白い野菊と、黒豹の溺愛
最終話です。
王都の外れの丘に、春の風が吹いていた。
雪解けの水を含んだ土の匂い。芽吹いたばかりの若草が、足元でやわらかく揺れている。
母の墓は、丘のいちばん上にあった。
白い野菊の花束を抱えて、私は石段を上っていく。少し後ろを、ゼルキウス様が静かについてきていた。
「旦那様。ここで、待っていていただけますか」
「ああ」
ゼルキウス様は、墓から少し離れた木の下で足を止めた。何も聞かずに、私をひとりにしてくれる。
この人は、いつだってそうだ。
墓の前に立って、私は息を呑んだ。
墓石の前に、白い野菊が供えられていた。
まだ瑞々しい、摘んだばかりの花だった。
(……ダルク)
顔を上げて、丘の下へ続く道を見渡す。
遠く、並木道の向こうに、大きな背中が小さく見えた。縞模様の尾が、ゆっくりと揺れながら遠ざかっていく。
振り返ることはなかった。
私は、その背中に声をかけなかった。
けれど、もう怖くはなかった。
持ってきた野菊を、ダルクの花の隣にそっと並べる。
二つの白い花束が、春風の中で寄り添うように揺れた。
「お母さん。来るのが遅くなって、ごめんね」
墓石の前にしゃがみ込んで、私は小さく笑った。
「手紙、ちゃんと届けたよ。……ダルク、泣いてた」
春の陽射しが、墓石を温かく照らしている。
「それからね。私、自分で選んだよ」
首筋の印に、そっと指先で触れる。
「番だからじゃない。私が、あの人を選んだの。……お母さんの言う通りにしたよ」
風が、頬を撫でていった。
まるで母が、よくできましたと髪を撫でてくれたみたいに。
振り返ると、木の下でゼルキウス様がこちらを見ていた。金色の瞳が、春の光を受けて柔らかく光っている。
私は立ち上がって、その人のもとへ駆け寄った。
辺境伯夫人になって、三月が過ぎた。
毎日の暮らしは、驚くほど変わらない。朝は厨房でパンを焼く手伝いをして、昼はロッタさんと一緒にお茶を淹れる。
変わったことといえば——。
「ミレイ」
「はい、旦那様」
「こちらへ」
執務室で書類の整理をしていると、ゼルキウス様が静かに私を呼んだ。
言われるまま机のそばへ行くと、腕を引かれて、そのまま膝の上に座らされる。
「だ、旦那様! お仕事中です!」
「構わない。このほうが捗る」
「捗るわけがありません……!」
顔を真っ赤にして抗議しても、腰に回された腕はびくともしない。ゼルキウス様は涼しい顔で、私を膝に乗せたまま書類に目を通している。
扉の前で、ガルドさんが遠い目をしていた。
「……旦那様。決裁が、三日分たまっておりますが」
「見ればわかる」
「わかっておられるなら、奥様を降ろしていただけますか」
「断る」
ガルドさんは、深々とため息をついた。
午後、私は中庭の花壇の前で、エリクさんと話していた。
「奥様、春の植え替えなんですが、この辺りに白い野菊を植えてはいかがでしょう」
「わあ、素敵です! ぜひお願いします」
そのとき、背筋にひやりとしたものが走った。
振り返るまでもなかった。冬の朝の森のような、少しだけ冷たくて、落ち着く匂い。
今の私には、それが誰なのか、すぐにわかる。
「エリク」
回廊の柱の前に、ゼルキウス様が立っていた。
エリクさんの垂れ耳が、ぺたんと伏せられる。
「だ、旦那様……! これは、花壇のご相談で……!」
「旦那様」
私は、エリクさんの前に一歩出た。
「エリクさんは、庭のお仕事の相談をしているだけです。それに、柵はもう全部直っています」
ゼルキウス様は、しばらく黙って私を見下ろしていた。
「……南の柵が、まだだ」
「南の柵は、先月エリクさんが直してくださいました」
「……」
ゼルキウス様が、ふいと視線を逸らした。黒い尾の先が、ぱたりと不満げに揺れる。
思わず噴き出しそうになるのをこらえて、私はゼルキウス様の袖をそっと引いた。
「旦那様。あとでお茶を淹れますから、執務室に戻っていてください」
「……ああ」
素直に去っていく背中を見送って、エリクさんが、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「奥様がいてくださって、本当によかったです……」
そういえば、つい先日、私はひとつの秘密を知った。
麓の薬屋のご主人が、屋敷に挨拶に来たときのことだ。
「いやあ、奥様。あのときは、旦那様に頼まれて、匂い消しの薬草を扱わなくなりましてね。ご不便をおかけしました」
私は、にこにこと笑ってご主人を見送った。
それから、まっすぐ執務室へ向かった。
「旦那様」
「なんだ」
「薬草が手に入らなくなったのは、旦那様のせいだったんですね」
羽根ペンを持つ手が、ぴたりと止まった。
ゼルキウス様は、しばらく黙っていた。それから、表情ひとつ変えずに答えた。
「……二度と、見失いたくなかった」
ずるい人だ、と思った。
そんなことを言われたら、怒る気になんてなれるはずがない。
「……ずるいです、旦那様」
頬を膨らませる私を、ゼルキウス様は黙って引き寄せた。そしてまた、膝の上に座らされた。
その夜、私たちは並んで中庭に立っていた。
月が、静かに夜空に浮かんでいる。
かつてこの場所で、ゼルキウス様はひとりで夜空を見上げていた。私は柱の陰から、その寂しげな背中を見つめることしかできなかった。
今は、こうして隣に立っている。
肩に回された腕が温かい。冬の朝の森のような匂いが、すぐそばにある。
「旦那様」
「なんだ」
「いつか、私が皺だらけのお婆さんになっても」
ゼルキウス様が、静かにこちらを見下ろした。
「ちゃんと、数えてくださいね。私の皺」
金色の瞳が、月明かりの中で柔らかく細められた。
氷の黒豹と呼ばれた人が、私の前でだけ見せる顔。
「ひとつ残らず」
低い声が、迷いなく答えた。
「一日一日、すべて隣で数えていく。……お前が、もう嫌だと言っても」
「言いません」
私は、その胸に頬を寄せた。
「だって、私が選んだんですから」
ゼルキウス様の腕に、そっと力がこもる。
番なんて、信じていなかった。運命なんて、人から選ぶ自由を奪う言い訳だと思っていた。
今でも、運命が何なのかは、よくわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
この人の隣で生きていくことを、私は自分で選んだ。
そしてこの人は、それをずっと待っていてくれた。
月明かりの下、黒豹の尾が、そっと私の足首に絡みついた。
——もう、二度と離さないというように。
(完)
これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!
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