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【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


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3/17

逃げる侍女と、網を張る黒豹

 屋根裏の扉に鍵をかけて、私は震える手で荷物をまとめた。


 着替えと、わずかな給金。それから、母の手帳。ひと月前にこの屋敷へ来たときと、何ひとつ変わらない小さな鞄。


(早く。あの方が追ってくる前に)


 机の上に、ロッタさんへの手紙を残した。


『突然いなくなって、ごめんなさい。ここで過ごした日々は、私の宝物です。本当にありがとうございました』


 インクが滲んだのは、きっと手が震えていたせいだ。


 使用人用の裏口から、夜の闇へ滑り出る。嵐の名残の冷たい風が、頬を打った。


 振り返ると、屋敷の窓にはいくつも明かりが灯っていた。廊下を行き交う足音も聞こえる。けれど不思議なことに、誰かが私を呼ぶ声は、一度も聞こえなかった。


 南の街道は、まだ土砂で塞がれている。私は西の古い峠道を選んで、夜通し歩き続けた。

 

 

 

 夜明け前、峠の麓で一台の荷馬車に追いついた。


「こんな時間に、娘さんがひとりで?」


 御者台から顔を出したのは、人の好さそうな熊獣人の行商人だった。


「西の町まで、乗せていただけませんか。お代はお支払いします」

「お代なんていらんよ。ほら、荷台の隅でよければ」


 荷台に揺られながら、私は外套のフードを深く被った。

 薬草茶は、もう一杯も残っていない。私の匂いは、きっと今もこの体からこぼれ続けている。

 獣人の鼻には、どんなふうに感じられるのだろう。行商人の主人が何も言わないのが、せめてもの救いだった。


(番なんて、運命なんかじゃない)


 膝を抱えて、何度も自分に言い聞かせる。


(あの方だって、きっとダルクと同じ。匂いひとつで私を決めつけて、閉じ込めて、私の言葉なんて聞いてくれない)


 ——やっと……やっと、見つけた。


 耳元で落ちた、掠れた声がよみがえる。あの氷のような人が、どうしてあんなに震えていたのだろう。


(考えちゃだめ。忘れなきゃ)


 私は強く目を閉じた。

 

 

 

 その頃、辺境伯邸の執務室では、ゼルキウスが静かに地図を広げていた。


「旦那様。ミレイの部屋に、ロッタ宛ての手紙が」

「わかっている」


 ガルドの報告に、ゼルキウスは顔も上げずに答えた。

 机の上には、領内と周辺の街道を記した地図。その上に、黒豹の紋章が刻まれた封蝋がいくつも並んでいる。


「南の街道は塞がっている。ならば西の峠だ。峠の先の町、そこから先の関所、商人ギルド。すべてに伝令を出せ」

「……捕らえるのですか」

「いや」


 ゼルキウスはようやく顔を上げた。金色の瞳は、恐ろしいほど静かだった。


「手を出すことは許さない。居場所を知らせるだけでいい。怯えさせるな。決して傷ひとつ、つけてはならぬ」


 淡々とした声。けれどガルドは、主人の握りしめた指先が白くなっていることに気づいていた。


「それと、薬屋の主人を呼べ。あれが飲んでいた薬草茶の中身を知りたい」

 

 

 

 西の町に着いたのは、昼過ぎだった。


「ありがとうございました!」

「気をつけてな、娘さん」


 行商人の主人と別れて、私は安宿を探した。ここから乗合馬車で国境の街へ向かえば、あとは隣国まですぐだ。

 ところが、宿の受付で銅貨を出した瞬間、主人の目が私の顔に留まった。


「……お嬢さん、もしや北のお屋敷の侍女さんじゃないかね」

「え……?」

「今朝、辺境伯様の早馬が来てね。人間族の、栗色の髪の娘さんを見かけたら知らせるようにって」


 心臓が、どくんと跳ねた。


「あ、いえ、人違いです!」


 私は銅貨を握りしめたまま、宿を飛び出した。


 広場の掲示板を見て、足が止まる。黒豹の紋章が押された告示が、真新しい紙で貼り出されていた。

 商人ギルドの前にも。乗合馬車の停留所にも。


(嘘でしょう……たった一晩で、どうやって)


 町の外へ出る門には、衛兵が立っていた。私を見ると、なぜか丁寧に頭を下げてくる。止められはしない。けれど、その目が静かに私の行き先を追っているのがわかった。

 まるで、見えない網の中を泳がされているみたいだった。

 

 

 

 それでも私は逃げた。乗合馬車を乗り継ぎ、夜は納屋の隅で眠り、三日かけて国境の街へたどり着いた。

 隣国へ続く橋が、夕陽の向こうに見える。あの橋を渡れば、辺境伯の権限は届かない。


(あと少し。あと少しで、自由になれる)


 ふらつく足で、橋のたもとへ向かう。そのとき、目の前に影が落ちた。


 見上げた先に、黒髪の長身が立っていた。


 夕陽を背にして、金色の瞳が、まっすぐ私を見下ろしている。追手も、騎士も連れていない。たったひとりで、ゼルキウス様はそこにいた。


「……どうして」


 声が掠れた。逃げなきゃ、と思うのに、足が地面に縫いつけられたように動かない。


 ゼルキウス様は、無理に近づこうとはしなかった。


一歩手前で立ち止まり、静かに私の名を呼ぶ。


「迎えに来た。……ミレイ」


 いつもと同じ、低く淡々とした声。

 けれど私の名前を呼ぶその響きだけが、かすかに震えていた。

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