番の誓い(ゼルキウス視点)
「番の誓いには、印を刻む儀式がある」
中庭でミレイを抱きしめた翌朝、俺は執務室で彼女にそう告げた。
「神殿で互いの意思を宣言し、獣人が番の首筋に牙を立てる。印が刻まれれば、二人は生涯の番として結ばれる」
ミレイは、真剣な顔で俺の言葉を聞いていた。
「……痛みがある。人間の体には、負担も大きい」
言いながら、自分の声が硬くなっていくのがわかった。
この娘の白い首筋に、牙を立てる。想像しただけで、胸の奥が軋む。
ようやく手に入れた温もりを、自分の手で傷つけるなど。
「印を刻まずとも、お前は俺の番だ。無理をする必要はない」
ミレイは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく首を横に振る。
「旦那様。私、ちゃんと旦那様の番になりたいんです」
栗色の瞳が、まっすぐに俺を見上げた。
「お母さんは、一度も自分で選べませんでした。だから私は、自分で選んだことを、ちゃんと形にしたいんです」
その目には、もう怯えも迷いもなかった。
(……敵わないな)
俺は、静かに頷いた。
それからの屋敷は、嵐のような騒ぎだった。
「ミレイちゃん、袖の長さはこれでいいかしら。裾はもう少し広げたほうが、きっと綺麗よ」
ロッタは毎晩遅くまで、花嫁衣装を縫っていた。針を動かしながら、何度も鼻をすすっている。
「ロッタさん、少しは休んでください……」
「いいのよ、いいのよ。私ね、ずっとこの日を待っていたんだから」
ガルドは、神殿との段取りから招待状の手配まで、屋敷中を駆け回っていた。
「旦那様! 近隣の領主方への書状が、まだ半分残っております!」
「後でいい」
「後では間に合いません! 旦那様が、あと十日で儀式をなさると決められたのですぞ!」
十日でも長いくらいだった。二十年待ったのだ。
儀式を三日後に控えた午後のことだった。
回廊を歩いていると、中庭からミレイの明るい声が聞こえてきた。
「わあ、綺麗! ありがとうございます、エリクさん」
足が、勝手に止まった。
柱の陰から覗くと、庭師のエリクが、白い花を山ほど抱えてミレイの前に立っていた。
「西の森の帰りに、たくさん咲いていたんです。儀式の飾りに使っていただけたらと思って」
「嬉しいです。きっと、素敵な飾りになります」
ミレイが、花を受け取って笑っている。
腹の底が、じわりと熱くなった。
(……祝いの花だ。わかっている)
わかっている。わかっているのだが。
「エリク」
気づけば、声が出ていた。
エリクの垂れ耳が、びくりと跳ね上がる。
「だ、旦那様! こ、これは、儀式のお祝いで……!」
「ご苦労だった」
淡々と告げると、エリクは青ざめたまま、俺の顔とミレイの顔を交互に見た。
「……北の森の柵も、そろそろ古い頃だな」
「旦那様っ!」
背後から、ガルドの悲鳴のような声が上がった。
「祝いの花を届けに来た庭師を、柵の修繕に送るおつもりですか! エリクはもう、東と西の柵を直しております! 屋敷の柵という柵を、すべてエリクに直させるおつもりですか!」
「北が残っている」
「旦那様ぁ……!」
ガルドが頭を抱えてしゃがみ込む。
その横で、ミレイが花束を抱えたまま、呆れたように俺を見上げた。
「旦那様。エリクさんは、お祝いに来てくださっただけです」
「……わかっている」
「わかっていらっしゃるなら、柵はまた今度にしてください」
栗色の瞳に、じっと見つめられる。
「……今度にする」
エリクが、心底ほっとしたように息を吐いた。ガルドは、まだしゃがみ込んだまま動かなかった。
ミレイが、くすりと笑う。
その笑顔が俺に向けられていることが、どうしようもなく嬉しかった。
儀式の日は、雪のように白い朝だった。
領地の小さな神殿には、屋敷の者たちと、近隣の領主たちが集まっていた。祭壇には、エリクが届けた白い花が飾られている。
扉が開いた。
ロッタに手を引かれて、ミレイが入ってくる。
息が、止まった。
白い花嫁衣装。栗色の髪を柔らかく結い上げ、薄いヴェールが肩に流れている。
ロッタが毎晩縫い続けた衣装は、まるでミレイのためだけに咲いた花のようだった。
(……ああ)
二十年。
胸の奥に空いた穴を抱えて、ひとりで夜空を見上げ続けた日々。期待するたびに失望し、いつしか何も感じなくなった日々。
そのすべてが、今、この瞬間のためにあったのだと思えた。
ミレイが、俺の前で足を止める。ヴェール越しに、栗色の瞳が微笑んだ。
神官が、静かに問いかける。
「ゼルキウス・ノワール。汝は、己の意思により、この者を生涯の番とするか」
「誓う」
「ミレイ。汝は、己の意思により、この者を生涯の番とするか」
ミレイは、少しも迷わなかった。
「誓います。……私が、自分で選びました」
その声が、神殿の高い天井に澄んで響いた。
ミレイがヴェールを上げ、そっと髪を片側に寄せる。白い首筋が、あらわになった。
俺は、その首筋に顔を近づけた。
甘い匂いがした。雨上がりの森のような、陽だまりの花のような。二十年探し続けた、たったひとつの匂い。
「……少しだけ、痛む」
「はい。大丈夫です」
小さく震える肩を、そっと抱き寄せる。
そして、できる限り優しく、その首筋に牙を立てた。
ミレイの体が、腕の中でかすかに強張る。けれど、すぐに力が抜けて、俺の外套をぎゅっと握りしめた。
胸の奥に空いていた穴が、温かいもので満たされていく。
これが、番の誓いなのだと、初めて知った。
牙を離すと、首筋に小さな印が浮かんでいた。黒豹の紋様に似た、淡い痕。
「大丈夫か」
問いかけると、ミレイは答えなかった。
ただ、大きく目を見開いて、俺を見上げている。
「……ミレイ?」
「旦那様」
震える声が、俺を呼んだ。
「旦那様の、匂いが……わかります」
息が止まった。
ミレイは、信じられないというように、俺の胸元にそっと顔を寄せた。
「冬の朝の森みたいな……少しだけ冷たくて、でも、すごく落ち着く匂い」
その瞳から、涙がひとつ、こぼれ落ちた。
「わからないと思っていました。私には、一生わからないままなんだって……」
番の誓いを結んだ人間は、己の番の匂いだけを感じ取れるようになる。古い文献で読んだことはあった。だが、それが本当に起きるなど。
俺は、ミレイを強く抱きしめた。
もう、片方だけが焦がれる番ではない。
あの夜、廊下で告げた言葉がある。
あのとき、この娘は怯えて逃げ出した。俺は、自分の想いだけを押しつけていた。
けれど、今は違う。
「ミレイ」
「……はい」
「見つけた」
腕の中で、ミレイが小さく息を呑む。
「……もう、二度と離さない」
あの夜と、同じ言葉。
けれど今度は、ミレイが顔を上げて、涙に濡れた瞳で笑った。
「はい。……離さないでください、旦那様」
神殿の扉の向こうから、春を告げる風が吹き込んでくる。
ロッタが声を上げて泣き、ガルドが目頭を押さえている。祭壇の白い花が、祝福するように揺れていた。
二十年目の冬の終わりに、俺はようやく、番を得た。




