選ばせてもらえなかった人
七日目の朝は、よく晴れていた。
麓の町へ続く坂道を、私はゼルキウス様と並んで歩いていた。馬車も、護衛も連れていない。そうしてほしいと、私が頼んだのだ。
胸元には、母の手紙を入れた小さな封筒。
歩くたびに、それが心臓の上で小さく揺れる。
(大丈夫。逃げないって、決めたんだから)
そう言い聞かせても、足が少しずつ重くなっていく。
宿の屋根が見えてきたとき、とうとう私の足は止まってしまった。
隣を歩いていたゼルキウス様も、静かに立ち止まる。
何も言わない。急かすことも、手を引くこともしな
い。ただ、私の隣に立っていてくれる。
その横顔を見上げて、私はゆっくりと息を吐いた。
「……行きます」
「ああ」
短い返事。それだけで、また一歩を踏み出せた。
宿の一番奥の部屋で、ダルクは待っていた。
窓辺の椅子に、大きな体を沈めている。テーブルの上には、空になった酒瓶が何本も転がっていた。
「……来たか」
ダルクの目が、私を捉える。そして、隣に立つゼルキウス様を見て、低く唸った。
「そいつまで連れてきやがったか」
「私がお願いしたんです」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「隣にいてほしいって。私が、自分で選びました」
ダルクの眉が、ぴくりと動いた。
ゼルキウス様は、一歩下がった壁際に立っている。約束通り、何も言わずに。ただ、その気配だけが、背中を支えてくれていた。
私は、ダルクの前にまっすぐ立った。
「ダルク。私は、あなたのところには戻りません」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
「……何だと」
「戻りません。私は、ノワール辺境伯領で生きていきます」
ダルクの尾が、床を強く打った。椅子が軋む音を立てて、大きな体がゆっくりと立ち上がる。
「あいつの娘が、俺から離れるってのか」
「お母さんは、あなたの持ち物じゃありませんでした。私も、そうです」
怖い。膝が震えている。それでも、私は目を逸らさなかった。
「これを、読んでください」
胸元から封筒を取り出して、ダルクに差し出す。
「お母さんの手帳に、隠してありました。……あなた宛ての手紙です」
ダルクの目が、大きく見開かれた。
分厚い指が、震えながら封筒を受け取った。
手紙を広げる。ダルクの目が、一行一行をなぞっていく。
部屋には、紙の擦れる音だけが響いていた。
やがて、ダルクの肩が小さく震え始めた。
「……熱を出した夜」
掠れた声が、こぼれ落ちる。
「白い、野菊……覚えて、たのか。あいつ……」
手紙を握る指に、力がこもる。最後の行まで読み終えたとき、ダルクの顔がくしゃりと歪んだ。
「一度でいい、聞いてほしかった……だと?」
次の瞬間、ダルクは手紙を握りしめたまま、私に詰め寄った。
「どういうことだ! 俺は、あいつに何でも与えた! ドレスも、宝石も、屋敷も! 何が足りなかったっていうんだ!」
大きな手が、私の腕に伸びる——その寸前。
黒い手が、静かにそれを遮った。
「触れるな」
いつの間にか、ゼルキウス様が私の隣に立っていた。声を荒げることもなく、ただダルクの手首を掴んでいる。
「この娘は、答えを伝えに来ただけだ。お前に掴まれるためではない」
ダルクは、しばらくゼルキウス様を睨みつけていた。
けれど、やがて——その腕から、ふっと力が抜けた。
「……与えるだけじゃ、だめだったんです」
私は、震える声で言った。
「お母さんは、あなたに聞いてほしかったんです。ここにいたいか。あなたを愛せるか。……たった一度でよかった。お母さんに、選ばせてあげてほしかった」
ダルクの大きな体が、ぐらりと揺れた。
「お母さんは、一度もあなたに選ばせてもらえなかった。でも、手紙に書いてあったでしょう。聞いてくれていたら、あなたを選べたかもしれないって」
喉の奥が、熱くなる。
「私は、お母さんと同じにはなりたくない。誰かに決められるんじゃなくて、自分で選びたいんです」
沈黙が落ちた。
どさり、と鈍い音がした。
ダルクが、床に膝をついていた。手紙を胸に押し当てて、大きな背中を丸めている。
「……聞けば、よかったのか」
絞り出すような声だった。
「たった、それだけを……俺は、一度も」
肩が、激しく震えていた。声を殺して、それでも殺しきれずに、ダルクは泣いていた。
あの日、母の棺の前で見たのと同じ、ひどく小さな背中だった。
私は、何も言えなかった。
この人を、許せたわけではない。母が奪われた十二年は、もう二度と戻らない。
けれど、もう怖くはなかった。目の前にいるのは、母を失って泣いている、ひとりの不器用な男でしかなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
やがてダルクは、ゆっくりと顔を上げた。赤く腫れた目で、私とゼルキウス様を見る。
「……商会の荷止めは、今日中に解く」
掠れた声だった。
「もともと、そこの黒豹に手を回されて、ほとんど意味をなしてなかったがな」
ゼルキウス様は、何も答えなかった。
「お前を連れ戻すのも、やめる」
ダルクは、手紙を大切そうに懐へしまった。そして、部屋を出ようとする私の背中に、ぽつりと声をかけた。
「……ミレイ」
振り返ると、ダルクは窓の外を見たまま、こちらを見ずに言った。
「あいつの墓に、花を手向けてやってくれ。……お前が選んだ花を」
私は、少しだけ考えてから答えた。
「白い野菊にします」
ダルクの肩が、一度だけ大きく揺れた。
屋敷へ続く坂道を、私はゼルキウス様と並んで歩いていた。
夕陽が、二人の影を長く伸ばしている。
行きの道では、あんなに重かった足が、今は不思議なほど軽かった。
「……旦那様」
「なんだ」
「ありがとうございました。隣に、いてくださって」
ゼルキウス様は、少しだけ歩く速さを緩めた。
「約束しただけだ」
淡々とした声。けれど、その横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
ふと、気づいた。
この人の隣を歩いているのに、私はもう、少しも怖くない。
国境の橋のたもとで震えていたあの日から、いつの間にか、こんなにも。
(番かどうかではなく、あなたが選んだ人と生きなさい)
母の言葉が、胸の奥で静かに響く。
黒髪が、夕風に揺れている。金色の瞳が、沈みゆく夕陽を映して光っている。
美しくて、静かで、どこか不器用な人。
(……私は、この人を)
その答えは、もう胸の中にあった。




