逃げる侍女と、網を張る黒豹
屋根裏の扉に鍵をかけて、私は震える手で荷物をまとめた。
着替えと、わずかな給金。それから、母の手帳。ひと月前にこの屋敷へ来たときと、何ひとつ変わらない小さな鞄。
(早く。あの方が追ってくる前に)
机の上に、ロッタさんへの手紙を残した。
『突然いなくなって、ごめんなさい。ここで過ごした日々は、私の宝物です。本当にありがとうございました』
インクが滲んだのは、きっと手が震えていたせいだ。
使用人用の裏口から、夜の闇へ滑り出る。嵐の名残の冷たい風が、頬を打った。
振り返ると、屋敷の窓にはいくつも明かりが灯っていた。廊下を行き交う足音も聞こえる。けれど不思議なことに、誰かが私を呼ぶ声は、一度も聞こえなかった。
南の街道は、まだ土砂で塞がれている。私は西の古い峠道を選んで、夜通し歩き続けた。
夜明け前、峠の麓で一台の荷馬車に追いついた。
「こんな時間に、娘さんがひとりで?」
御者台から顔を出したのは、人の好さそうな熊獣人の行商人だった。
「西の町まで、乗せていただけませんか。お代はお支払いします」
「お代なんていらんよ。ほら、荷台の隅でよければ」
荷台に揺られながら、私は外套のフードを深く被った。
薬草茶は、もう一杯も残っていない。私の匂いは、きっと今もこの体からこぼれ続けている。
獣人の鼻には、どんなふうに感じられるのだろう。行商人の主人が何も言わないのが、せめてもの救いだった。
(番なんて、運命なんかじゃない)
膝を抱えて、何度も自分に言い聞かせる。
(あの方だって、きっとダルクと同じ。匂いひとつで私を決めつけて、閉じ込めて、私の言葉なんて聞いてくれない)
——やっと……やっと、見つけた。
耳元で落ちた、掠れた声がよみがえる。あの氷のような人が、どうしてあんなに震えていたのだろう。
(考えちゃだめ。忘れなきゃ)
私は強く目を閉じた。
その頃、辺境伯邸の執務室では、ゼルキウスが静かに地図を広げていた。
「旦那様。ミレイの部屋に、ロッタ宛ての手紙が」
「わかっている」
ガルドの報告に、ゼルキウスは顔も上げずに答えた。
机の上には、領内と周辺の街道を記した地図。その上に、黒豹の紋章が刻まれた封蝋がいくつも並んでいる。
「南の街道は塞がっている。ならば西の峠だ。峠の先の町、そこから先の関所、商人ギルド。すべてに伝令を出せ」
「……捕らえるのですか」
「いや」
ゼルキウスはようやく顔を上げた。金色の瞳は、恐ろしいほど静かだった。
「手を出すことは許さない。居場所を知らせるだけでいい。怯えさせるな。決して傷ひとつ、つけてはならぬ」
淡々とした声。けれどガルドは、主人の握りしめた指先が白くなっていることに気づいていた。
「それと、薬屋の主人を呼べ。あれが飲んでいた薬草茶の中身を知りたい」
西の町に着いたのは、昼過ぎだった。
「ありがとうございました!」
「気をつけてな、娘さん」
行商人の主人と別れて、私は安宿を探した。ここから乗合馬車で国境の街へ向かえば、あとは隣国まですぐだ。
ところが、宿の受付で銅貨を出した瞬間、主人の目が私の顔に留まった。
「……お嬢さん、もしや北のお屋敷の侍女さんじゃないかね」
「え……?」
「今朝、辺境伯様の早馬が来てね。人間族の、栗色の髪の娘さんを見かけたら知らせるようにって」
心臓が、どくんと跳ねた。
「あ、いえ、人違いです!」
私は銅貨を握りしめたまま、宿を飛び出した。
広場の掲示板を見て、足が止まる。黒豹の紋章が押された告示が、真新しい紙で貼り出されていた。
商人ギルドの前にも。乗合馬車の停留所にも。
(嘘でしょう……たった一晩で、どうやって)
町の外へ出る門には、衛兵が立っていた。私を見ると、なぜか丁寧に頭を下げてくる。止められはしない。けれど、その目が静かに私の行き先を追っているのがわかった。
まるで、見えない網の中を泳がされているみたいだった。
それでも私は逃げた。乗合馬車を乗り継ぎ、夜は納屋の隅で眠り、三日かけて国境の街へたどり着いた。
隣国へ続く橋が、夕陽の向こうに見える。あの橋を渡れば、辺境伯の権限は届かない。
(あと少し。あと少しで、自由になれる)
ふらつく足で、橋のたもとへ向かう。そのとき、目の前に影が落ちた。
見上げた先に、黒髪の長身が立っていた。
夕陽を背にして、金色の瞳が、まっすぐ私を見下ろしている。追手も、騎士も連れていない。たったひとりで、ゼルキウス様はそこにいた。
「……どうして」
声が掠れた。逃げなきゃ、と思うのに、足が地面に縫いつけられたように動かない。
ゼルキウス様は、無理に近づこうとはしなかった。
一歩手前で立ち止まり、静かに私の名を呼ぶ。
「迎えに来た。……ミレイ」
いつもと同じ、低く淡々とした声。
けれど私の名前を呼ぶその響きだけが、かすかに震えていた。




