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【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


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辺境伯夫人の器

「明日の晩、近隣の皆様をお招きして晩餐会を開くわ」


 ヴィオラ様がそう言い出したのは、ゼルキウス様が魔物討伐のために屋敷を空けた日の朝だった。


「旦那様がお留守の間に、ですか?」


 ロッタさんが困惑した声を上げると、ヴィオラ様はつんと顎を上げた。


「だからこそよ。将来の辺境伯夫人として、北の貴族の皆様にご挨拶しておかなくては」


 まだ番候補にすぎないのに、という言葉を、誰も口にはできなかった。相手は公爵家のご令嬢だ。


「給仕は、そこの人間にさせなさい」


 翠の瞳が、まっすぐに私を捉えた。


「皆様にも、ぜひ見ていただきたいもの」

 

 

 

 晩餐会の夜、大広間はまばゆい明かりに満ちていた。


 集まったのは、北の領地を治める獣人貴族たちとその奥方だった。狼、狐、熊、鷹。色とりどりの耳や尾が、燭台の光を受けて揺れている。


 その中心で、ヴィオラ様はひときわ輝いていた。

 銀灰色の髪を結い上げ、真珠の首飾りを胸元に飾って。しなやかな尾を優雅に揺らしながら、客人たちと笑い合う姿は、まるで最初からこの屋敷の女主人であるかのようだった。


(……本当に、お綺麗)


 葡萄酒の瓶を抱えて給仕をしながら、私はその姿から目を逸らせなかった。


「ヴィオラ嬢、辺境伯閣下とのご婚約は、いつ頃になりますの?」

「まあ、気が早いわ。でも、そう遠くはないと思っておりますの」


 狐獣人の奥方の問いに、ヴィオラ様は頬を染めて微笑んだ。


 そのとき、別の客人が声を潜めた。


「ですが、閣下は人間の侍女を番だとおっしゃっているとか」


 広間の空気が、わずかに揺れた。

 いくつもの視線が、葡萄酒の瓶を抱えた私に集まる。


 ヴィオラ様は、ころころと鈴のように笑った。


「ええ。旦那様は少しお疲れなのよ。二十年も番が見つからなかったのですもの、可哀想に」


 そして、私を手招きした。


「そこのあなた。私の杯に注いでちょうだい」

 

 

 

 逃げることはできなかった。私は瓶を抱えて、ヴィオラ様の席へ歩み寄る。

 杯に葡萄酒を注ごうと、身を屈めたその瞬間。

 足首に、何かがするりと絡みついた。


(あっ——!)


 気づいたときには遅かった。体が傾き、手から瓶が滑り落ちる。


 赤い葡萄酒が、白いテーブルクロスに大きく広がった。何滴かが、ヴィオラ様のドレスの裾に飛ぶ。


「きゃあっ!」


 ヴィオラ様が悲鳴を上げて立ち上がった。広間中の視線が、床に膝をついた私に突き刺さる。


「も、申し訳ございません……!」

「なんてことをしてくれたの!王都の仕立て屋に作らせた、一点ものなのよ!」


 ヴィオラ様は大げさにため息をつくと、客人たちのほうへ向き直った。


「皆様、ご覧になって!これが、旦那様が番だとおっしゃる人間の娘ですわ」


 しんと静まり返った広間に、澄んだ声が響く。


「辺境伯夫人は、北の獣人貴族の皆様をまとめる立場。匂いで相手の機嫌を読み、耳で遠くの気配を聞き分け、何十年もこの地を支えていかなくてはならないの」


 翠の瞳が、床に這いつくばる私を見下ろした。


「葡萄酒ひとつまともに注げない人間に、それが務まると思って?」


 くすくすと、どこかから笑い声が漏れた。

 ひとつ、またひとつと、それが広間中に広がっていく。


「確かに、このような人間ではねえ」

「閣下もお気の毒に」


 頬が燃えるように熱かった。それなのに、指先は氷のように冷たい。


(……言い返せない)


 ヴィオラ様の言うことは、何ひとつ間違っていなかった。

 私は匂いで人の機嫌を読めない。遠くの気配も聞き取れない。何十年も、この地にいることはできない。


「……申し訳、ございませんでした」


 震える声で頭を下げると、私は濡れたクロスを抱えて、逃げるように広間を後にした。

 

 

 

 厨房の裏口にしゃがみ込んで、私は葡萄酒の染みた布を握りしめていた。


「ミレイちゃん」


 ロッタさんが、そっと隣に腰を下ろした。何も言わずに、私の背中をゆっくりと撫でてくれる。


「……ロッタさん。旦那様には、言わないでください」

「どうして? 旦那様がお知りになったら、きっと——」

「だからです」


 私は顔を上げられないまま、絞り出すように言った。


「旦那様に泣きついたら、私は本当に、守られるだけの存在になってしまいます。それに……あの方の迷惑に、なりたくないんです」


 お客様である公爵令嬢と、辺境伯が揉めることになる。人間の侍女ひとりのために。そんなこと、あってはいけない。


 ロッタさんは、しばらく黙っていた。


「ロッタさん。私、やっぱりここを出ようと思います」

「ミレイちゃん……!」

「ヴィオラ様のおっしゃる通りです。私は、あの方の隣に立てる人間じゃない」


 口にした途端、喉の奥がきゅっと痛んだ。


(いいの。これで、いいの)


 最初から、番なんて望んでいなかった。逃げようとして、連れ戻されて。それが、今度は自分の意思で出ていくだけだ。


 ロッタさんの兎の耳が、悲しそうに垂れていた。何か言いたげに唇を開いて、けれど結局、もう一度私の背中を撫でただけだった。

 

 

 

 その夜は、ほとんど眠れなかった。


 夜明け前にようやくうとうとしかけたとき、廊下から甲高い悲鳴が響いた。


「ない……ないわ! 私の首飾りが、なくなっているの!」


 ヴィオラ様の声だった。


 飛び起きて廊下に出ると、屋敷中の使用人たちが慌ただしく集まってきていた。昨夜、ヴィオラ様が胸元に飾っていた、真珠の首飾り。


「王家から賜った、我が家の家宝よ! 誰かが盗んだのだわ!」


 ヴィオラ様の侍女たちが、手分けして部屋という部屋を探し始める。


 そして、しばらくして。


「お嬢様! ございました!」

 侍女のひとりが、高く掲げて駆け戻ってきた。

 朝日を受けて光る、真珠の首飾り。


「この人間の侍女の部屋の、鏡台の引き出しから出てまいりました!」


 いくつもの視線が、いっせいに私へと向けられた。

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