静かな嫉妬
侍女の仕事に戻って、十日が過ぎた。
そして私は、この十日間ずっと、心の中で叫び続けている。
(番として扱わないって、約束したのに……!)
まず、仕事の配置がおかしい。
厨房の手伝いも、洗濯物の取り込みも、なぜか私の担当から外された。代わりに任されたのは、執務室の掃除と、旦那様へのお茶出しと、書庫の整理。
どれも、ゼルキウス様の執務室のすぐそばだ。
「ロッタさん、私も厨房のお手伝いに戻りたいんですけど……」
「ごめんなさいねえ。旦那様が『目の届く場所』っておっしゃったでしょう?」
ロッタさんは困ったように笑うけれど、その耳はなぜか楽しげに揺れていた。
それだけではない。
午後の休憩になると、侍女用の控え室に、焼き菓子が置かれるようになった。蜂蜜をたっぷり使った、木の実入りのクッキー。
母がよく焼いてくれたものに、少しだけ似ている。
「料理長、これは……?」
「旦那様のご指示だ。ミレイが甘いものを好むらしいからと」
(私、甘いものが好きなんて、誰にも話していないのに)
ある肌寒い朝には、部屋の扉の前に、柔らかな羊毛の肩掛けが置かれていた。添えられた紙には、几帳面な字で一言だけ。
『朝は冷える』
(……これのどこが、侍女の扱いなの)
肩掛けを手に取ったまま、私はしばらく動けなかった。
温かい。けれど、その温かさが怖い。
ダルクも最初は、母に高価な絹のドレスや宝石を贈っていた。母がそれを身につけなくなったとき、あの人は贈り物の代わりに、部屋の鍵を増やしたのだ。
(物で心は買えない。私は、絶対にほだされたりしない)
私は肩掛けを丁寧にたたんで、衣装箪笥の奥にしまい込んだ。
その日の午後、書庫から戻る途中の回廊で、懐かしい声に呼び止められた。
「ミレイさん!」
振り返ると、庭師のエリクさんが駆け寄ってくるところだった。日焼けした顔に、人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「エリクさん! 東の柵の修繕、終わったんですか?」
「ええ、ようやく。いやあ、大変でしたよ。片道半日かかるんですから」
エリクさんは苦笑して、背中に隠していた手を差し出した。小さな野の花の束だった。
「帰り道で見つけたんです。ミレイさんが無事に戻ったって聞いて、何か渡したくて」
「わあ……綺麗」
薄紫の可憐な花。受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
背筋を、ひやりと冷たいものが撫でた。
「エリク」
低く、静かな声。
回廊の先に、ゼルキウス様が立っていた。いつの間に現れたのだろう。足音ひとつ聞こえなかった。
金色の瞳が、エリクさんの手の中の花束に向けられている。表情は、いつもと何も変わらない。それなのに、回廊の空気がみるみる凍りついていく。
「だ、旦那様……!」
「柵の修繕、ご苦労だった」
「は、はい!」
「ついでに、西の森の境界も見てこい。あちらの柵も古い」
エリクさんの顔から、さあっと血の気が引いた。
「に、西の森は……片道一日かかりますが……」
「だからどうした」
それだけだった。怒鳴るでも、睨むでもなく、ただ淡々と。
けれども、その一言に、エリクさんの垂れ耳がぺたんと伏せられた。
「……行って参ります」
花束を持ったまま、エリクさんはとぼとぼと去っていった。
入れ替わるように、ガルドさんが小走りでやってくる。
「だ、旦那様。恐れながら……庭師が一人でも欠けると、庭が荒れます」
「代わりを雇え」
「エリクは腕のいい庭師でして……」
「ならば、なおさら柵の修繕も上手いだろう」
ガルドさんは額の汗を拭いながら、天井を仰いだ。
(あの……エリクさん、何も悪いことしてないのに)
私は思わず口を開きかけて、ゼルキウス様と目が合った。
「お前は……」
静かな声が、私に向けられる。
「あの花が、欲しかったか」
「え……?」
「欲しかったのなら、取り戻してくる」
(そういう問題じゃないです……!)
心の中で叫びながら、私は首を横に振った。
「い、いえ。結構です」
「そうか」
ゼルキウス様は短く答えて、執務室へ戻っていった。
その背中を見送りながら、私はふと、引っかかるものを感じていた。
ゼルキウス様は、いつも私に尋ねる。
部屋を移されたときも、「気に入らないか」と。休憩の焼き菓子も、二日目には「他に好きなものはあるか」と料理長を通して聞かれた。
そして今日も、「欲しかったか」と。
(ダルクは……一度も、お母さんに聞かなかった)
何が好きか。どうしたいか。ここにいたいか。
あの人は、母の答えを一度も必要としなかった。
(でも、だからって何なの。聞いてくれるからって、結局は全部あの方の思い通りじゃない)
私は頭を振って、浮かびかけた考えを追い払った。
その夜、なかなか寝つけなくて、私は水を飲みに中庭へ下りた。
月明かりの下に、黒い人影が立っていた。
(……また、ここにいる)
ひと月前と同じように、ゼルキウス様は静かに夜空を見上げていた。
引き返そうとした私の足音に、黒い耳がぴくりと動く。
「眠れないのか」
振り返らずに、静かな声が尋ねた。
逃げるのも癪で、私は柱の陰から一歩だけ前に出た。
「……旦那様。一つ、お聞きしてもいいですか」
「ああ」
「どうして、私なんですか」
ゼルキウス様が、ゆっくりとこちらを振り向く。
「番だから、ですか。匂いがしたから、ですか。それなら、私じゃなくてもよかったはずです」
声が震えないように、強く拳を握った。
沈黙が落ちた。夜風が、中庭の木々を揺らしていく。
やがて、ゼルキウス様が静かに口を開いた。
「匂いは、関係ない」
「え……?」
「初めてお前が執務室に来た日。あのとき、匂いなど何もしなかった」
金色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「それでも、目が離せなかった。……二十年、誰を見ても何も感じなかったというのに」
思いがけない言葉に、息が止まった。
(初めて会った日……? あのとき、旦那様は私に興味なんてなさそうだったのに)
「……どうしてですか」
「わからない」
ゼルキウス様は、ほんの少しだけ視線を落とした。いつも揺るがない人が、初めて言葉を探しているように見えた。
「なぜお前だったのか。なぜお前が、俺の番なのか。……俺にも、わからない」
月明かりの下で、低い声がかすかに揺れる。
「だから、知りたい。お前のことを」
胸の奥が、小さく揺れた。
(……だめ。信じちゃだめ)
私は慌てて、その揺れを押し込めた。
匂いがしなくても惹かれた。そんなの、後からならいくらでも言える。ダルクだって、母に「お前でなければだめなんだ」と何度も言っていた。
言葉が本物かどうかなんて、私には確かめようがない。
「……私には、わかりません」
絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「旦那様にわからないことが、私にわかるはずありません。おやすみなさいませ」
深く頭を下げて、私は足早に中庭を後にした。
背中に、静かな視線を感じる。追いかけてくる足音は、聞こえなかった。
部屋に戻って扉を閉めても、耳の奥に、あの揺れた声が残っていた。
——二十年、誰を見ても何も感じなかったというのに。
(……そんなの、私には関係ない)
布団を頭までかぶって、私は固く目を閉じた。
また明日更新します。次はゼルキウス視点になります。




