↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/17

奪わないが、逃がしもしない(ゼルキウス視点)

 嵐が去った翌晩のことだった。


 執務を終えて廊下を歩いていると、燭台の明かりの下で、あの娘が雑巾を絞っていた。いつものように壁際へ寄り、深く頭を下げる。


 その横を通り過ぎようとして——足が止まった。


 甘い匂いがした。


 雨上がりの森のような、陽だまりの花のような。二十年、どれほど探しても見つからなかった匂い。


 胸の奥に空いていた穴が、一瞬で満たされていく。


(まさか。……この娘が)


 頭で考えるより先に、腕が動いていた。


 気づけば、あの娘を抱きすくめて首筋の匂いを深く吸いこんだ。細い肩。柔らかな栗色の髪。首筋から立ちのぼる匂いに、理性が音を立てて崩れていく。


「やっと……やっと、見つけた」


 声が掠れた。二十年分の渇きが、喉の奥から溢れ出す。


「見つけた。……もう、二度と離さない」


 次の瞬間、胸を強く突き飛ばされた。


 腕が緩んだ隙に、娘は身をよじって逃げ出した。振り返った一瞬、その顔が見えた。


 怯えていた。


 番を見つけた喜びなど、どこにもなかった。そこにあったのは、獣に追われた小動物のような、純粋な恐怖だけだった。


「ミレイ!」


 初めて名を呼んだが、娘は振り返らなかった。

 

 

 

 その夜、俺は屋根裏へ続く階段の下に立っていた。


 扉の向こうから、荷物をまとめる物音が聞こえる。逃げるつもりなのだと、すぐにわかった。


 扉を破ることは簡単だった。腕を掴んで、引き止めることも。


 だが、脳裏に焼きついたあの顔が、それを許さなかった。


(無理に引き止めれば、あの娘は二度と俺を見なくなる)


 俺は階段を下り、ガルドを呼んだ。


「裏口の見張りを下げろ。誰にも声をかけさせるな」

「旦那様、それでは逃げられて——」

「構わない。行き先さえ掴めればいい」


 やがて、裏口の扉が静かに閉まる音がした。窓から見下ろすと、小さな影が夜の闇へと消えていくところだった。


 あれほど恋い焦がれた匂いが、少しずつ遠ざかっていく。


 追いかけたい衝動を、俺は奥歯を噛みしめて押し殺した。

 

 

 

 その夜のうちに、地図を広げて伝令を出した。西の峠、その先の町、関所、商人ギルド。娘が向かいそうな場所すべてに。

 焦る気持ちを抑えてガルドに指示を出す。


 手を出すな。

 居場所を知らせるだけでいい。

 怯えさせるな。

 傷ひとつ、つけるな。



 翌朝、麓の薬屋の主人がやってきた。

 ミレイが取り寄せていた薬草の中身を尋ねると、主人は困ったように答えた。


「あれは匂い消しの薬草です。獣人の鼻から、己の匂いを隠すためのもので……」


 息が止まった。

 あの娘は、ずっと匂いを隠していたのだ。ひと月もの間、この屋敷で毎晩欠かさず。

 俺から——いや、獣人から、自分を隠すために。


「……あの薬草を、領内で扱うのはやめてもらいたい」


 主人は驚いた顔をしたが、何も言わずに頭を下げた。

 卑怯なことをしていると、わかっていた。それでも、二度と見失うわけにはいかなかった。

 

 

 

 逃げた三日間、俺はほとんど眠れなかった。


 伝令からの知らせが届くたびに、地図の上の印を動かす。西の町。乗合馬車。大事な番が、納屋で夜を明かしたという報告に、拳を握りしめた。


(ろくに食べてもいないだろうし、不安で眠れてもいないだろう)


 国境の街へ向かったと聞いて、俺は誰も連れずに馬を走らせた。


 夕暮れの橋のたもとで、ようやく見つけた。


 ふらつく足取り。土埃に汚れた外套。三日前より、ひと回り小さくなった気がした。


 今すぐ抱きしめたかった。けれど、一歩手前で足を止めた。


「迎えに来た。……ミレイ」


 声が震えるのを、抑えられなかった。

 

 

 

 帰りの馬車で、ミレイは俺に問うた。


「私を、閉じ込めるおつもりですか」


 その声の震えに、胸を裂かれる思いがした。この娘にとって、番とは檻なのだ。


 屋敷に戻ってから、ガルドに娘の過去を調べさせた。王都の大商人ダルク。人間族の母親を番として囲い、母親は心を病んで亡くなったという。

 ミレイはその屋敷で、連れ子として育った。


(だから、あんな目をしていたのか)


 誰にも縋らないと決めた目。番の匂いを隠し続けた夜。俺に抱きしめられたときの、あの恐怖。


 すべてが、ひとつに繋がった。


 中庭で「どうして私なんですか」と問われたとき、俺は「わからない」と答えた。嘘ではなかった。


 わかっているのは、ただ一つ。俺は、あの娘でなければだめなのだ。


 番の本能は、今すぐ奪えと叫んでいる。けれど俺は、ダルクと同じにはならない。


(奪わない。あの娘の心が、俺を選ぶまで)


 ただし——もう二度と、手の届かない場所へは行かせない。


 矛盾していることはわかっていた。それでも、これが俺の選んだ道だった。

 

 

 

「旦那様。お知らせが二つございます」


 ある朝、ガルドが二通の書状を持って執務室に入ってきた。


「一つは、ラグナ公爵家から。ご令嬢のヴィオラ様が、番候補として当家をご訪問なさりたいと」

「断れ」

「すでに王都を発たれたそうです」


 俺は眉ひとつ動かさずに、もう一通を受け取った。


「もう一つは、王都の商人ギルドからの報告です。……大商人ダルクの手の者が、栗色の髪の人間族の娘を探して、北へ向かっていると」


 書状を握る指に、力がこもった。


 窓の外では、何も知らないミレイが、中庭を横切っていくところだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。