【第四章】牙を剥く虎
虎の紋章を見た瞬間、全身の血が凍りついた。
玄関前の石畳に、黒塗りの大きな馬車が停まっている。その周りを、屈強な獣人の男たちが固めていた。商会の用心棒たちだ。ダルクの屋敷で、何度も見かけた顔があった。
(嘘。どうして、ここが)
洗濯物を抱えたまま、私は玄関の柱の陰で立ち尽くした。
馬車の扉が、乱暴に開け放たれる。
降りてきたのは、見上げるほど大柄な虎獣人だった。
縞模様の太い尾。分厚い肩。葬儀の日から、まだふた月も経っていない。それなのに、ダルクの頬はげっそりとこけ、目の下には深い隈が刻まれていた。
ただ、その目だけが、獲物を探す獣のようにぎらついている。
「……ミレイ」
低い声が、私の名を呼んだ。
柱の陰に隠れていたはずなのに。獣人の鼻は、とっくに私の匂いを捉えていたのだ。
「迎えに来た。帰るぞ」
ダルクは、まるで当たり前のことのように言った。
使用人たちがざわめく中、ずかずかと石段を上がってくる。ガルドさんが慌てて前に出た。
「お、お待ちください! 当家の主の許しなく——」
「どけ」
ダルクが腕を一振りしただけで、ガルドさんの体がよろめいた。
大きな手が、まっすぐに私へと伸びてくる。
(逃げなきゃ)
そう思うのに、足が石のように動かなかった。
あの日と、同じだった。
——匂いでわかる。お前は俺の番だ。
王都の小さな薬草店。棚に並んだ瓶が割れる音。泣きながら私の手を握りしめていた母の指が、ダルクの大きな手に引き剥がされていく。
幼い私は、ただ店の隅で震えていることしかできなかった。
あのときの母の顔が、目の前に浮かぶ。
ダルクの指先が、私の腕に触れる——その寸前だった。
「この屋敷の者に、触れるな」
黒い影が、私とダルクの間に滑り込んだ。
ゼルキウス様だった。
細身の背中が、私の視界からダルクを覆い隠している。ダルクの太い腕を、ゼルキウス様の手が静かに掴んでいた。
体格は、ダルクのほうがふた回りも大きい。それなのに、その腕はぴくりとも動かなかった。
「……黒豹の辺境伯か」
ダルクが、低く唸った。
「ゼルキウス・ノワールだ。当家に何の用だ」
「そいつは俺の家の者だ。連れて帰る。それだけだ」
「断る」
淡々とした声だった。けれど、玄関の空気が一瞬で張りつめるのがわかった。
二人の獣人が、無言で睨み合う。
ダルクの尾が、苛立たしげに石畳を打った。ゼルキウス様は、微動だにしない。
(怖い……)
膝が震える。私はゼルキウス様の外套の端を、知らず知らずのうちに握りしめていた。
「その娘は、俺の番の忘れ形見だ」
ダルクが、絞り出すように言った。
「あいつが残したのは、その娘だけだ。それを、どこの誰とも知れねえ獣人に渡せるか」
「ミレイはお前の娘ではない。お前の番の娘だ」
「同じことだ!」
ダルクが吠えた。屋敷の窓が、びりびりと震えるほどの声だった。
けれど、次の瞬間。その声が、急に力を失った。
「……あいつのいない屋敷は、広すぎるんだ」
ダルクの目が、ゼルキウス様の肩越しに私を捉える。
「あいつの部屋も、あいつの使ってた茶器も、全部そのままだ。……なのに、どこにもいねえ」
ぎらついていた瞳の奥で、何かが揺れていた。
「お前は、あいつと同じ目をしてる。ミレイ。……お前まで、いなくなるな」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
(この人は、本当にお母さんを失って苦しんでいる)
それはわかる。わかってしまう。
けれど、その苦しみの代わりに私を連れ帰ろうとするのは、母を連れ去ったあの日と、何が違うのだろう。
私は、ゼルキウス様の背中に隠れたまま、何も答えられなかった。
「……どうしても、渡さねえというなら」
ダルクの声が、再び低く濁った。
「俺の商会は、北の塩と布と鉄のほとんどを扱ってる。それをすべて止めてやる。辺境伯領が冬を越せるか、試してみるか」
使用人たちが、息を呑んだ。
ガルドさんの顔が、さっと青ざめる。北の領地では、冬に塩や布が途絶えれば、領民の暮らしは立ち行かなくなる。
(私のせいで……領地の人たちが)
ゼルキウス様は、表情ひとつ変えなかった。
「好きにすればいい」
「強がりを。……七日待ってやる」
ダルクはゼルキウス様の手を振り払うと、私を見据えた。
「七日後、町の宿で待ってる。自分の足で来い、ミレイ。来なけりゃ、この領地ごと干上がらせる」
そう言い残して、ダルクは馬車へと戻っていった。
車輪の音が遠ざかっていく。それでも私の膝の震えは、なかなか止まらなかった。
その夜、私は執務室に呼ばれた。
ゼルキウス様は窓辺に立ち、暗い外を見つめていた。私が入ってくると、ゆっくりとこちらを振り向く。
「怪我はないか」
「……はい。旦那様が、止めてくださったので」
昼間、無意識に外套の端を握りしめてしまったことを思い出して、頬が熱くなる。
「旦那様。ダルクの言っていたことは……本当に、領地の皆さんが困ることになりますか」
「領地のことは、気にしなくていい」
静かな声が、私の言葉を遮った。
「それは俺の務めだ。お前が背負うものではない」
「でも……!」
言いかけた私を、金色の瞳がまっすぐに見つめた。
「ミレイ。一つだけ、聞かせてくれ」
ゼルキウス様は、ほんの少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「お前に、あの男のもとへ戻りたいという気持ちがあるのなら……戻ってもいい」
息が止まった。
(え……?)
この人は、私を二度と離さないと言った人だ。国中に網を張って、国境の橋のたもとまで迎えに来た人だ。
その人が、戻ってもいいと言っている。
「あの男は、お前の母を失って苦しんでいる。お前にとって、たった一人の家族なのかもしれない。お前がそばにいてやりたいと思うのなら、俺に止める権利はない」
淡々とした声だった。けれど、その指先が、窓枠を強く握りしめているのが見えた。
「だが」
ゼルキウス様の声が、わずかに低くなる。
「もし、お前が戻りたくないと言うのなら——」
金色の瞳に、静かな熱が宿った。
「俺は、絶対にお前を渡さない。あの男が何をしようと、たとえ王家が相手であろうと。誰にも、お前を連れて行かせはしない」
揺るぎない声だった。
脅しでも、命令でもない。ただ、そうすると決めた人の声。
「だから、俺のことも、領地のことも考えなくていい。お前がどうしたいか。それだけを聞かせてくれ」
胸の奥が、熱くなった。
(この人は……本当に、私に選ばせてくれるんだ)
ダルクは、母に一度も尋ねなかった。ここにいたいか。帰りたいか。何を望んでいるのか。
けれどこの人は、手放したくないと痛いほど伝わってくるのに、それでも私の答えを待っている。
戻りたくなんてない。
その言葉が、喉元まで込み上げてくる。
けれど、ダルクのあの目が、頭から離れなかった。母の部屋も茶器もそのままにして、ひとりで広すぎる屋敷にいる人。
憎いはずなのに。怖いはずなのに。あの目を思い出すと、胸のどこかがちくりと痛む。
「……少しだけ、考えさせてください」
やっと絞り出した声は、震えていた。
「ちゃんと、自分で答えを出したいんです」
ゼルキウス様は、何も言わなかった。責めることも、答えを急かすこともなく、ただ静かに頷いた。
「七日ある。ゆっくり考えればいい」
その声が、なぜか今夜は、少しだけ温かく聞こえた。




