奪わないが、逃がしもしない(ゼルキウス視点)
嵐が去った翌晩のことだった。
執務を終えて廊下を歩いていると、燭台の明かりの下で、あの娘が雑巾を絞っていた。いつものように壁際へ寄り、深く頭を下げる。
その横を通り過ぎようとして——足が止まった。
甘い匂いがした。
雨上がりの森のような、陽だまりの花のような。二十年、どれほど探しても見つからなかった匂い。
胸の奥に空いていた穴が、一瞬で満たされていく。
(まさか。……この娘が)
頭で考えるより先に、腕が動いていた。
気づけば、あの娘を抱きすくめて首筋の匂いを深く吸いこんだ。細い肩。柔らかな栗色の髪。首筋から立ちのぼる匂いに、理性が音を立てて崩れていく。
「やっと……やっと、見つけた」
声が掠れた。二十年分の渇きが、喉の奥から溢れ出す。
「見つけた。……もう、二度と離さない」
次の瞬間、胸を強く突き飛ばされた。
腕が緩んだ隙に、娘は身をよじって逃げ出した。振り返った一瞬、その顔が見えた。
怯えていた。
番を見つけた喜びなど、どこにもなかった。そこにあったのは、獣に追われた小動物のような、純粋な恐怖だけだった。
「ミレイ!」
初めて名を呼んだが、娘は振り返らなかった。
その夜、俺は屋根裏へ続く階段の下に立っていた。
扉の向こうから、荷物をまとめる物音が聞こえる。逃げるつもりなのだと、すぐにわかった。
扉を破ることは簡単だった。腕を掴んで、引き止めることも。
だが、脳裏に焼きついたあの顔が、それを許さなかった。
(無理に引き止めれば、あの娘は二度と俺を見なくなる)
俺は階段を下り、ガルドを呼んだ。
「裏口の見張りを下げろ。誰にも声をかけさせるな」
「旦那様、それでは逃げられて——」
「構わない。行き先さえ掴めればいい」
やがて、裏口の扉が静かに閉まる音がした。窓から見下ろすと、小さな影が夜の闇へと消えていくところだった。
あれほど恋い焦がれた匂いが、少しずつ遠ざかっていく。
追いかけたい衝動を、俺は奥歯を噛みしめて押し殺した。
その夜のうちに、地図を広げて伝令を出した。西の峠、その先の町、関所、商人ギルド。娘が向かいそうな場所すべてに。
焦る気持ちを抑えてガルドに指示を出す。
手を出すな。
居場所を知らせるだけでいい。
怯えさせるな。
傷ひとつ、つけるな。
翌朝、麓の薬屋の主人がやってきた。
ミレイが取り寄せていた薬草の中身を尋ねると、主人は困ったように答えた。
「あれは匂い消しの薬草です。獣人の鼻から、己の匂いを隠すためのもので……」
息が止まった。
あの娘は、ずっと匂いを隠していたのだ。ひと月もの間、この屋敷で毎晩欠かさず。
俺から——いや、獣人から、自分を隠すために。
「……あの薬草を、領内で扱うのはやめてもらいたい」
主人は驚いた顔をしたが、何も言わずに頭を下げた。
卑怯なことをしていると、わかっていた。それでも、二度と見失うわけにはいかなかった。
逃げた三日間、俺はほとんど眠れなかった。
伝令からの知らせが届くたびに、地図の上の印を動かす。西の町。乗合馬車。大事な番が、納屋で夜を明かしたという報告に、拳を握りしめた。
(ろくに食べてもいないだろうし、不安で眠れてもいないだろう)
国境の街へ向かったと聞いて、俺は誰も連れずに馬を走らせた。
夕暮れの橋のたもとで、ようやく見つけた。
ふらつく足取り。土埃に汚れた外套。三日前より、ひと回り小さくなった気がした。
今すぐ抱きしめたかった。けれど、一歩手前で足を止めた。
「迎えに来た。……ミレイ」
声が震えるのを、抑えられなかった。
帰りの馬車で、ミレイは俺に問うた。
「私を、閉じ込めるおつもりですか」
その声の震えに、胸を裂かれる思いがした。この娘にとって、番とは檻なのだ。
屋敷に戻ってから、ガルドに娘の過去を調べさせた。王都の大商人ダルク。人間族の母親を番として囲い、母親は心を病んで亡くなったという。
ミレイはその屋敷で、連れ子として育った。
(だから、あんな目をしていたのか)
誰にも縋らないと決めた目。番の匂いを隠し続けた夜。俺に抱きしめられたときの、あの恐怖。
すべてが、ひとつに繋がった。
中庭で「どうして私なんですか」と問われたとき、俺は「わからない」と答えた。嘘ではなかった。
わかっているのは、ただ一つ。俺は、あの娘でなければだめなのだ。
番の本能は、今すぐ奪えと叫んでいる。けれど俺は、ダルクと同じにはならない。
(奪わない。あの娘の心が、俺を選ぶまで)
ただし——もう二度と、手の届かない場所へは行かせない。
矛盾していることはわかっていた。それでも、これが俺の選んだ道だった。
「旦那様。お知らせが二つございます」
ある朝、ガルドが二通の書状を持って執務室に入ってきた。
「一つは、ラグナ公爵家から。ご令嬢のヴィオラ様が、番候補として当家をご訪問なさりたいと」
「断れ」
「すでに王都を発たれたそうです」
俺は眉ひとつ動かさずに、もう一通を受け取った。
「もう一つは、王都の商人ギルドからの報告です。……大商人ダルクの手の者が、栗色の髪の人間族の娘を探して、北へ向かっていると」
書状を握る指に、力がこもった。
窓の外では、何も知らないミレイが、中庭を横切っていくところだった。




