【第五章】私が見つけた人
ダルクと会ってから、五日が過ぎた。
屋敷の中は、すっかりいつもの穏やかさを取り戻していた。南の街道から荷馬車が届き、麓の町の塩屋の棚にも、白い袋が山と積まれたと聞いた。
その朝、私は衣装箪笥の前に立っていた。
一番奥の引き出しを開ける。丁寧にたたまれた、柔らかな羊毛の肩掛け。
ゼルキウス様が「冷えるからだ」とだけ添えて、部屋の前に置いてくれたもの。物で心は買えないと、意地を張ってしまい込んだもの。
(……ずいぶん、長いこと待たせちゃった)
そっと広げて、肩にかける。
ふわりと、温かかった。あのときと同じ温かさなのに、今はもう、少しも怖くなかった。
「まあ、ミレイちゃん!」
厨房に顔を出した途端、ロッタさんが目を丸くした。
「その肩掛け……!」
「は、はい。今朝は少し冷えたので」
頬が熱くなるのを感じながら答えると、ロッタさんの兎の耳が、ぴょこぴょこと嬉しそうに跳ねた。
「そうよね、冷えるものね。ええ、ええ、とっても似合っているわ」
にこにこと笑うロッタさんの後ろで、ガルドさんが盛大に咳払いをした。
「ごほん。……ミレイ、旦那様の朝のお茶を頼む」
「はい」
「その、なんだ。肩掛けは、外さなくていいぞ」
ガルドさんはそれだけ言うと、なぜか天井を見上げながら去っていった。尻尾が、ばたばたと落ち着きなく揺れている。
(……みんなに、ばれてる)
恥ずかしさに顔を覆いたくなりながら、私は茶器を盆に載せた。
執務室の扉を叩くと、いつもの低い声が「入れ」と答えた。
「旦那様、お茶をお持ちしました」
机に向かっていたゼルキウス様が、顔を上げる。
その金色の瞳が、私の肩の上で、ぴたりと止まった。
沈黙が落ちた。一秒、二秒、三秒。
ゼルキウス様は、羽根ペンを持ったまま、まるで石像のように固まっている。
「……旦那様?」
「……ああ」
ようやく返ってきた声は、わずかに掠れていた。
「茶を、そこに」
「はい」
机の端に茶器を置くと、ゼルキウス様は書類に視線を戻した。いつも通りの、感情の読めない横顔。
けれど、ふと見ると、手元の書類が逆さまになっていた。
(……旦那様)
思わず笑いそうになるのを必死にこらえて、私は深く頭を下げた。
「失礼いたします」
扉を閉める直前、小さく息を吐く音が聞こえた気がした。
その夜、私は中庭へ下りた。
月が、ひときわ明るい夜だった。冷たく澄んだ空気の中、中庭の木々が銀色に照らされている。
まだ、誰もいなかった。
いつもは、私が来たときには、あの方がもうそこにいた。ひとりで静かに夜空を見上げる、細い黒い背中。
今夜は、私が待つ番だ。
肩掛けを胸元でぎゅっと握りしめる。心臓が、うるさいほど鳴っていた。
(大丈夫。もう、逃げないって決めたんだから)
やがて、回廊の向こうから、静かな足音が近づいてきた。
ゼルキウス様だった。中庭に足を踏み入れたところで、私に気づいて立ち止まる。
「ミレイ」
「……お待ちしていました、旦那様」
金色の瞳が、わずかに見開かれた。
ゼルキウス様が、ゆっくりと歩み寄ってくる。そして、いつものように、私の一歩手前で足を止めた。
決して、それ以上は近づかない。私が怯えないように。私が選べるように。
この人は、ずっとそうしてくれていた。
「旦那様。聞いていただきたいことがあります」
声が震えないように、深く息を吸った。
「私には、旦那様の匂いはわかりません。耳も尾もありません。身分も、何もありません」
ゼルキウス様は、黙って私を見つめている。
「旦那様より、ずっと先に老いていきます。いつか必ず、旦那様を置いていくことになります」
喉の奥が、熱くなる。それでも、言葉を止めなかった。
「番なんて、信じていませんでした。今でも、運命だから好きになるなんて、よくわかりません」
顔を上げる。金色の瞳を、まっすぐに見つめ返した。
「……それでも」
肩掛けを握る手に、力がこもった。
「それでも、私が選びたいのは、旦那様です」
中庭に、静寂が落ちた。
夜風が、木々の葉をさらさらと揺らしていく。
ゼルキウス様は、何も言わなかった。
いつも揺るがない金色の瞳が、大きく見開かれたまま、私を映している。
やがて、その表情が——崩れた。
氷が、音もなく溶けていくようだった。引き結ばれていた唇が震え、眉がわずかに寄せられる。
初めて見る顔だった。今にも泣き出しそうな、それでいて、どうしようもなく嬉しそうな。
「……ミレイ」
掠れた声が、私の名を呼んだ。
ゼルキウス様の手が、ゆっくりと持ち上がる。けれど、私に触れる寸前で、ぴたりと止まった。
細い指が、小さく震えている。
「……触れても、いいか」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
あの夜、廊下で。この人は何も聞かずに、私を抱きすくめた。
けれど今は、こんなにも求めているのが伝わってくるのに、それでも私の許しを待っている。
(ああ、この人は)
涙が、ひとつこぼれ落ちた。
「……はい」
次の瞬間、私はゼルキウス様の腕の中にいた。
あの夜と同じ、細身なのに力強い腕。けれど、あの夜とは何もかもが違った。
壊れ物を扱うように、そっと。それでいて、二度と離すまいとするように、強く。
黒髪が、私の頬に触れる。首筋に落ちる吐息が、震えていた。
「……夢では、ないのか」
耳元で、低い声が呟く。
「二十年、探した。見つけても、怯えさせてばかりだった。……お前に選ばれる日など、来ないと思っていた」
私は、ゼルキウス様の背中にそっと腕を回した。
広い背中だった。月明かりの下で、ひとりきりで夜空を見上げていた、あの寂しげな背中。
もう、ひとりにはしない。
「旦那様」
「……ああ」
「旦那様が、私を見つけてくださったんじゃありません」
ゼルキウス様の腕に、わずかに力がこもった。
私は、その胸に頬を寄せて、小さく笑った。
「……私が、見つけたんです」
どれくらい、そうしていただろう。
月が、少しだけ西へ傾いていた。
ふと、回廊の柱の陰から、ずずっと鼻をすする音が聞こえた。
「ロ、ロッタ……! 声が大きい……っ」
「だ、だって、ガルド……よかったわねえ、本当に……」
ゼルキウス様の肩が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと振り返った金色の瞳は、いつもの氷のような冷たさを取り戻していた。
「……ガルド。ロッタ」
「は、はいっ!」
「も、申し訳ございませんっ!」
二つの影が、慌ただしく回廊の向こうへ消えていく。
私は、ゼルキウス様の腕の中で、とうとう声を上げて笑ってしまった。




