↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/17

選ばせてもらえなかった人

 七日目の朝は、よく晴れていた。


 麓の町へ続く坂道を、私はゼルキウス様と並んで歩いていた。馬車も、護衛も連れていない。そうしてほしいと、私が頼んだのだ。


 胸元には、母の手紙を入れた小さな封筒。


 歩くたびに、それが心臓の上で小さく揺れる。


(大丈夫。逃げないって、決めたんだから)


 そう言い聞かせても、足が少しずつ重くなっていく。


 宿の屋根が見えてきたとき、とうとう私の足は止まってしまった。

 隣を歩いていたゼルキウス様も、静かに立ち止まる。


 何も言わない。急かすことも、手を引くこともしな

い。ただ、私の隣に立っていてくれる。


 その横顔を見上げて、私はゆっくりと息を吐いた。


「……行きます」


「ああ」


 短い返事。それだけで、また一歩を踏み出せた。

 

 

 

 宿の一番奥の部屋で、ダルクは待っていた。


 窓辺の椅子に、大きな体を沈めている。テーブルの上には、空になった酒瓶が何本も転がっていた。


「……来たか」


 ダルクの目が、私を捉える。そして、隣に立つゼルキウス様を見て、低く唸った。


「そいつまで連れてきやがったか」


「私がお願いしたんです」


 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。


「隣にいてほしいって。私が、自分で選びました」


 ダルクの眉が、ぴくりと動いた。


 ゼルキウス様は、一歩下がった壁際に立っている。約束通り、何も言わずに。ただ、その気配だけが、背中を支えてくれていた。


 私は、ダルクの前にまっすぐ立った。


「ダルク。私は、あなたのところには戻りません」

 

 

 

 部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


「……何だと」


「戻りません。私は、ノワール辺境伯領で生きていきます」


 ダルクの尾が、床を強く打った。椅子が軋む音を立てて、大きな体がゆっくりと立ち上がる。


「あいつの娘が、俺から離れるってのか」


「お母さんは、あなたの持ち物じゃありませんでした。私も、そうです」


 怖い。膝が震えている。それでも、私は目を逸らさなかった。



「これを、読んでください」

 胸元から封筒を取り出して、ダルクに差し出す。


「お母さんの手帳に、隠してありました。……あなた宛ての手紙です」


 ダルクの目が、大きく見開かれた。

 

 

 

 分厚い指が、震えながら封筒を受け取った。


 手紙を広げる。ダルクの目が、一行一行をなぞっていく。


 部屋には、紙の擦れる音だけが響いていた。


 やがて、ダルクの肩が小さく震え始めた。


「……熱を出した夜」


 掠れた声が、こぼれ落ちる。


「白い、野菊……覚えて、たのか。あいつ……」


 手紙を握る指に、力がこもる。最後の行まで読み終えたとき、ダルクの顔がくしゃりと歪んだ。


「一度でいい、聞いてほしかった……だと?」


 次の瞬間、ダルクは手紙を握りしめたまま、私に詰め寄った。


「どういうことだ! 俺は、あいつに何でも与えた! ドレスも、宝石も、屋敷も! 何が足りなかったっていうんだ!」


 大きな手が、私の腕に伸びる——その寸前。


 黒い手が、静かにそれを遮った。


「触れるな」


 いつの間にか、ゼルキウス様が私の隣に立っていた。声を荒げることもなく、ただダルクの手首を掴んでいる。


「この娘は、答えを伝えに来ただけだ。お前に掴まれるためではない」


 ダルクは、しばらくゼルキウス様を睨みつけていた。


 けれど、やがて——その腕から、ふっと力が抜けた。

 

 

 

「……与えるだけじゃ、だめだったんです」


 私は、震える声で言った。


「お母さんは、あなたに聞いてほしかったんです。ここにいたいか。あなたを愛せるか。……たった一度でよかった。お母さんに、選ばせてあげてほしかった」


 ダルクの大きな体が、ぐらりと揺れた。


「お母さんは、一度もあなたに選ばせてもらえなかった。でも、手紙に書いてあったでしょう。聞いてくれていたら、あなたを選べたかもしれないって」


 喉の奥が、熱くなる。


「私は、お母さんと同じにはなりたくない。誰かに決められるんじゃなくて、自分で選びたいんです」


 沈黙が落ちた。


 どさり、と鈍い音がした。


 ダルクが、床に膝をついていた。手紙を胸に押し当てて、大きな背中を丸めている。


「……聞けば、よかったのか」


 絞り出すような声だった。


「たった、それだけを……俺は、一度も」


 肩が、激しく震えていた。声を殺して、それでも殺しきれずに、ダルクは泣いていた。


 あの日、母の棺の前で見たのと同じ、ひどく小さな背中だった。


 私は、何も言えなかった。


 この人を、許せたわけではない。母が奪われた十二年は、もう二度と戻らない。


 けれど、もう怖くはなかった。目の前にいるのは、母を失って泣いている、ひとりの不器用な男でしかなかった。

 

 

 

 どれくらい、そうしていただろう。


 やがてダルクは、ゆっくりと顔を上げた。赤く腫れた目で、私とゼルキウス様を見る。


「……商会の荷止めは、今日中に解く」


 掠れた声だった。


「もともと、そこの黒豹に手を回されて、ほとんど意味をなしてなかったがな」


 ゼルキウス様は、何も答えなかった。


「お前を連れ戻すのも、やめる」


 ダルクは、手紙を大切そうに懐へしまった。そして、部屋を出ようとする私の背中に、ぽつりと声をかけた。


「……ミレイ」


 振り返ると、ダルクは窓の外を見たまま、こちらを見ずに言った。


「あいつの墓に、花を手向けてやってくれ。……お前が選んだ花を」


 私は、少しだけ考えてから答えた。


「白い野菊にします」


 ダルクの肩が、一度だけ大きく揺れた。

 

 

 

 屋敷へ続く坂道を、私はゼルキウス様と並んで歩いていた。


 夕陽が、二人の影を長く伸ばしている。

 行きの道では、あんなに重かった足が、今は不思議なほど軽かった。


「……旦那様」


「なんだ」


「ありがとうございました。隣に、いてくださって」


 ゼルキウス様は、少しだけ歩く速さを緩めた。


「約束しただけだ」


 淡々とした声。けれど、その横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。


 ふと、気づいた。


 この人の隣を歩いているのに、私はもう、少しも怖くない。

 国境の橋のたもとで震えていたあの日から、いつの間にか、こんなにも。


(番かどうかではなく、あなたが選んだ人と生きなさい)


 母の言葉が、胸の奥で静かに響く。


 黒髪が、夕風に揺れている。金色の瞳が、沈みゆく夕陽を映して光っている。

 美しくて、静かで、どこか不器用な人。


(……私は、この人を)


 その答えは、もう胸の中にあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。