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【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません  作者: フトダマノミコト


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母の手帳

 ダルクが去って、三日が過ぎた。


「塩が、もう店に残っていないんですって」


 麓の町への買い出しの帰り道、ロッタさんが心配そうに耳を垂らした。


 町の様子は、明らかに変わっていた。

 市場の塩屋の棚は空っぽで、布屋の店先には「入荷未定」の札が下げられている。冬支度を急ぐ人々が、不安そうに顔を見合わせていた。


「今年の冬は、どうなるんだろうねえ」


「北の商会が、急に荷を止めたらしいよ」


 すれ違う人々の囁き声が、耳に刺さる。


(私のせいだ)


 買い物籠を握る手に、力がこもった。


 ゼルキウス様は、領地のことは気にしなくていいと言った。それは俺の務めだ、と。


 けれど、目の前で困っている人たちを見て、気にしないでいられるはずがなかった。


(私がダルクのもとへ戻れば、全部元通りになる)

 そう思うたびに、胸の奥が冷たく軋む。

 

 

 

 その夜も、私は眠れなかった。


 寝台を抜け出して、鏡台の引き出しから母の手帳を取り出す。

 擦り切れた革の表紙。何度も開いたせいで、角が丸くなっている。


(お母さん。私、どうしたらいいの)


 頁をめくる。薬草の調合。季節ごとの茶葉の扱い。母の丁寧な字が、びっしりと並んでいる。


 そして、最後の頁。匂い消しの薬草茶のレシピと、私への短い言葉。


 何度も読み返したその頁を、指先でそっとなぞった——そのとき。


(……あれ?)


 指先に、かすかな違和感があった。


 最後の頁が、ほかの頁より少しだけ厚い。燭台の明かりにかざしてみると、紙の縁がわずかに浮いていた。


 二枚の紙が、糊で丁寧に貼り合わされている。


 心臓が、どくんと跳ねた。


 震える指で、そっと端をめくる。古い糊はあっけなく剥がれて、間から、折りたたまれた薄い紙が一枚、滑り落ちた。

 

 

 

 手紙だった。


 宛名を見て、息が止まる。


『ダルクへ』


 母の字だった。病床で書いたのだろう。ところどころ、震えて滲んでいる。


『ダルクへ

 この手紙を、あなたに渡す日は来ないのでしょう。それでも、書かずにはいられませんでした。


 あなたが私を薬草店から連れ出した日のことを、私は今も覚えています。怖かった。悲しかった。あの店には、私の夢も、ミレイとの小さな暮らしも、すべてがあったから。


 でも、ダルク。私は、あなたを憎みきることもできませんでした。


 私が熱を出した夜、一晩中そばにいてくれたこと。私の好きな白い野菊を、何も言わずに窓辺に置いてくれた朝のこと。不器用なあなたが、あなたなりに私を想ってくれていたことは、ちゃんと知っていました。


 だからこそ、悲しかったのです。


 一度でいい。私に聞いてほしかった。ここにいたいか、と。あなたを愛せるか、と。


 もしあなたが、たった一度でもそう聞いてくれていたら。私はきっと、あなたを選べたかもしれないのに』

 

 

 

 手紙を持つ手が、震えていた。


 頬を、熱いものが伝い落ちていく。


(お母さん……)


 ずっと、母は番を憎んでいるのだと思っていた。ダルクを恨んで、獣人を恐れて、だから心を病んでしまったのだと。


 でも、違った。


 母が傷ついたのは、番だったからじゃない。

 選ばせてもらえなかったからだ。


 ダルクの想いに気づいていたのに。応えられたかもしれないのに。その扉の前に立つことさえ、母は一度も許されなかった。


 涙で滲む目で、手紙の最後の行を追う。そこには、少しだけ筆跡の違う文字で、一行だけ書き足されていた。


『ミレイへ。番かどうかではなく、あなたが選んだ人と生きなさい』

 

 

 

 私は手紙を胸に抱きしめて、声を殺して泣いた。


 泣いて、泣いて。窓の外が白み始める頃、ようやく涙が止まった。


(逃げるのは、もうやめよう)


 ダルクから逃げて、この屋敷に来た。ゼルキウス様から逃げて、国境まで走った。ヴィオラ様の前からも、逃げ出そうとした。


 そして今、領地のためにと言い訳をして、自分を差し出そうとしている。

 それも結局、自分で選ぶことから逃げているだけだ。


(私は、お母さんができなかったことをしたい)


 自分の足でダルクの前に立って、自分の言葉で答えを伝える。


 この手紙を、母の代わりに届ける。

 

 

 

 朝早く、私は執務室の扉を叩いた。


「入れ」


 ゼルキウス様は、もう机に向かっていた。夜通し起きていたのか、書類の山が昨日より高くなっている。


「旦那様。お願いがあります」


 顔を上げたゼルキウス様の前で、私は手紙を胸に抱いたまま、深く息を吸った。


「七日目に、ダルクに会いに行きます。自分の口で、答えを伝えたいんです」


 金色の瞳が、わずかに揺れた。


「……そうか」


「それで、その……」


 言葉が、喉に詰まる。


 こんなことを誰かに頼むのは、生まれて初めてだった。


「一緒に、来ていただけますか」


 頬が熱い。けれど、私は目を逸らさなかった。


「何もしなくていいんです。ただ……隣に、いてほしいんです」


 執務室に、沈黙が落ちた。


 ゼルキウス様は、何も言わなかった。いつも揺るがない金色の瞳が、大きく見開かれたまま、私を見つめている。


 ペンを持つ指が、小さく震えていた。

 やがて、ゆっくりと。低い声が答えた。


「……ああ。隣にいる」


 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が温かくなった。

 

 

 

 執務室を出ると、廊下でガルドさんとすれ違った。


「ミレイ、町の塩の件だが、心配はいらないぞ」


「え……?」


「旦那様が、ダルクが来たその日のうちに、王都の商人ギルドと隣の領地に早馬を出しておられた。明日には、南の街道から荷馬車が着く」


 ガルドさんは、やれやれと肩をすくめた。


「領地のことは気にしなくていいと、言われたのだろう? あの方は、言ったことは必ず守るお方だ」


 振り返ると、執務室の扉の隙間から、書類に向かう黒い背中が見えた。


(ずっと、一人で……)


 夜通し積み上げられていた書類の山を思い出して、私はそっと胸に手を当てた。

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