第4話 条件
帰りの馬車の中は、息が詰まるほど静かだった。
向かいの座席に、ゼルキウス様が座っている。長い脚を窮屈そうに折りたたみ、窓の外に目を向けたまま、もう半刻も何も言わない。
私は膝の上で両手を握りしめていた。
(逃げられなかった。三日もかけて、あんなに必死に逃げたのに)
国境の橋のたもとで名前を呼ばれたとき、私の足はもう一歩も動かなかった。三日分の疲れが、一気に押し寄せてきたせいだ。そうに決まっている。
馬車が大きく揺れて、私は思わず座席の端を掴んだ。
その瞬間、向かいから伸びてきた手が、私の肩をそっと支えた。
「……っ」
びくりと身を竦めると、手はすぐに離れていった。
「すまない」
短い謝罪。ゼルキウス様は何事もなかったように、また窓の外へ視線を戻す。
沈黙に耐えきれなくなって、私は震える声で口を開いた。
「……私を、閉じ込めるおつもりですか」
金色の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
「番だから。匂いでわかったから。だから、私の気持ちなんて関係なく、お屋敷に閉じ込めるんですか」
(ダルクが、お母さんにそうしたみたいに)
最後の言葉は、喉の奥で消えた。
ゼルキウス様は、しばらく黙って私を見つめていた。やがて、いつもと同じ淡々とした声で答える。
「閉じ込めはしない」
「え……」
「逃げたければ、逃げていい」
思いがけない言葉に、私は目を見開いた。けれど、続く一言で、息が止まる。
「……何度でも、迎えに行く」
脅すような響きは、少しもなかった。ただ、事実を告げるように静かな声。
だからこそ、わかってしまった。この人は本気だ。私がどこへ逃げても、きっと必ず見つけ出す。
(逃げ場なんて、最初からなかったんだ)
背筋が冷たくなる。
怒鳴って、力ずくで引きずっていったダルクのほうが、まだわかりやすかった。この人は、静かな声のまま、私の逃げ道をすべて奪っていく。
(優しい言葉で縛るなんて……ダルクより、ずっと怖い)
私は膝の上の手を、さらに強く握りしめた。
屋敷に着いたのは、翌日の夕暮れだった。
「ミレイちゃん……!」
馬車を降りた途端、ロッタさんが駆け寄ってきて、私をぎゅっと抱きしめた。
「心配したのよ、本当に……! 手紙なんて置いていって、もう……!」
「ごめんなさい、ロッタさん……ごめんなさい」
ふわふわの兎の耳が、私の頬に触れる。ロッタさんの肩が震えているのに気づいて、私の目にも涙が滲んだ。
(こんなに心配してくれる人がいたのに。私、何も言わずに逃げたんだ)
その後ろで、ガルドさんが大きく息を吐いていた。
「……無事で何よりだ。旦那様、少しはお休みください。この三日、ほとんど眠っておられないでしょう」
「余計なことを言うな」
ゼルキウス様は表情ひとつ変えずに、屋敷の中へ入っていった。
(眠っていない……? 私を探していたから?)
一瞬だけ胸がざわついて、私はすぐに首を横に振った。
(違う。あの方が欲しいのは私じゃない。ようやく見つけた「番」を、逃がしたくなかっただけ)
ダルクだってそうだった。母がいなくなれば血眼になって探したけれど、母の心が欲しかったわけじゃない。
「さあ、ミレイちゃん。今日からはこっちのお部屋よ」
ロッタさんに案内されたのは、屋根裏ではなく、二階の日当たりのいい客間だった。
大きな窓に、花模様のカーテン。ふかふかの寝台に、真新しい鏡台まで置いてある。
「ま、待ってください! 私は侍女です。こんな立派なお部屋、使えません!」
「旦那様のご指示なのよ。屋根裏は冬になると冷えるからって」
(冷えるって……ひと月前は、何も言われなかったのに)
綺麗な部屋を見回すほどに、胸が苦しくなる。母が連れて行かれた屋敷にも、こんなふうに美しい部屋が用意されていた。
困り果てていると、廊下から靴音が近づいてきた。開いたままの扉の前に、ゼルキウス様が立つ。
「気に入らないか」
「そ、そういうことではなくて……!」
私は深く息を吸って、まっすぐに顔を上げた。言わなければ。ここで流されたら、きっと私はお母さんと同じになる。
「旦那様。お願いがあります」
「なんだ」
「私を、これまで通り侍女として働かせてください。番として扱わないでください」
ロッタさんが息を呑む気配がした。
ゼルキウス様は表情を変えなかった。けれど、ほんの一瞬だけ、金色の瞳が揺れたように見えた。
「……わかった」
長い沈黙の後、低い声が答える。
「ただし、一つだけ条件がある」
「条件……?」
「俺の目の届く場所で働け」
(それって、結局……監視するってことじゃない)
言い返そうとして、言葉に詰まる。働かせてもらえるのなら、今はそれでいい。私は唇を噛んで頷いた。
「……はい」
その夜、私は鞄の底から母の手帳を取り出した。
匂い消しの薬草茶。あれさえ飲めば、また匂いを隠せる。そうすれば、あの方も少しは冷静になって、私への興味を失ってくれるかもしれない。
翌朝、私は厨房へ向かう途中でガルドさんを呼び止めた。
「ガルドさん。麓の薬屋さんに、薬草の注文をお願いしたいんです」
「ああ……それなんだが」
ガルドさんは、気まずそうに目を逸らした。
「あの薬草は、もう手に入らないそうだ」
「え……?」
「すまない。詳しいことは、俺にもわからないんだ」
それだけ言うと、ガルドさんはそそくさと足早に去っていった。
廊下にひとり取り残されて、私は手帳を胸に抱きしめた。
(どうして……。お母さんが遺してくれた、たった一つの盾だったのに)
嵐のせいだろうか。それとも、もともと珍しい薬草だったのだろうか。考えても、答えは出なかった。
窓の外を見ると、中庭の向こうの執務室に、黒い人影が見えた。
あの方は、今日も私の「目の届く場所」にいる。
(それでも、負けない)
この屋敷で働くことは受け入れた。けれど、心まで渡すつもりはない。
(私は、お母さんと同じにはならない)




