【第二章】二十年目の番(ゼルキウス視点)
八歳の春、俺は初めて「番」の気配を感じた。
黒豹の一族に生まれた者は、幼いうちに己の番がこの世のどこかにいると知る。胸の奥に、ぽっかりと空いた穴のようなものが生まれるのだ。
その穴は、番を見つけたときに初めて埋まるのだという。
「焦らずともよい。いずれ、匂いがお前を導くだろう」
父はそう言って笑った。父も母も、互いを番として選び合った獣人だった。
だが、俺の番は見つからなかった。
十年が過ぎ、父が亡くなり、俺は辺境伯の座を継いだ。夜会に出れば、令嬢たちが香水をまとって寄ってくる。そのどれからも、胸の穴を埋める匂いはしなかった。
「番も見つけられぬ、欠けた辺境伯」
いつしか、陰でそう囁かれるようになった。
期待するたびに、失望した。新しい土地を訪れるたびに、すれ違う人々の匂いを探して、何も見つからずに帰ってくる。
それを何度も繰り返すうちに、俺は期待すること自体をやめた。
感情を動かさなければ、失望もしない。
そうして気づけば、二十年が経っていた。人は俺を「氷の黒豹」と呼ぶ。それで構わなかった。
あの日のことは、よく覚えている。
「本日より侍女として勤めます、ミレイと申します。よろしくお願いいたします」
執務室に入ってきたのは、栗色の髪の小柄な娘だった。人間族。王都の方から来たと、ガルドから聞いていた。
深く下げられた頭が、ゆっくりと上がる。
目が合った瞬間、なぜか呼吸を忘れた。
匂いは、何もしなかった。胸の穴も、少しも疼かなかった。
それなのに、目が離せなかった。
娘の瞳は、張りつめていた。怯えているのに、決して誰にも縋らないと決めた者の目だった。
まるで、ひとりで冬を越そうとしている小さな獣のように。
(……なんだ、これは)
自分でもわからない何かが、氷の底でかすかに軋んだ。
「……下がれ」
口から出たのは、それだけだった。娘は弾かれたように頭を下げて、執務室を出ていった。
扉が閉まる直前、小さな背中が見えた。俺はその背中を、ほんの少しだけ長く見つめていた。
番ではない。番であれば、匂いでわかるはずだ。
そう言い聞かせて、俺は書類に目を戻した。
それからひと月、俺はあの娘を見ないようにしていた。
見ないようにしていた、はずだった。
廊下ですれ違えば、娘は必ず壁際に寄って、深く頭を下げる。俺が通り過ぎるまで、決して顔を上げない。
他の使用人には、あんなふうに笑うくせに。
厨房から、ロッタの弾んだ声が聞こえたことがある。
「ミレイちゃんのお茶を飲むようになってから、腰がずいぶん楽なのよ」
ロッタの腰痛のことなど、俺でさえ気づいていなかった。あの娘は、来て間もないうちにそれを見抜いて、何も言わずに茶葉を変えていたのだ。
ある日には、廊下の角で、娘が割れた皿の破片を拾い集めていた。割ったのは、別の若い侍女だった。泣きそうな顔で謝る同僚に、娘は「大丈夫。私が片付けておくから」と笑っていた。
そして誰にも告げ口せず、破片をそっと布に包んで捨てに行った。
(なぜ、俺はこんなことばかり考えている)
執務の合間に、気づけば窓の外を探している。洗濯物を干す小さな背中を。中庭を横切る栗色の髪を。
ある晩、眠れずに中庭へ出たときのことだ。
夜空を見上げていると、背後の柱の陰に、人の気配があった。足音を殺した、小さな気配。
振り返らなくても、誰なのかわかった。
声をかけるべきか迷っているうちに、気配は静かに去っていった。
俺はその夜、明け方まで中庭に立っていた。
その日、回廊を歩いていると、裏庭から笑い声が聞こえた。
足を止めて、柱の陰から裏庭を見る。白いシーツがはためく向こうで、あの娘が笑っていた。
隣にいたのは、庭師のエリクだった。
「僕も、ミレイさんと話すのが楽しみで——」
その言葉を聞いた瞬間、腹の底が、焼けるように熱くなった。
知らない感情だった。二十年凍らせてきたものが、一瞬で煮え立つような。
理由はわからない。ただ、あの笑顔が、俺以外の誰かに向けられていることが、どうしようもなく許せなかった。
「エリク」
気づけば、声が出ていた。
東の森の柵の話をすると、エリクは青ざめて走り去っていった。追いかけてきたガルドが、何か言いたげな顔で俺を見ている。
「今日だ」
それだけ告げて、踵を返した。娘の顔は、見なかった。見れば、もっと何かを口にしてしまいそうだった。
執務室に戻ると、ガルドが後から入ってきて、静かに扉を閉めた。
「……旦那様。差し出がましいようですが」
「言うな」
「あの娘を、番だとお考えなのでは」
俺は答えなかった。
匂いはしない。胸の穴も疼かない。番であるはずがない。
それなのに、なぜこんなにも、あの娘のことばかり考えてしまうのか。
(わからない。……わからないまま、俺はどうすればいい)
窓の外では、北の空に重たい雲が広がり始めていた。
十日後、季節外れの嵐がやってくる。
そして、あの夜。
廊下の向こうから、二十年探し続けた匂いが、ふわりと漂ってくることになる。




