの美しさだった。
ゼルキウス様が、玄関から静かに歩み出る。
「ようこそ、ヴィオラ嬢」
「ゼルキウス様! お会いしたかったわ」
ヴィオラ様は嬉しそうに尾を揺らして、ゼルキウス様の腕に手をかけようとした。
けれどゼルキウス様は、すっと半歩下がってそれを避けた。
「長旅でお疲れだろう。部屋へ案内させる」
それだけ告げると、ゼルキウス様は踵を返して屋敷の中へ戻っていった。
ヴィオラ様の笑顔が、ほんの一瞬だけ強張る。
そして、その翠の瞳が、なぜか列の端にいる私の上で止まった。
「……あら」
ヴィオラ様が、ゆっくりと私の前へ歩いてくる。ふわりと、甘く高価な香水の匂いがした。
「人間の侍女? この屋敷にも、そんなものがいるのね」
上から下まで、値踏みするような視線が這う。
「耳も、尾もないなんて。まるで毛を刈られた子羊みたい」
くすくすと、ヴィオラ様の侍女たちが笑った。つられるように、どこかから失笑がこぼれる。
頬が、かっと熱くなった。
「……ようこそお越しくださいました」
私は唇を噛んで、もう一度深く頭を下げた。顔を上げられなかった。
その日の夕方、私はロッタさんに呼ばれた。
「ミレイちゃん……ヴィオラ様が、あなたをご自分の世話係にしたいとおっしゃっているの」
「え……私を、ですか?」
「旦那様はお断りなさるおつもりよ。でも、一応あなたの気持ちを聞いておきたくて」
ロッタさんの耳が、心配そうに垂れている。
(どうして、私なんかを)
玄関での、あの値踏みするような目を思い出す。きっと、いい理由ではない。
けれど、私は首を横に振った。
「お引き受けします」
「ミレイちゃん……!」
「私は、侍女として働かせてほしいと旦那様にお願いしました。お客様のお世話を断るなんて、侍女のすることじゃありません」
(ここで逃げたら、私はやっぱり「番だから特別扱いされている」ことになる)
それだけは、嫌だった。
執務室へ報告に行くと、ゼルキウス様はしばらく黙って私を見つめていた。
「……お前は、それでいいのか」
「はい。侍女の仕事ですから」
金色の瞳が、かすかに揺れた気がした。けれど、ゼルキウス様は短く「わかった」とだけ答えた。
「何かあれば、すぐに言いなさい」
(言うつもりなんて、ありません)
私は心の中でそう答えて、深く頭を下げた。
その夜、私はヴィオラ様の客間で、銀灰色の長い髪を梳かしていた。
「もっと丁寧になさい。毛並みが乱れるでしょう」
「申し訳ございません」
ヴィオラ様は鏡台の前に座ったまま、退屈そうに尾の先を揺らしている。
「ねえ。あなた、旦那様に番だと言われたそうね」
櫛を持つ手が、ぴたりと止まった。
「屋敷の者たちが噂していたわ。人間の侍女が、旦那様の番かもしれないって」
鏡越しに、翠の瞳が私を射抜く。
「でも、あなたにはわからないのでしょう? 番の匂いが」
何も答えられなかった。
そうだ。私には、わからない。
ゼルキウス様は私の匂いで番を見つけた。けれど私には、あの方の匂いなんて何も感じられない。
「獣人同士なら、番は互いの匂いで惹かれ合うの。片方だけが求めるなんて、そんなの番とは呼べないわ」
ヴィオラ様は、くすりと笑った。
「旦那様は、きっと勘違いをなさっているのよ。二十年も番が見つからなくて、少しおかしくなっていらっしゃるのね」
櫛を動かしながら、私は鏡に映る二人の姿を見つめた。
艶やかな銀の髪と、ぴんと立った耳を持つ、美しい公爵令嬢。
その後ろで、地味な栗色の髪をひっつめた、何も持たない人間の侍女。
(……並べてみると、よくわかる)
あの方の隣に立つのは、こういう人なのだ。
身分があって、美しくて、番の匂いを感じ合える人。
(これでいいの。最初から、私は番なんて望んでいなかったんだから)
そう自分に言い聞かせる。あの方が私への興味を失ってくれれば、それが一番いい。ずっとそう願ってきたはずだ。
それなのに。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。小さな棘が刺さったような、理由のわからない痛み。
(どうして……?)
「何をぼんやりしているの。手が止まっているわよ」
「も、申し訳ございません!」
慌てて櫛を動かす私を、ヴィオラ様は鏡越しに眺めて、満足そうに目を細めた。
その瞳の奥に、獲物を見つけた猫のような光が宿っていることに、私はまだ気づいていなかった。




