第1話 薬草と侍女の平穏
母の棺に土がかけられていくのを、私はただ黙って見ていた。
冷たい雨が降っていた。参列者は少ない。屋敷の使用人が数人と、黒い外套をまとった大柄な男がひとり。
虎獣人の大商人、ダルク。母を「番」と呼び、十二年間、あの屋敷に閉じ込めた人だ。
「……もういい。下がれ」
墓守の手が止まりかけたとき、ダルクが低く唸った。使用人たちが怯えたように後ずさる。
ダルクは墓穴の縁に膝をつくと、泥に汚れるのも構わず、大きな手で棺の蓋に触れた。
「なぜだ。……なぜ、俺を置いていく」
掠れた声だった。いつも屋敷中に響いていた怒鳴り声とは、まるで別人のようだった。
縞模様の尾が力なく地面に垂れている。雨に濡れた背中が、ひどく小さく見えた。
しばらくして、ダルクがゆっくりと振り返る。赤く濁った目が、私を捉えた。
「……お前は、あいつと同じ目をしているな」
責めるようでも、縋るようでもある声。私は何も答えられず、ただ視線を落とした。
(そんな顔をするなら……どうして、お母さんの話を一度も聞いてあげなかったの)
胸の奥がちくりと痛む。この人なりに、母を想っていたのかもしれない。それでも、母がこの人の隣で笑った日を、私は一度も見たことがなかった。
母は人間族だった。王都の小さな薬草店で働いていた母を、ある日ダルクが見初めた。いや、見初めたなんて綺麗な言葉ではない。「匂いでわかる。お前は俺の番だ」——そう言い放ち、母の意思も、幼い私の存在も、まとめて屋敷に運び込んだのだ。
獣人の国では、番は神が定めた運命だとされている。獣人が番を見つけたなら、周囲は祝福するのが当たり前。人間の側に断る自由なんて、最初から用意されていない。
母は屋敷で、少しずつ笑わなくなった。窓辺に座って、外ばかり眺めるようになった。そして去年の冬に床に伏せ、春を待たずに逝ってしまった。
(番なんて、運命なんかじゃない。獣人が、人間から選ぶ自由を取り上げるための言い訳だ)
それが、二十年生きてきた私の結論だった。
葬儀の三日後、私は屋敷を出た。
持ち物は小さな鞄ひとつ。着替えと、わずかな蓄え、それから母が遺した手帳。
手帳には、母が薬草店で覚えた調合がびっしりと書き込まれている。その最後の頁にあるのが、「匂い消しの薬草茶」のレシピだった。
『ミレイへ。あなたもいつか、私と同じ目に遭うかもしれない。これを毎日飲みなさい。獣人の鼻から、あなたを隠してくれるから』
震える字で、そう添えられていた。母は病床で、私のためにこれを書いてくれたのだ。
(ありがとう、お母さん。私は、絶対に捕まらない)
ダルクは葬儀の日から酒に溺れ、母の部屋に閉じこもっていた。あの目でもう一度見られる前に、ここを出なければならない。
だから私は、ダルクが部屋から出てこない夜明け前を選んだ。
目指すのは、王都から馬車で十日かかる北の辺境伯領。そこなら、ダルクの商会の手も届かない。
ノワール辺境伯邸は、黒い石造りの大きな屋敷だった。
「まあまあ、遠いところをよく来てくれたわねえ」
出迎えてくれたのは、侍女長のロッタさん。垂れた白い兎の耳がふわふわと揺れていて、声も笑顔もやわらかい。
「人間族の子が来てくれるなんて久しぶりよ。困ったことがあったら、何でも私に言ってちょうだいね」
「はい! 精一杯務めます!」
(よかった……優しそうな人だ)
張りつめていた肩の力が、少しだけ抜けた。
ところが、その隣に立つ狼獣人の男性は、眉間に深い皺を寄せていた。執事のガルドさんだ。
「先に言っておく。この屋敷の主、ゼルキウス様は厳しいお方だ。無駄口は好まれない。余計なことはせず、言われた仕事をきちんとこなすように」
「は、はい」
「それと——旦那様の前で、泣いたり騒いだりはしないことだ。これまで何人も辞めている」
(何人も……? どれだけ怖い人なんだろう)
「ガルド、新人さんを脅かさないの」
ロッタさんがたしなめると、ガルドさんは咳払いをして目を逸らした。どうやら、根は悪い人ではなさそうだ。
ロッタさんは屋敷の中を案内しながら、仕事の段取りを丁寧に教えてくれた。朝は厨房の手伝い、昼は客間と廊下の掃除、夕方は洗濯物の取り込み。
「旦那様のお部屋周りは、慣れるまで私とガルドでやるから安心してね」
(つまり、ほとんど顔を合わせずに済むってこと……!)
思わずほっと胸をなで下ろす。
辺境伯への挨拶は、その日の夕方だった。
執務室の扉が開いた瞬間、空気がひやりと冷えた気がした。
窓辺に立っていたのは、黒髪の男性だった。細身なのに背が高く、黒い上着がよく似合っている。
金色の瞳。黒豹の獣人。
ゼルキウス・ノワール辺境伯。人々から「氷の黒豹」と呼ばれる人。
「本日より侍女として勤めます、ミレイと申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。そっと視線だけを上げると、金色の瞳と目が合った。
(……なんて、綺麗な人なんだろう)
夜を溶かしたような黒髪。彫刻のように整った横顔。窓から差し込む夕陽を受けて、金の瞳が静かに光っている。
思わず見とれてしまいそうになって、けれど次の瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。
美しいのに、そこには何もなかった。喜びも、怒りも、私への興味さえも。まるで冬の湖の、分厚い氷の向こうを覗き込んでいるみたいだった。
(この人には、きっと誰も近づけない)
沈黙が落ちた。一秒、二秒。ゼルキウス様は表情ひとつ変えないまま、私を見下ろしている。
「……下がれ」
それだけだった。低く、淡々とした声。
「は、はい! 失礼いたします!」
私は逃げるように執務室を出た。扉が閉まった途端、廊下でへなへなと壁にもたれかかる。
(こ、怖かった……! でも、これでいい)
あの方は、私になんて興味がない。私はただの侍女で、目立たず、関わらず、静かに働けばいい。それなら、きっとここで平穏に暮らせる。
その夜、屋根裏の小さな部屋で、私は母の手帳を開いた。
薬草茶を淹れる。青くて少し苦い香りが、狭い部屋に広がった。
「お母さん。私、ちゃんと働き口を見つけたよ」
ひと口飲むと、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。番も、運命も、もう私には関係ない。ここで、私は私の人生を生きるのだ。
窓の外では、北の冷たい風が鳴っていた。
——そのとき、私は知らなかった。
執務室を出ていく私の背中を、あの金色の瞳が、ほんの一瞬だけ長く見つめていたことを。
新連載です!




