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【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


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2/17

薬草が切れた夜

 辺境伯邸で働き始めて、ひと月が過ぎた。


 朝は厨房でパンを焼く手伝いをして、昼は客間と廊下を磨き上げる。夕方には洗濯物を取り込んで、夜は屋根裏で薬草茶を一杯。

 そんな毎日が、驚くほど穏やかに過ぎていった。


「ミレイちゃんの淹れるお茶、本当に美味しいわねえ」

「母に教わったんです。疲れが取れる薬草を少しだけ混ぜていて」

「まあ、それで最近、腰の調子がいいのね」


 ロッタさんが嬉しそうに耳を揺らす。誰かに喜んでもらえるのが、こんなに温かいことだなんて知らなかった。


(あのお屋敷では、私はいつも「連れ子」だったから)


 ここでは、誰も私を厄介者扱いしない。それだけで、毎日がとても眩しかった。


 ゼルキウス様とは、相変わらずほとんど顔を合わせない。たまに廊下ですれ違っても、あの方は表情ひとつ変えずに通り過ぎていく。

 私も深く頭を下げて、足音を立てないように壁際へ寄る。


 けれど、ひと月も同じ屋敷で暮らしていれば、少しずつ見えてくるものもあった。


 ゼルキウス様は、決して声を荒げない。使用人が皿を割っても、書類を取り違えても、淡々と「次は気をつけろ」と告げるだけだ。理不尽に罰を与えられた人は、この屋敷に一人もいないという。


 執務室の明かりは、いつも夜更けまで消えなかった。領地の見回りにも自ら馬を出し、魔物が出たと聞けば、騎士たちより先に森へ向かうらしい。


「旦那様はね、ああ見えて領民思いのお方なのよ」


 ロッタさんはそう言って笑っていた。


(……冷たい人だと思っていたけれど、ちょっと違うのかもしれない)


 ある晩、水を汲みに中庭へ下りたとき、月明かりの下に佇むゼルキウス様の姿を見かけたことがある。

 誰もいない庭で、あの方はただ静かに夜空を見上げていた。黒髪が夜風に揺れて、細い背中がひどく遠く見えた。


 声をかけることなんて、もちろんできなかった。けれど、その横顔がなんだか寂しそうに見えて、私はしばらく柱の陰から動けなかった。


「旦那様はね、二十年も番を探していらっしゃるの」


 後でロッタさんが、そっと教えてくれた。


(番……)


 胸の奥が、ちくりと冷たくなる。


 あの方も、獣人だ。いつか番を見つけたら、きっとダルクと同じように、その人を囲い込むのだろう。


(関わらないようにしよう。私は、ただの侍女なんだから)


 美しくて、静かで、どこか寂しげな人。けれど、私にとっては一番近づいてはいけない人。


 だから私は今日も、あの方とすれ違うたびに、深く頭を下げて壁際へ寄るのだった。



 その日の午後、私は裏庭で洗濯物を干していた。


「ミレイさん、手伝いますよ」


 声をかけてくれたのは、庭師のエリクさんだ。茶色い垂れ耳の犬獣人で、私と同じくらいの年の青年。人懐っこくて、よく花の名前を教えてくれる。


「ありがとうございます。でも、エリクさんもお仕事中じゃ」

「花壇の水やりは終わりましたから。ほら、そっちの端を持ってください」


 大きなシーツを二人で広げる。風にはためく白い布の向こうで、エリクさんが笑った。


「ミレイさんが来てから、屋敷の空気が明るくなったって、みんな言ってますよ」

「そ、そんなことないです!」

「本当ですって。僕も、ミレイさんと話すのが楽しみで——」


 ふいに、エリクさんの言葉が止まった。


 背筋に、ひやりとした冷気が走る。振り返ると、回廊の柱の陰に、黒い影が立っていた。


 ゼルキウス様だった。


 いつからそこにいたのだろう。金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。いいえ、正確には——私の隣にいる、エリクさんを。


「エリク」


 低く、静かな声だった。怒鳴られたわけでもないのに、エリクさんの垂れ耳がぴんと強張る。


「は、はいっ!」

「東の森の境界で、柵が傷んでいるそうだ。今日中に直してこい」

「きょ、今日中ですか? あそこは片道だけで——」

「聞こえなかったか」


 淡々とした口調のまま、ゼルキウス様が一歩だけ近づく。それだけで、裏庭の空気が凍りついた気がした。


「た、ただちに!」


 エリクさんは転がるように走り去っていった。後ろから、ガルドさんが慌てた様子で追いついてくる。


「だ、旦那様……東の柵の修繕は、来週の予定では」

「今日だ」


 ゼルキウス様はそれだけ言うと、私には一瞥もくれずに踵を返した。

 残されたガルドさんが、額の汗をハンカチで拭っている。


「……ミレイ。お前、何かしたのか」

「い、いえ、何も……!」


(私、何か旦那様の機嫌を損ねるようなことをしたかな……? 洗濯物を干す場所が悪かった?)


 首をかしげる私の横で、ガルドさんは深いため息をついていた。




 異変が起きたのは、それから十日後のことだった。


 北の街道に、季節外れの大嵐が来た。土砂崩れで道が塞がれ、麓の町から荷馬車が届かなくなったのだ。


「ミレイちゃんが頼んでいた薬草も、しばらくは届かないみたいねえ」


 ロッタさんの言葉に、血の気が引いた。

 匂い消しの薬草は、この辺りの森には生えていない。麓の薬屋から、少しずつ取り寄せていたものだ。

 手持ちを確かめると、残りはたった一回分だった。


(大丈夫。道が直るまで、せいぜい数日。それくらいなら、きっと平気)


 そう自分に言い聞かせて、その夜、最後の一杯を飲み干した。


 次の日から、体が少しずつおかしくなった。


 頬が熱い。胸の奥がざわざわと落ち着かない。まるで、閉じ込めていた何かが、内側から溢れ出そうとしているみたいだった。


(気のせい。気のせいよ。部屋で大人しくしていれば——)


 けれど、仕事を休むわけにはいかない。私は熱っぽい体を引きずって、いつも通り廊下の掃除を続けた。

 日が暮れて、燭台に火が灯る頃。最後の廊下を拭き終えて、私は雑巾を絞っていた。


 コツ、と靴音が響いた。


 顔を上げると、廊下の向こうからゼルキウス様が歩いてくるところだった。いつものように、私は壁際に寄って頭を下げる。


(早く通り過ぎて……お願い)


 靴音が近づいてくる。三歩、二歩、一歩——そして、私の目の前で、ぴたりと止まった。


「……っ」


 息を呑む音が聞こえた。驚いて顔を上げると、あの金色の瞳が、大きく見開かれていた。


 氷のようだった瞳が、揺れている。いつも静かに引き結ばれていた唇が、わずかに震えている。


「お前……この、匂いは」


 次の瞬間、強い力で腕を引かれた。


 気づけば、私はゼルキウス様の腕の中にいた。細身なのに、驚くほど力強い腕。首筋に、熱い吐息が触れる。


「やっと……やっと、見つけた」


 掠れた声が、耳元で落ちた。


「見つけた。……もう、二度と離さない」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


 ——匂いでわかる。お前は俺の番だ。


 母の手首を掴んだ、ダルクの大きな手。泣きながら連れて行かれる母の背中。窓辺で外ばかり見ていた、あの寂しそうな横顔。


(嫌だ。嫌だ、嫌だ……!)


「離して……っ、離してください!」


 私は渾身の力で、ゼルキウス様の胸を突き飛ばした。腕が緩んだ隙に身をよじり、転がるように駆け出す。


「ミレイ!」


 背後で、初めて名前を呼ばれた。


 けれど私は振り返らなかった。振り返ったら、きっともう逃げられない。


 屋根裏へ続く階段を駆け上がりながら、私は唇を噛みしめた。


(私は、お母さんと同じにはならない)

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