薬草が切れた夜
辺境伯邸で働き始めて、ひと月が過ぎた。
朝は厨房でパンを焼く手伝いをして、昼は客間と廊下を磨き上げる。夕方には洗濯物を取り込んで、夜は屋根裏で薬草茶を一杯。
そんな毎日が、驚くほど穏やかに過ぎていった。
「ミレイちゃんの淹れるお茶、本当に美味しいわねえ」
「母に教わったんです。疲れが取れる薬草を少しだけ混ぜていて」
「まあ、それで最近、腰の調子がいいのね」
ロッタさんが嬉しそうに耳を揺らす。誰かに喜んでもらえるのが、こんなに温かいことだなんて知らなかった。
(あのお屋敷では、私はいつも「連れ子」だったから)
ここでは、誰も私を厄介者扱いしない。それだけで、毎日がとても眩しかった。
ゼルキウス様とは、相変わらずほとんど顔を合わせない。たまに廊下ですれ違っても、あの方は表情ひとつ変えずに通り過ぎていく。
私も深く頭を下げて、足音を立てないように壁際へ寄る。
けれど、ひと月も同じ屋敷で暮らしていれば、少しずつ見えてくるものもあった。
ゼルキウス様は、決して声を荒げない。使用人が皿を割っても、書類を取り違えても、淡々と「次は気をつけろ」と告げるだけだ。理不尽に罰を与えられた人は、この屋敷に一人もいないという。
執務室の明かりは、いつも夜更けまで消えなかった。領地の見回りにも自ら馬を出し、魔物が出たと聞けば、騎士たちより先に森へ向かうらしい。
「旦那様はね、ああ見えて領民思いのお方なのよ」
ロッタさんはそう言って笑っていた。
(……冷たい人だと思っていたけれど、ちょっと違うのかもしれない)
ある晩、水を汲みに中庭へ下りたとき、月明かりの下に佇むゼルキウス様の姿を見かけたことがある。
誰もいない庭で、あの方はただ静かに夜空を見上げていた。黒髪が夜風に揺れて、細い背中がひどく遠く見えた。
声をかけることなんて、もちろんできなかった。けれど、その横顔がなんだか寂しそうに見えて、私はしばらく柱の陰から動けなかった。
「旦那様はね、二十年も番を探していらっしゃるの」
後でロッタさんが、そっと教えてくれた。
(番……)
胸の奥が、ちくりと冷たくなる。
あの方も、獣人だ。いつか番を見つけたら、きっとダルクと同じように、その人を囲い込むのだろう。
(関わらないようにしよう。私は、ただの侍女なんだから)
美しくて、静かで、どこか寂しげな人。けれど、私にとっては一番近づいてはいけない人。
だから私は今日も、あの方とすれ違うたびに、深く頭を下げて壁際へ寄るのだった。
その日の午後、私は裏庭で洗濯物を干していた。
「ミレイさん、手伝いますよ」
声をかけてくれたのは、庭師のエリクさんだ。茶色い垂れ耳の犬獣人で、私と同じくらいの年の青年。人懐っこくて、よく花の名前を教えてくれる。
「ありがとうございます。でも、エリクさんもお仕事中じゃ」
「花壇の水やりは終わりましたから。ほら、そっちの端を持ってください」
大きなシーツを二人で広げる。風にはためく白い布の向こうで、エリクさんが笑った。
「ミレイさんが来てから、屋敷の空気が明るくなったって、みんな言ってますよ」
「そ、そんなことないです!」
「本当ですって。僕も、ミレイさんと話すのが楽しみで——」
ふいに、エリクさんの言葉が止まった。
背筋に、ひやりとした冷気が走る。振り返ると、回廊の柱の陰に、黒い影が立っていた。
ゼルキウス様だった。
いつからそこにいたのだろう。金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。いいえ、正確には——私の隣にいる、エリクさんを。
「エリク」
低く、静かな声だった。怒鳴られたわけでもないのに、エリクさんの垂れ耳がぴんと強張る。
「は、はいっ!」
「東の森の境界で、柵が傷んでいるそうだ。今日中に直してこい」
「きょ、今日中ですか? あそこは片道だけで——」
「聞こえなかったか」
淡々とした口調のまま、ゼルキウス様が一歩だけ近づく。それだけで、裏庭の空気が凍りついた気がした。
「た、ただちに!」
エリクさんは転がるように走り去っていった。後ろから、ガルドさんが慌てた様子で追いついてくる。
「だ、旦那様……東の柵の修繕は、来週の予定では」
「今日だ」
ゼルキウス様はそれだけ言うと、私には一瞥もくれずに踵を返した。
残されたガルドさんが、額の汗をハンカチで拭っている。
「……ミレイ。お前、何かしたのか」
「い、いえ、何も……!」
(私、何か旦那様の機嫌を損ねるようなことをしたかな……? 洗濯物を干す場所が悪かった?)
首をかしげる私の横で、ガルドさんは深いため息をついていた。
異変が起きたのは、それから十日後のことだった。
北の街道に、季節外れの大嵐が来た。土砂崩れで道が塞がれ、麓の町から荷馬車が届かなくなったのだ。
「ミレイちゃんが頼んでいた薬草も、しばらくは届かないみたいねえ」
ロッタさんの言葉に、血の気が引いた。
匂い消しの薬草は、この辺りの森には生えていない。麓の薬屋から、少しずつ取り寄せていたものだ。
手持ちを確かめると、残りはたった一回分だった。
(大丈夫。道が直るまで、せいぜい数日。それくらいなら、きっと平気)
そう自分に言い聞かせて、その夜、最後の一杯を飲み干した。
次の日から、体が少しずつおかしくなった。
頬が熱い。胸の奥がざわざわと落ち着かない。まるで、閉じ込めていた何かが、内側から溢れ出そうとしているみたいだった。
(気のせい。気のせいよ。部屋で大人しくしていれば——)
けれど、仕事を休むわけにはいかない。私は熱っぽい体を引きずって、いつも通り廊下の掃除を続けた。
日が暮れて、燭台に火が灯る頃。最後の廊下を拭き終えて、私は雑巾を絞っていた。
コツ、と靴音が響いた。
顔を上げると、廊下の向こうからゼルキウス様が歩いてくるところだった。いつものように、私は壁際に寄って頭を下げる。
(早く通り過ぎて……お願い)
靴音が近づいてくる。三歩、二歩、一歩——そして、私の目の前で、ぴたりと止まった。
「……っ」
息を呑む音が聞こえた。驚いて顔を上げると、あの金色の瞳が、大きく見開かれていた。
氷のようだった瞳が、揺れている。いつも静かに引き結ばれていた唇が、わずかに震えている。
「お前……この、匂いは」
次の瞬間、強い力で腕を引かれた。
気づけば、私はゼルキウス様の腕の中にいた。細身なのに、驚くほど力強い腕。首筋に、熱い吐息が触れる。
「やっと……やっと、見つけた」
掠れた声が、耳元で落ちた。
「見つけた。……もう、二度と離さない」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
——匂いでわかる。お前は俺の番だ。
母の手首を掴んだ、ダルクの大きな手。泣きながら連れて行かれる母の背中。窓辺で外ばかり見ていた、あの寂しそうな横顔。
(嫌だ。嫌だ、嫌だ……!)
「離して……っ、離してください!」
私は渾身の力で、ゼルキウス様の胸を突き飛ばした。腕が緩んだ隙に身をよじり、転がるように駆け出す。
「ミレイ!」
背後で、初めて名前を呼ばれた。
けれど私は振り返らなかった。振り返ったら、きっともう逃げられない。
屋根裏へ続く階段を駆け上がりながら、私は唇を噛みしめた。
(私は、お母さんと同じにはならない)




